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FILE.1-1 恋人と死神①

「あっ……」

 そんなふうに声を上げた時にはもう遅かった。

 今日の授業が終わり、僕はいつものように学校からの帰り道を歩いていた時のことだった。

 この春、無事に高校へと進学した僕は、桃色に色付いたアスファルトを眺めながら、桜の花びらが舞う駅のロータリーを一人歩いていた。特別何かがあるっていうわけじゃない。ただ朝に歩いた道を再び歩く。

 ただ、それだけだ。

 帰宅するサラリーマンや幼子を連れた母親、レポートに追われる学生その他を乗せた電車がホームに近づいては離れていく。

駅から出た僕の額にぴちょん、と水がかかった。僕は反射的に空を見上げる。視線の先には、朝から変わる様子のないどんよりとした厚い雲が不機嫌そうに空を覆い尽くしていた。

 すると案の定、すぐにぱらぱらと雨が降って来た。乾いたアスファルトに、一つまた一つと黒いシミが増えていく。

「どうしよう……。傘、もってないや」

 僕は真上に広がる黒く重々しい雲に八つ当たりすることもなく、ただ静かにそう呟くだけだ。周りに目を転じれば、走って家路に向かう人や、早々に諦めて近くのコンビニに駆け込む人もいる。

 でも、僕はそのどちらでもない。

「……。まぁ、仕方ないか」

 カリカリと軽く頭を掻いて、多くの人々が走る中を、僕はただふらふらと歩くだけだった。なぜなら、降り注ぐ雨が僕の錆ついた心を綺麗に洗い流してくれるような気がしたから。

 などということは欠片もない。

 雨は嫌いじゃない。

 でも好きでもない。

 言ってしまえばその程度のことでしかないのだから。



「……うん? なんだろう、これ」

 僕がその小さな看板に気づいたのは、まだ小雨がぱらぱらと降る中をただぼぅっと歩いていた時だった。どこをどうやって歩いていたのかさえ判然としない。先ほどまで駅前にいたのに、気づけば繁華街の裏路地――しかも道が蛇のように入り組んだ文字通り『普段近寄らない場所』に僕はいた。雨が降っているからか、僕と同じように道を歩いている人はいない。裏路地という普段人通りが少ない場所に、それに輪をかけて人がいないのだから、その場所は真夜中の暗い夜道のような静けさに溢れている。いつもは素通りしてしまう道も、今は初めて訪れたかのように僕は周囲に目を向けていた。

 だから、たぶんそんなふうに歩いていた僕がこの看板に気づけたのは奇跡に近いものなのかもしれない。

 そんなことを思いつつ目の前の看板を見ると、そこには小さな文字でこんなことが書きつけられていた。

「――あなたの『不幸』買い取ります」

 ただそれだけだった。茶色の木製扉の前には小さな看板が出ているのみ。店名もなければ、営業しているのかどうかも分からない。扉にある小さな窓から覗き込んでも、店内が暗いためか人がいるのかどうかもわからない。

「どういう意味だろう?」

 まじまじと食い入るようにその看板の文字を見ながら、僕はふと首をひねった。なぜか?

 それは、看板に書かれた『不幸』という文字が妙に気になったからとしか言いようがない。

 しかも、それをわざわざ『買い取る』とまで書かれているのだ。僕は「『不幸』とは、お金を出して買い取るものだろうか?」と思わず考えてしまう。少なくとも僕の知っている『不幸』とはあまりにもかけ離れたその看板の内容に、一瞬ながら思考停止に陥りそうになる。

「……誰かいるのかな?」

 普通の人なら、そんな怪しげな看板を目にしただけでその場を去るだろう。またはその意味不明な言葉に、言い知れぬ不安感さえ抱く人も中にはいるかもしれない。

 ただ、僕にはそんなものはどうでもよかった。

「すみません」

 僕は扉の前にぶら下げられた札が『OPEN』となっていることを確認し、ガチャリと扉を開けた。蝶番が錆かけているのか、ギィッと今にも壊れそうな音が耳の中にするりと入ってくる。そんな古めかしい扉を開けると同時に、カランカランとカウベルの音が静かに店内にこだましていった。

 どこからか「そんな危なっかしいところにわざわざ入らなくてもいいんじゃないか?」という声が聞こえてきそうだ。

 でも、僕には小さなことだ。

 そんなことよりも、僕は「どこか雨宿りできる場所さえあればいいかな」と思っていたので、まぁ結果的には好都合だった……ということだけなのだから。



「なんだ? 客か?」

 部屋の奥の方からひょっこりと顔を出したのは、僕より小さな女の子だった。

「えっ? い、いや……。違います。ただ僕は『どんなところかな?』って思って」

「なんだ、客じゃないのか」

 チッと小さく舌打ちした少女は、奥に戻ると数分も経たないうちに僕の方へとやって来た。その手には小さなマグカップを持っている。興味がないのか、僕の方をちらりとも見ない。

