FILE.7-2 真実と死神②
「人間は《絶対》を求める奇妙な生き物だ。『絶対安心』、『絶対ヤセる』、『100%満足のいく』云々。キミだって見聞きしたことぐらいはあるだろう? そんな宣伝文句のついた言葉は嘘だと誰もが疑いを持ってかかる。けれども実際はどうか。手を出してしまう人間は少なからず存在する。でなければ《詐欺》という犯罪は根こそぎなくなっているはずさ。彼ら彼女らはなぜ引っ掛かってしまうのだろうか。『そんなのは絶対に違う』と頭では分かっているのに」
僕はその言葉に頷いて見せた。人は誰でも「絶対」だとか「100%」どうこうとか、そういった「確かなもの」「揺るぎないもの」を求める傾向にある。
けれども「この世に絶対はない」とほとんどの人は言うだろう。そんな宣伝文句に踊らされて悲惨な目にあう人を見ると、「それ見たことか」と笑うこともあるかもしれない。
心の底ではそうかもしれない。理屈として、頭では分かっているのかもしれない。
でも、現実として手を出してしまう人はいる。「絶対」という言葉の魔力を信じて。
「巷に溢れる《情報》は、すでに誰かが加工した『手垢』のついたものなのさ。というより、情報は加工しなければ単体では意味がない。だってそうじゃないか。それは単なる事実の羅列に過ぎないのだから。加工し、組み合わせ、意味を付加して初めてそれは他者に発信する意義があるというものだよ」
「まるで料理みたいだ」
僕の感想に、イルは「そうかもな」とあっさり肯定した。続けて「加工を施す者によって、その情報は上手くも不味くもなる」と。
イルの言葉を聞きながら、僕は頭に思い描く。
それはありとあらゆる「事実」を煮込んだ鍋から、どのように皿へと盛り付けるか……という工程だった。
客――つまり情報を受け取る側の人間――に向け、今ある情報をどのように加工し、皿へと盛り付けるのか。
発信する側の人間は料理人。
提供するのは皿に盛りつけた情報。
受信する側の人間は料理を食べに来た客。
「……でも、こんなに情報があふれているのなら、僕らはすでにお腹いっぱいで食べられないと思うよ?」
「大丈夫さ。モノにはランクがあるのだから」
「ランク?」
イルはマグカップを片手に、にんまりと僕に笑いかけた。ぐびりとコーヒーを一口あおると、短くなった煙草を口へと運び、煙を肺に満たしていく。
「そうさ。『価値』と呼ばれるランクがね」
イルは煙を吐き出しながら、ゆっくりと流れていく煙を見つめる。僕もそれに倣うように、イルが吐き出した煙草の煙を見つめていた。
白い煙がやがて薄くなり、やがては空気に溶けて消える。
「モノは価値によってランクが決まる。食料、建物、機械、株価。様々なモノが溢れているが、その価値の付け方は皆一緒さ」
「価値の付け方……?」
「あぁ。では、その価値は何によって決まるのか? ――それは人間の欲望さ」
「欲望?」
「噛み砕けば、それは『人気』であり『需要』と呼ばれるだろうがな」
「需要と供給……」
イルの言葉は僕に一つのグラフを思い描かせる。確か経済の授業の際に見たことがあるものだ。グラフ上に描かれたバツ印にも似た図形。
右肩上がりの線が供給曲線。
逆に下がっていく線が需要曲線。
需要と供給。それによって市場内の価値――つまり価格が決まる、というものだ。
「価値の高い情報は食いでがある。逆に価値の低い情報は中身がスカスカ。玉石混交の情報化社会では、情報にランクを付けて取捨選択する必要があるのさ。『価値』というのは、その情報が得るに足るものなのかどうかを見極める一つの尺度、というわけさ」
「でも、取捨選択とは言うけれど……。価値のないものもあるんじゃないのかな? 無価値のものなら、別に選ぶ必要もないし、第一誰も見向きもしないと思う」
「何を言うか。無価値も価値の一つだろう? なぜなら、《価値が無い》という価値をそこに見出しているのだから」
「無価値という《価値》……」
