FILE.6-2 権力と死神②
「意外かい?」
いつものように僕が淹れたコーヒーを受け取ると、イルはそれに口をつけながら溢すようにそう呟いた。
「何が?」
「私がこうして不幸を売っていることが、さ」
「……確かにね。意外、と言われればそうかもしれない。ただ、僕は別にどうもしないよ」
僕はイルに見えるように軽く両手を上げて肩をすくめてみせた。
「それは一体どうしてだい?」
「だって、ここはイルの店でしょう? 不幸を買い取っているのなら、誰かにそれを売っていたっておかしくはないと思うよ? そうしなければ商売として成り立たないから」
それはそうだろう。『不幸を買い取る』ということは、イルからすれば「不幸を得る」という対価にお金を支払うということだ。お金がなければ対価である不幸が買い取れない。イルだってお金が無限に湧き出る道具なんて持っていないのだから、考えてみれば『何かしらのお金を得る手段』ぐらいはあるのだろう。
今日はその手段が分かった、ということでしかない。
「まぁ、それもそうだろうな」
イルは驚きもせずに、僕の話を聞いてくれた。コーヒーをすすり、静かな時間が過ぎていく。
「でも、最後の言葉はイルらしくなかったとも思う。『また会える』って、今まで聞いたことがないけど?」
「あぁ、それか。なぁに、ただの社交辞令さ。私の経験上、ああいう手合いの者はすべからく二度と会うことはないだろうからね」
「どうして?」
「キミも聞いたことぐらいはあるだろう? ――『人を呪わば穴二つ』ということさ」
「人を呪わば穴二つ……」
僕はイルの言葉を繰り返しながら、その意味を記憶の海から手繰り寄せた。
――人を呪わば穴二つ。
その意味は、『他人を呪って殺そうとすれば、自分もその報いで殺されることになるので、墓穴が二つ必要になる』ということだ。
つまり、「人を陥れようとすれば自分にも悪いことが起こる」という喩えで、自分の行動や態度を戒めることにも使われる。
「今回の依頼主は『自分のために』不幸を私から買った。それ自体、私はどうでもいい」
「どうでもいいの?」
「あぁ、どうでもいいね。その辺に落ちている落ち葉ぐらいにね。ただ、私が問題視しているのは、彼の不幸を買い取ろうとした動機であり、目的だよ」
「動機であり、目的……?」
「それって、『ライバルを蹴落とす』ということ?」
「惜しい。だが、いいセンだ」
「何だろう……?」
「それはね、『権力』だよ。彼は権力の魔性に取り憑かれていたからさ」
「権力の魔性?」
「あぁ。彼も言っていただろう? 彼が私の持つ不幸を買い取ろうとしたのは『自分がのし上がるため』なのだと。そのためにライバルを蹴落とし、勝つために不幸を買うのだとね」
「…………」
その説明に「納得できない」という意図を汲んだのか、イルは煙草に火をつけて少し考えた挙句に言葉を重ねた。
「マコト、人間が社会を形成し、それを維持するためには何が必要だと思う?」
「社会を形成し、維持する……?」
「そうさ。キミも社会の構成員ならば知っておく必要があると思うけれどな」
「えぇ~っと……。やっぱり、ルールかな? ルールがないとみんながみんな好き勝手に行動するだろうから」
「なるほど。やっぱりキミは筋がいい」
「どういうこと?」
「ルール、とは規範であり秩序を守るためのものだ。確かにそれがなければ人は好き勝手に行動し、社会は混沌と化すだろう。……だが、そのルールは一体全体誰が作るんだい?」
「誰って……それは社会を構成する人たちみんなでしょう?」
「ハズレだ。それでは生まれたばかりの赤ん坊も含まれる。そんな弱い存在がルールなんて決められると思うかい? それに社会を構成する人たちの大勢は、その決められたルールを『遵守する』存在でしかないのさ」
「そうなの?」
「そうさ。キミのような学生がルールなんて作れるかと思うかい? その辺を歩いているサラリーマンや家事に追われる主婦だって同じさ。彼ら彼女らはただ決められたルールを遵守し、平穏な日常を享受しているに過ぎないよ」
「……それじゃあ、イルの言っている『必要なもの』ってなに?」
「それは――権力さ」
「権力?」
「そうだとも。人間が集まれば、その集団を引っ張るリーダーが必要だ。リーダーがいなければただの集団であり、無秩序な人間の群れでしかない」
「人間の群れ……」
僕はその言葉を反芻しながら、頭の中にその様子を描きだした。さながら、見渡す限りの広大な牧草地でむしゃむしゃと草をはむ牛や羊のように、ただ「なんとなく集まっている」人間達の集団。そこにあるのは自分の好きなように、望むままに振舞う無秩序で混沌とする様子だ。
「社会という一定の秩序ある営みをするためには、ルールが必要だ。いや、ルールだけじゃない。言葉だって何を共通語として用いるか、どこからどこまでが領地なのかを明確にしなければならない」
「そうかもしれない」
「そのためには『参加者みんなで決める』というのも一つの選択肢だ。ルールや言葉、領地やシステムをすべからくみんなで、つまり構成員全員で意見を出し合い、一つにまとめ上げる。……だが、それにどれだけの時間が必要だと思う? 確かに二人や三人、十人ほどの小さな集団ならばそれでもいいだろう。けれども、集団の母体が大きくなれば話は別だ。ハッキリ言えば、少なくとも一週間や一か月で解決できるようなものではないと思うがな」
「そう言われるとそうかもしれないよね。学校で『文化祭で何をするか?』という議題で話し合っても、いろんな意見が飛び交ってなかなか……というよりちっとも話が進まなかったもの」
「あぁ。だから権力が必要なのさ。ある特定の一定人数に「権限」を与え、その権限を持った人々が話し合い、共通の認識として運用する。その方がはるかに効率的で合理的だろう」
「その「権限」というのが、権力なの?」
「広く見ればね。そうした意味では権力というのは社会を上手く運用し、維持するためには有用であり、理にかなっている。ただ――」
「ただ?」
「人間は愚かな生き物でね。それを知っているからこそ、「争い」が生まれるんだよ」
イルの赤い瞳が僕を見つめていた。その気を少しでも抜けば吸い込まれそうになる瞳に、僕は軽く相槌を打った。
「人間は権力の必要性を知っている。その魅力もね。……だからこそ、人が集まれば権力をめぐる争いが生まれる。これはもう必然としか言いようのないほどに」
「そういうものなの?」
「そうさ。歴史を紐解けば、そんなものはごろごろと山のように出てくるよ。別に日本に限った話じゃない。世界中に似たようなものはあるさ。それほどまでに『権力』というのは、魔性を帯びている。怖くて恐ろしい代物さ」
「イルのような死神よりも?」
「私かい? 死神の私なんてまだ可愛げがあるようなものだよ。人間が織り成すドロドロとした権力争いのほうがよっぽど恐ろしいね」
イルはさらりとそんなセリフを吐いた。神様――とはいっても死神ではあるが――である彼女よりも、人間の持つ権力の方が恐ろしいらしい。
いつから人間はそんな風に神様にケンカを売るようになったのだろうか?