 湯気が出ているそのカップをテーブルに置いた少女は、店にやってきた僕に「さっさと帰れ」と言うこともなく、ただ目の前に広げた本に没頭し始めた。

 僕は入り口で立ったまま、ただその少女の様子を眺めていることしかしない。

 ちらりと外を見やると、先ほどまでぱらぱらとしていた雨はその強さを増し、今や土砂降りの雨模様に様変わりしている。この雨の降り方からして、おそらくあと数時間は止むことはないだろう。そんな窓から見えた景色を眺めながら、僕は「あぁ、洗濯物出しっぱなしだったな」と場違いなことが頭に浮かんでいた。

「……いつまでそこに突っ立っているつもりだ?」

「どうかしたの?」

 そんなことを考えていたからか、ふと聞こえてきた声に僕の反応が一瞬遅れた。

「ただ立っているのも何だろう、と言いたいのさ。座ったらどうだ? 席は空いているぞ?」

 確かに少女が指摘するように、席は空いている。というより、店内には僕と目の前の少女以外誰もいなかったのだから、当然といえば当然だけれど。

「それもそうだね」

 僕は促されるかのように、少女の真向かいの席に座った。ギシッとソファから音が聞こえたが、僕は構わず店内を見回した。

 その店の中は、思わず「ここってお店だよね?」と聞きたくなるほどの内装だった。

 いや、言い換えればひどくごちゃごちゃとして片付けられていない、と言った方が正確だろうか。ふらりと店の中に入って来た僕は、まるで異世界に迷い込んだ「アリス」のよう。

 ただ、残念なことに、ここには気まぐれな猫やトランプの兵隊はいない。

 いるのは小さな白髪の長い髪を腰まで垂らした少女ただ一人。

 でも、もともとここは彼女の店なので、僕はあえて「片付けたら?」とは言わないけど。

 店の中央には黒革のソファが一組、テーブルを挟んで置かれている。また、壁にはわけのわからない絵画がひしめき合うように飾られ、大きな古い柱時計がチクタクと時を告げている。少女の後方、入口から見て奥の方には小さな机と椅子が一組、隠れるように置かれている。

 ふと耳をすませば、時計の音に紛れてかすかに音楽が流れているのが分かる。打ちつける雨音にも隠れるようにして聞こえてきたのは、サックスとピアノの音だ。たぶんジャズなのだろうが、僕にはその演奏者も曲名も分からない。

 いや、別に分かったところで特に何もないのだけれど。

「……なぁ、一つ聞きたいんだが」

「何かな?」

「キミはどうして訊ねないんだ?」

「何を?」

「『どうして不幸なんてものを買い取っているのか?』ってさ。キミは先ほど言っただろう? 『どんなところかな?』と思って来たのだと。さっきからそこに座ったままじゃないか」

「そういえばそうだね」

 というより、指摘されて初めて「あぁ、そうだったかもしれない」と思う。僕はたぶんこの店内に流れるゆったりとした空気に溶けてしまったのかもしれない。

 それはちょうどコーヒーに加える砂糖やミルクのように。

 少女にそんなことを言われるまで、自分がどうしてここを訪れたのか……その目的でさえ既にどうでもよくなってしまっていた。

 それほどまでにこの店内と少女の姿が「異質」だったから。

「まぁ、今ここで言う必要はないと思うが……こんな間抜けな人間は初めてだ」

「そうなんだ」

 僕は間抜けなのか、と初めて思えた。今まで僕をそんなふうに評価した人はいなかったから、その少女の言葉は僕にとってひどく新鮮に思えてならなかった。

 これが僕以外の人間なら、「失礼だな!」とか、「馬鹿にするな!」などと言って怒るかもしれない。いや、むしろその方が普通の正常な人間の行動だろう。

 けれど、僕にはそれが分からない(・・・・・)

「まぁ、キミに対する評価はココではどうでもいいか。それよりもまず、あの看板のことだが――率直に言おう。私は人間ではないんだ」

 そんな言葉をさらりと吐きつつマグカップに口を付けた少女は、さっきから一切僕の方を見ることはなく手元に広げた本に目を走らせたままだった。たぶん、僕以外の人だったのなら、「話すなら相手の目を見て話したらどうだ!」と怒るかもしれない。

