10.誰かの日常を守ること
夜。
マリアンネがいつものように店へ向かって歩いていると、ちょうど見回りに出るらしいレオンといつぞやの部下二人に出くわした。
目が合って会釈すると、部下の一人がなぜかもう一人の背を押し、レオンに何か告げながら親指を立てて駆けて行ってしまう。まるで気を利かせて二人にしてくれたかのように。
あの夜の誤解は解いてくれたのではなかったのか。
残されたレオンが苦い顔で近付いてくるので、マリアンネは立ち止まって腰に手をあて、じとりと彼を見上げてみた。
「……違うんだ。」
「あら、何がかしら。」
「この前の件は確かに説明した。彼らも納得していたんだ」
「では、あの反応は?」
どう考えても、まだ二人をそういう色眼鏡で見ているではないか。
少し唇をとがらせたマリアンネに見つめられ、レオンはくしゃりと赤髪を掻き上げた。
「ガレトへ行くと話してからだ。……その、興味がありそうな者はいたんだが…君が案内してくれると言った途端、皆一様にその日に用事があるのを思い出して。」
「まぁ……」
「妙な気を遣っているならそれは違うと言ってみたんだが、逆に俺が怒られる始末だ。」
「なんて怒られたの?」
興味本位に聞いてみると、レオンは思い出すようにほんの僅か片眉を上げ、どこともない空中を見やった。
軽く組んだ腕を指先でトンと叩き、口を開く。
「鈍い男は愛想を尽かされるとか、他の奴を誘うのはあり得ないとか、二人で行くのが礼儀だとか。…天然もいい加減にしろ、とか……陽向鳥を追うなと言う奴もいたな。それは本当にわからない。」
「ああ、数年前に流行った恋愛小説の喩えね。」
魔物である陽向鳥は太陽が出ている間、常にそちらを向いているという。
二番目の姉が大はまりして、マリアンネにもあらすじやら登場人物の設定やらを語ってくれたものだ。
「太陽ばかり見ている…つまりこちらを見ない相手をいつまでも望んだって仕方がない、という事よ。」
「それをなぜ俺が言われて……ああ、想い人がいるからか。」
「たぶんね。」
脈のない想い人は諦めてシーラを見てやりなさい、といったところだろう。
マリアンネもレオンも、互いにそういう気があるわけではないのだが。
レオンはすっかり困り顔で首をひねっている。
「いっそ、実は親戚だという事にした方がよかったのだろうか。」
「キリがなくなるわよ?」
「冗談だ、半分は。もう日も近いが、どうしようか。」
「うーん…私の友人が現地で合流する、というのは?タイミングが合えば来てくれるかも…」
言いかけたところで、カン、カン、カンと警鐘が鳴り響いた。騎士団の砦近くに魔物が現れた合図だ。
近隣の家から人々が顔を出し、マリアンネと同じように遠い砦の物見台から昇る煙を見る――白色。
「下級がいくらか出たようだな。危険はない」
「ええ。そうみたいね」
ゼイル基地の物見台から昇る煙は、現れた魔物の危険度や状況によって色が変わる。
街の人々は誰もが幼少からその色を教え込まれ、新参者も長く居るようなら周囲が必ず意味を教えるのだ。警鐘が鳴ったら必ず煙の色を見る、それがゼイルに住む人々の常識だ。
「店が混むかもしれないから、私は少し急ぐわ。」
「白でも、影響があるものなのか?」
「危険はないとしても、一人住まいの方が誰かと話したくなって来たりするのよ。いつもの店でいつもの味がする、それが大事なの。騎士の皆様とは別の形で、私達も誰かの日常を守ってるという事ね」
「…なるほど。」
それはレオンには――ユリウスには思いつかない事で、実に彼女らしい考えだ。自然と口元に笑みが浮かぶ。
シーラ・クラインの在り方を、ユリウスは一人の人間として尊敬している。
「じゃあねレオンさん、また後で!」
「ああ。」
元気よく手を振って踵を返し、シーラは小走りで遠ざかっていく。
すれ違う街の人々が彼女を見て笑顔で声をかけ、挨拶を返す後ろ姿が小さくなっていった。
「……『また後で』か。」
今日も店に行く気だとは言っておらず、約束もしていない。
それなのにああ言ったのはきっと、彼女が思う日常の「誰か」に自分も入っているからだろう。いずれいなくなるとしても、今は。
――…ゼイルでの任務は長かったな。
レオン・エーヴェという男など、本当は存在していない。
いずれ任務を終え、異動という名目でここを去り、レオンの名と姿で会う事は二度とないだろう。ここで出会った友人達も、部下や上司も、顔馴染みとなった街の面々も。
これまでの感謝を述べて街を去るその時は、偽りの「またいつか」を言うべきなのだろうか。
正解を探すのはまた今度にしておいて、ユリウスはとある部下の姿を思い浮かべた。
「そこにいるだろう、アレックス。」
「――…、はい。」
家屋の影から声がする。
ユリウスが誰もいないそこを見やると、影の中にどろりと黒色が溢れ出し、すぐに隆起して人の形を取った。水のようにその肌や騎士服の表面を伝い落ちた黒は、後には何も残さない。
さっぱり切った黒の短髪に茶色の瞳。
顔立ちはまだあどけなさが残るものの、目つきは鋭い二十二歳。ゼイル基地におけるレオンの部下の一人であり、先程同僚に背を押されて立ち去ったはずの人物だ。