「そうさ。全てに価値があるから、面倒だけれどランクを付けて順位を付ける必要があるのさ」
「ふ~ん……そうなんだ」
「情報があふれ、取捨選択しなければならないという制約の中では真実なんてものは皆無に等しい」
「どうして?」
「どれが真実なんて分からなくなるからさ。……というよりも、本音を言ってしまえば真実なんてなくていいんだよ」
「なくていいの?」
「あぁ。真実なんてないさ。分かるだろう? 情報があふれている、しかも似たようなものがそこここにゴロゴロ転がっているんだ。もし、真実というものがあったとしても、それは他と区別なんてできないだろう?」
確かに、と僕はイルが言わんとしている意図が分かったような気がした。真実を見つけ出すのは砂漠から一粒の砂金を見つけるようなもの。
どれだけそれが輝きを放つ黄金の粒であっても、同じような砂粒が大量にあるのなら、その難易度は十段の跳び箱を飛ぶことよりも格段に跳ね上がる。
「いいかいマコト。確かにキミが言ったように、今ではネットでも情報が世界中を飛び交うような時代だ。瞬時に世界中を飛び交う情報は、それこそ誰もいない砂漠で人と出会うよりもはるかに目にする確率は高いのかもしれない。だから、大切なのは何を選び、どのような判断を下すかなのさ」
「なるほど」
「だから私は言ってやりたいんだ」
「誰に? 何を?」
「それはね――」
一瞬の間を置いたイルは、いつものように口の端を上に吊り上げ、悪戯っぽい笑みを浮かべながら僕にささやきかけた。
――真実? 真理? 何だいそれは。そんな「くだらないもの」に拘って前へ進めないのなら、いっそのこと捨ててしまえばいいだろう? あるとすれば、キミが何を思いキミがどう行動しようがそれは自由だということさ。身体は縛れても心は縛れない。やればいいじゃないか。存分に。キミの想いを縛れる存在は何もないのだから。
「それ、誰の言葉?」
「私の持論さ。誰の言葉でもない」
「ふ~ん。死神でも思うところがあったんだね」
僕がそんな言葉を呟きながら、マグカップのコーヒーをすすっていると、目の前の死神は新しい煙草に火をつけ、白い煙と共に言葉を紡ぐ。
「別に私が持論を持っていても良いだろう? 神様は何もしないから神様だと言えるが、別に思考回路がショートした狂人でも廃人でも何でもない。こんな人間の世界を見ていれば、それなりに思うことはいろいろあるさ」
「神様は悩み多き存在、というワケか……」
「キミは人間だろう? キミだって悩みぐらいあるだろうに」
「僕? ……だって僕は悩むということが分からないもの」
「それもそうか」
ニヤニヤと笑みを浮かべながら、イルはどこか満足そうに紫煙を燻らせていた。
◆
カチコチと静かな音が店内にこだまする。ここにいると「時間って思っていたよりもゆっくり流れているんだな」ということに気づかされるくらいだ。
ちらりと店内を見回すと、イルは読みかけていた本を開いて文章を追うことに没頭していた。一方の僕はいつものように机で宿題を片付け、この店の残務処理に追われている。
残務処理、とはいうもののそれはたいしたことじゃない。
「うん? マコト。キミは一体何をしているんだ? 宿題なら終わっただろう?」
「何って、残務処理だよ。業務日誌を付けているんだ」
「業務日誌?」
「今日あったことを事細かに日誌として残しておくんだよ。どんな依頼があって、どんな応対をしたのか。不幸を買い取ったのなら、その査定額はいくらでどれほどの出費をしたのか」
「そんなこと、つけて何のメリットがあるというんだ?」
「いろいろだよ。これを蓄積していけば、どんな不幸にはどれほどの査定額を支払ったのかという基準も決められるだろうし、日々の収支をつけておけば財務管理もできるしね」
「キミは簿記の資格でも持っているのかい?」
「まぁね」
「驚いたな。身近にこんな有能な存在がいたとは」