 ただ、僕は《怒る》ということがどういうことなのか分からなかったので、あえてそんなことを指摘することはしない。

 僕と目の前の少女の間には、ひどく静かでのんびりとした空気が漂うだけだ。

「そっか……人間じゃないんだ」

「あぁ」

「それじゃあ君は一体何者なの?」

「私はただの死神さ」

 朝に「おはよう」と交わされる挨拶のように、少女は自分の正体を至極あっさりと僕に告げる。そのまるでリアリティのない言葉に、誰もが「嘘でしょ?」と聞き返すかもしれない。

「ふ~ん。……そうなんだ」

 けれども僕は特に驚きも感動も疑いもせず、ただ淡々と頷くだけだった。驚かせようとした方から見れば、たぶん僕は相当に「つまらない」と分類(カテゴライズ)される人間なのだろう。

なにせ当の本人は眉一つ動かさず、のっぺりとした感情という感情が全く読めない文字通りの「無表情」のままなのだから。

その裏には「信じる」ということもなければ、「疑う」ということもない。どうしてか?

それは彼女が「私は死神だ」と告げたところで、僕に不利益を生むことはないからだ。別に被害がなければ「信頼」も「疑念」もいらない。

周りにいる人から「その眼窩に埋められたモノは本当に目玉なのか? 義眼じゃないのか?」と言われそうな二つの眼で僕は目の前に座る少女を観察する。よくよく見れば、人間とは少し違う相貌だということに今さらながら気づかされた。

 目の前の少女は、白く長い髪に赤い目。肌はきめ細かく、まるで白磁の陶磁器のようにふれれば壊れてしまいそうだ。その肌を隠すかのように、今は黒のゴスロリ服を身にまとっている。ところどころ覗かせる白い肌に、黒い喪服のようなその衣装は「まるで最初からそれが一番似合う格好だ」とも印象を抱かせるように全く違和感がない。

「驚かないのか?」

「驚くって……なぜ? 何に?」

「だって、私は死神だぞ? 人間とはかけ離れた存在だぞ? 死を司り、人々から恐怖と畏怖を込めて呼ばれる存在だぞ? 普通の人間は驚いたり疑ったりするものではないのか?」

「そうなのかな? でも、僕は《驚く》というのが、一体どういうことなのか分からないんだ」

「分からない、だと?」

 ここで初めて少女は僕に関心が移ったようで、読みかけていた手元の本を閉じてまじまじと僕を見つめ出した。少女の持つ二つの赤い瞳が僕を射抜く。

「驚くだけじゃない。僕には全然分からないんだ。喜びも悲しみも怒りも楽しむということも。僕は無感動で無関心で――『心が壊れている』らしいよ」

「心が壊れている?」

 まるで面白いものを見つけたと言わんばかりに、少女の赤い瞳が輝きを帯びる。僕にはその赤く輝く瞳が、どこかの店に展示されているような宝石に思えた。

 僕は「宝石のようだ」と喩えてはいるが、それは「美しい」とか「綺麗だ」などと思ったからということではない。ただ単純に見たままを伝えているだけでしかない。

 なぜなら、僕には分からないのだから。

「まぁこれは他人が言ったことだけどね」

 そう。他人から言わせれば、僕は「心が壊れている」ということらしい。

 良く言えば冷静沈着。

 悪く言えば感情崩壊。

 それが僕という存在の《定義》だ。人間に定義を求めるのは可笑しいかもしれない。もっと他に人間らしい性格だとか特徴だとかがあるのかもしれない。

けれど、こればっかりはしょうがない。どこまでいっても、僕は僕でしかないのだから。

「医者にも診てもらったけれど、『身体に異常はないし精神も極めてフラットだ』って。でも、僕には分からないんだ。哀しい、ということが分からない。怒る、ということが分からない。愉しい、驚き……そういった感情という感情が欠落して機能しなくて、壊れているんだってさ。僕に唯一許されたもの――。それは疑問に思う、ぐらいかな」

 肩を軽く上げて「変でしょ?」と自虐的な笑いを誘う僕に、「そうか」と少しばかり目じりを下げる目の前の少女、いや死神はどこか面白そうに僕の顔をまじまじと見つめた。しばらくの間僕を見つめていた彼女は、続いて少しばかりその口元を緩ませた。

「なるほど……。いやむしろ壊れているからこそ、ここの場所が分かったのかもしれないな」

「どうしたの?」

「いや、何でもないさ。それより……キミの名前は?」

「僕? 僕は黒雛(くろひな)(まこと)