気まずそうな顔をしたアレックスに、レオンは先に「怒る気はない」と告げた。
アレックスが来たのは終盤だし、聞かれて困る話はしていない。
「…盗み聞きをしました。申し訳ありません」
「俺が騙されているのではと思ったか?」
「いえ、その……シーラさんの事は、隊長がいらっしゃる前から知ってます。彼女に限ってそれはない、とは思いましたが……。後は、色んな奴をガレトへ誘っておられた割に、僕には声をかけなかったので。…なぜかと思い。」
「うん?そうだな。君には声をかけなかった」
レオンにきっぱりと返され、アレックスが細い眉を顰める。
偶然ではなく意図的に自分だけ外されたのだ。自分の何が悪いのかと問い詰めたい気持ちが治まらず、腹の前で拳を握り締めてレオンを見据えた。
「エリーサベトやソフィーの事も誘ったのに。つまり女だからではなく、僕個人の何かが悪いのですか。それとも頼りないと?僕は…」
「頼りないというか、君には別件を頼みたかった。」
「え」
どんどん深くなっていた眉間の皺を消し、アレックスはきょとりと瞬いた。
徐々に見開かれた目は輝き口元はにやけそうにひくつき、ほぼまっ平の胸にドンと拳をあてる。
「この僕にお任せを!」
「まだ内容を言ってないが」
「遂行不可能な任務など、エーヴェ隊長は命じません。なればこのアレックス・ボルスト、必ずやご期待に応えてみせましょう。この命に代えても!」
「命を守りつつ任務を遂げてほしい。」
「はい!」
すっかり機嫌を直したアレックスはやる気に満ち溢れていた。
レオンに手招きされて大人しく従い、ぼそぼそと小声で告げられた内容を聞いて顔色を変える。一歩離れてレオンを見上げ、本気だと察して唾を飲んだ。
「……なぜ…そんな事を。」
「何も起きないならそれでいいし、何もない事を祈っていて構わない。」
「隊長は、いつからお疑いになっていたのですか。」
「明確な時期はないが、薄い疑念も重なれば色濃くなる。それだけの話だ」
「…わかりました。忍ぶのであれば、確かに僕が適任でしょう」
アレックス・ボルストが有するのは身隠しの魔法。
影の中に身を潜め、その状態で影から影へ飛び移る事もできる。普段は魔物相手の斥候として、敵全体の把握や巣穴の特定でも活躍している騎士だ。
「当日は休暇申請し、誰にも言わず調査して参ります。」
「頼んだ。無理はしないように」
「はっ。」
レオンから個人的に任務を受ける事など初めてで、アレックスは誇らしくもあり、調査結果によってはゼイル基地が荒れるという不安もある。
けれど、疑わしい者は調べなければならない。白なのか、黒なのか。
緊張でどくりと鳴る胸を押さえつけたアレックスは、ふと先程見たシーラの笑顔を思い出した。
アレックスが任務でへとへとになって店へ寄った時、失敗して落ち込んだ時、活躍して顔のにやけが上手く止められない時だって、シーラは店主夫婦と共に笑顔で迎えてくれていた。
予想だにしなかった、『私達も誰かの日常を守ってる』という言葉。
騎士でもない女の身では遠いだろうに、悩むレオンのためにガレトを案内するという優しさ。
彼女に悲しい顔はしてほしくない、素直にそう思っていた。
「……隊長。聞いていいものか迷うのですが」
「何だ?聞いてくれて構わない。」
「もしや、シーラさんと出かけるのは……単なる口実作りなのですか?」
「丁度いいきっかけだと思ったのは確かだが、それが全てでもない。複数の理由あっての事だ」
「そうですか。…いえ、やはり聞くのは出過ぎた真似でした。」
レオンの友人関係、あまつさえ誰かの恋心が絡むような話だ。
想い人を忘れられなかろうが、ただの友人だろうが、シーラの想いがどうだろうが、アレックスがあれこれと心配して口を出すものではない。
それは本人達に任せようと決め、改まってレオンを見上げる。
「ところで、先程はなぜ僕がいるとわかったのです。」
「うん?」
「隊長からは影としか見えなかったはず……気付かれた理由を知らねば、安心して任務に向かえません。」
「ああ……君は、影と同化した状態の自分をよく見た事がないだろう?ほとんどわからないが、家屋の影とは僅かに濃さが違ったんだ。影の中を移動する間は特にだが、それを見たのと君の魔法を知っていた事から予測を立てた。」
「影の濃さ……初めて言われました。」
わざわざ低い位置に鏡を置いて魔法を使うなど、した事がない。
影に潜んだ自身を見た事がないのは当然で、けれど今まで誰も気付いていなかっただろう事だ。
――やはりエーヴェ隊長はすごい。小隊長で終わる器ではない…いずれ高みに行くお方だ。僕は、尊敬する貴方の役に立ちたい。
「検証し、以後気を付けたいと思います。」
「改善できるかどうかは、魔法の特性にもよるものだ。難しい場合は自分を責めるのではなく、工夫ができるか探ってみるといい。」
「はい。ありがとうございます」
きっとやってみせると示したくて、アレックスは口角を上げる。
レオンに命じられた調査の中で、知りたくなかった何かを知ってしまうかもしれなくても。
「尾行捜査は僕にお任せを。お戻りになった時、見聞きした全てを確実にお伝えします」