「権力におぼれた人間は、必ずと言っていいほど自滅する」
「自滅?」
「そう。権力におぼれた人間は、他人を信じられない。人を利用するだけ利用して今の地位を築いた人間だからね。利用するときは積極的だが、反対に利用されることを極端に嫌う傾向にある。まぁ、常に人の上に立ちたがる人種なのだから、その気持ちは分からんでもないがな」
「そうなんだ……。でも、それと『自滅する』っていうのはどういった関係が?」
「決まっているさ。人から裏切られるんだよ。……キミも分かっているはずさ。この世界は自分一人で生きていけない。必ずどこかで誰かと関わり合いながら生きていかなきゃならない」
「確かに」
そこで僕はすかさず首を縦に振った。これはいつかイルから教わったことだ。彼女から教えられたことに一つ一つ納得し、理解を積み重ねている僕。
こうした変化はイルのおかげなのだろうか、と思ったけれどあえて深くは考えずに先へと流した。
「孤独な存在は無力さ。それは世界から相手にされないことと一緒だからね」
「だから『人を呪わば穴二つ』なの?」
「そうさ。権力という『目に見えない力』を追い求め、他人を騙して欺いて貶めたヤツには、それ相応の報いがあるんだよ。待っているのは孤独と無力さ」
「そういうものなの?」
「そういうものなのさ」
イルは少しばかりにやけつつ、コーヒーを口に含む。静かな店内に漂う仄かなコーヒーの匂いと、「うまい」静かに呟いたイルの声が溶けて消えた。
「他人の不幸は蜜の味、何て言うけれどね」
「うん?」
「それは違う、と私は言いたい」
「なぜ?」
「それは巡り巡って自分の首を絞めるかもしれないからさ。少しばかり分岐条件が違えば、もしかしたら自分の身に降りかかっていたのかもしれない。結果論かもしれないが、今回は自分ではなかったから『運が良かった』と思えるに過ぎないのさ。今は良くても後々自分に影響が起こる可能性だってあるのだからね。同じようなことは誰にでも起こり得るのさ。だからこそ私は疑問に思うんだ。なぜ『蜜の味』などと表現するのだろうとね」
「あの依頼主のように?」
僕はふとそんな言葉が口をついて出ていた。依頼主のあの男は、他人を蹴落として自分がのし上がりたいと言っていた。
それは他人の不幸という「蜜」を吸って生きようとするものなのだろう。
「まぁ、そうだね。そういった意味で言えば、他人の不幸は劇薬さ」
「なるほど。……つまりは『墓穴を掘った』ということだね」
その僕の言葉が琴線に触れたのか、イルは肩をゆすらせ声を出して笑いだした。
「そうかもな。そうかもしれないな。……いやはや、マコトは面白いことを言った」
「そう?」
僕はイルの意図したことがてんで分からず、ただ首をかしげた。
「だってそうだろう? 考えてみれば、《墓穴を掘る》とは面白い言い回しだとは思わないか。なぜ自分は今生きているというのに、これから死ぬ場所をせっせと作っているんだい? 彼は自殺志願者の気でもあるのかい?」
笑いながらそう呟く彼女の言葉に、僕は何も言えなかった。
その数日後、新聞の地方欄にとある議員の不正経理疑惑という記事が載った。顔写真に写っていたのは、あの依頼主と対立していた議員だった。
その数週間後、今度は新聞の一覧にとある議員の公共事業に絡む談合疑惑に関する記事が載っていた。その写真の中心にいたのは、紛れもなくあの店にやってきた依頼主だった。
「マコト、コーヒーを頼むよ」
イルはそんなことを知る由もなく、いつものように僕に注文を出す。
「わかったよ。淹れ方は?」
「濃い目で頼む」
「了解」
そして僕はいつものようにマグカップを手に、奥にあるキッチンへと歩いていった。漏斗を伝ってフラスコの中に溜まっていくコーヒーをぼんやりと眺めていると、ふと一つの疑問が浮かんだ。
――地位や名誉、肩書き、財産。
そんなものを全部取っ払った後に、人には何が残るのだろう?
――それは血と肉と骨と各種内臓でできた、同じ構造を持つ《人間》という種だろうさ。
たぶん、イルはそんなことを口走るのかもしれない。
そう僕は思えてならなかった。