「そうか。ではマコト」

「うん」

 数瞬の間を置き、少女はためらいもなく、臆面もなく、僕のことをしっかりと見据えたまま言った。

「――お前はこれから私の助手だ」

 その少女の言葉は、カチコチと時を告げる柱時計の音と共に、部屋の中を漂って溶けた。



「聞いてもいいかな?」

「いいとも」

 どうぞご自由に、と言わんばかりの余裕の表情を浮かべながら、少女はそんな言葉を紡いだ。

「……なぜ僕が? 言ってはなんだけど、キミの助手なら他の人でも務まると思うよ?」

 僕のもっともな質問に、目の前の少女はくすくすと頬を綻ばせる。

「いや、私はキミだから選んだんだ。なぜなら――キミが人間の中で『稀有な』存在だからさ」

「そうかな?」

「そうだとも」

 そんなことを言いつつ、自らを《死神》と名乗った少女はマグカップを口へと運ぶ。実際、僕はどうすればいいのか分からなかった。僕を『壊れた』と表現する人はこれまでに数多くいた。けれど、『稀有な』存在だと言われたのがこの瞬間が初めてだ。

 初めてのことについては、どうすればいいのか。僕にはその対処方法が思い浮かばなかった。

 どうしようか、と腕を組んで思いあぐねていた僕に、目の前の死神はこう口火を切った。

「こう言ってはなんだが……私の助手をすれば、キミにとって学べることが多いと思うぞ?」

「どうして?」

 少女の告げた「学べる」という言葉に、僕はさらに踏み込む。興味や好奇心があったわけじゃない。ただ純粋に疑問に思っただけだからだ。

「それはキミの言う『分からない』ことが学べるからさ」

「本当に?」

「本当さ。神様は嘘をつかない」

「僕の目の前にいるのは死神だけどね」

 その言葉に、少女の口元がかすかに緩む。

「キミは相当に性格が悪いな。……私と同じく」

「そうかな? そんなことを言われたのは初めてだけど」

 僕の言葉に「自分で自分のことなんか分かるわけがないだろう?」としたり顔で少女は呟く。

 耳を掠めていくその声に、僕はゆっくりと首を縦に振った。

「キミが言った通り、私は死神だ。ただ、死神だって神様と同じものだろう?」

「……そうかも」

「それで? キミはどうする?」

「……分かった。やるよ。こんな心が壊れた僕でいいのなら」

「壊れているからこそいいのさ」

 僕は少し考えた末に、その申し出を受諾した。目の前に座る少女は僕の答えを聞くと、どこか嬉しそうにマグカップに口を付けた。

 なぜ僕はその申し出を引き受けたのか?

 なぜなら分からないことが学べるのならそれはそれで僕にとっては有意義なことであったし、さらに言えば、僕は暇を持て余していたとも付け加えられるからだ。

 そう。これは僕にとって単なる暇つぶしの延長線上にあるもの。

 そして僕の学びの場でもあるらしい(少女の言葉を借りるのなら、だけど)。

「よろしく頼むよ。私はイル。死神のイルだ」

「よろしく。僕は黒雛(くろひな)(まこと)。マコトでいいよ」


 こうして僕と死神は出会った。たぶんこの時、僕の方向性は定まったのかもしれない。

 それを象徴するかのように、どこかで大きな歯車が回ったかのような音が聞こえた。

 ような気がした。気がしただけで特に何もないのだけれど。


「ところで、キミは何かの病気を持っているの?」

「なぜ?」

「だって、名前が病気(イル)なんでしょ?」

「さぁ? どうだろうね。私には分からないことだよ。だが、改めてそんなことを指摘されるとあれだな……。私は一種の病気を持っているのかもしれないな」

「どんな?」

「まぁ、あえて名前をつけるとしたら……そうだな。人間考察病とでも言おうか」

「なんだいそれ? そんな病名、初めて聞いたけど」

 僕の疑問に、イルはくすりと笑い「だってたった今考えたのだから」と軽く前置きした上でさらに話し始めた。

「名前の通りさ。私は人間の行動、思考、価値観……その他様々なものについて考えることが好きなのさ。それこそ病的なほどにね」

「ふ~ん。その病気は治るの?」

「さぁ? 今のところ治療する考えはないがね。仮に私がそんな病気を抱えていたところで、キミに何か実害はあるのかい?」

「ないと思う」

「それじゃあ治療する意味はないだろう? 害のないものを治療しても、それは結局無意味な行為に他ならない」

「……そうかもしれないね」

 僕は目の前の少女から、視線を外に移す。気づけば土砂降りの雨はいつの間にか止んでいた。

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