「……というより、ここはイルの店でしょう? 自分の店の経営ぐらい、自分で管理してもいいんじゃないの?」
「面倒だ。それに、これまで困った事態には陥っていないからな」
「……まぁ、別にここは僕の店じゃないからどうでもいいと言えばそれまでだけど」
「正直だな」
「そうかな?」
イルはその言葉を最後に、僕に声をかけなくなった。チクタクと時を刻む大きな柱時計の音とペンを走らせる音が静かに店内に響いていく。
「よし、終わった。……僕はコーヒーを飲むけど、イルも飲む?」
「あぁ、いただこう」
「わかった」
僕は最後の一行を書きつけると、日誌をいつもの場所へと戻しコーヒーを淹れにキッチンへと足を向けた。
日誌の最後の一行にはこう書きつけた。
『今日も僕の分からないことが学べた一日だった』
僕は「心」が壊れてしまった人間だ。
――僕には分からない。泣く、ということが分からない。怒る、ということが分からない。愉しい、驚き……そういった感情という感情が欠落して、機能しなくて、壊れている。
そんな僕に死神の少女はこう言った。
――キミは人間の中で〝稀有な〟存在だ、と。
僕のことを「稀有」だと認めてくれたのは、この少女が初めてだった。出会う人は皆、僕のことを「壊れた」と表現する。
異常な存在だとして忌避する。
でも、それでも認めてくれたのはこの死神が初めてだった。
そして、その死神の少女は加えてこう告げた。
――お前は私の助手だ、と。
突然の指名に、最初は慣れなかったこの仕事にも徐々に対応できるようになって来た自分がいる。
――キミの言う『分からない』ことが学べる、と。
僕はこれまでいろいろな依頼人と出会い、数々の話を聞いて来た。
それは恋人の話であり、我が子の進路を心配する母親の話であり、時にはヤクザの男性や歌を歌うミュージシャンの女性でもある。
彼ら彼女らはそれぞれに様々な不幸を抱え、イルと僕のいるこの店へとやって来た。
僕はその依頼人の話を隣で聞いていたに過ぎない。
何かをしたワケじゃない。
言葉で彼らを励ましたこともない。
「僕は僕なりに、前へ向いて歩けているのかな……?」
ゆっくりとサイフォンの中に溜まっていくコーヒーをぼうっと眺めながら、僕はそんな言葉を呟いていた。
僕はきちんと前に歩けているのか。
それとも、立ち止まっているのか。
「歩けているさ。少なくとも、マコト。キミは他の誰よりもしっかりと地に足を付けて歩けているよ」
僕の言葉が聞こえたのか、いつの間にか隣には白髪の長い髪を垂らした死神――イルがその赤い瞳を僕に向けていた。
「そうかな?」
「そうだとも。キミ特別に神様の授業を受けているのだからね。進んでいなければ私の方が困るよ」
「神様、とは言っても僕の隣にいるのは死神だけれどね」
「あぁそうだとも。私は死神さ。人が恐れ、畏怖し、〝死〟という人間にとって最悪の事象をその名に冠した神様だ。だが、死神だって神様の一つだろう?」
「確かにね」
「その神様が保証するんだ。別に考えるほどでもないだろう? ……それより、キミに頼んでいたコーヒーはまだ出来ないのかい?」
「もうすぐだよ」
「ならよし。出来たらすぐに持って来てくれ」
「わかったよ」
そう言い残して、イルはすたすたとキッチンから出ていってしまった。声がしないところを見ると、また本を読んでいるのだろうか。
僕は出来立ての熱いコーヒーを空のマグカップに注ぐと、両手にもってキッチンを出た。
死神の少女の前に設置されたテーブルに片方のマグカップを置き、僕は彼女の真向かいの席に座る。
「……ムッ。マコト。……このコーヒー、ちょっと苦いぞ」
「そう? 淹れ直そうか?」
「いや、たまにはこれでもいいか。苦い方が思考もはっきりして読めるだろうしな」
「ならいいけど」
淹れたばかりのコーヒーをゆっくりと飲みこみながら、今度はちょっとした甘いお菓子でも一緒に付けようか……とふとそんなことを考えた。
死神が甘いものを食べるのかどうかは分からないけれど。




