FILE.5-2 音楽と死神②
「……これで本当に良かったの?」
「うん? 何がだい?」
「彼女の不幸を買い取らなくて、さ」
僕は淹れ直したコーヒーを口に運びながらイルにそう訊ねた。今回イルは不幸を買い取れるはずだったのに、それをしないよう、もしくはさせないようにしていたフシがある。
「まぁ、もともとこの店自体私の趣味のようなものだからね。時にはこんなこともあるよ」
イルはくすくすと笑ってはいたが、僕には分からなかった。
なぜイルは彼女を諭すような真似をしたのか?
「ふふん、マコト。キミは私がどうしてあんなことをしたのかが不思議なのかい?」
「分かるの?」
「いや、そんなに眉間にしわを寄せて首をひねって考えている様子を見たら誰でも察しがつく、というものだよ」
「そうかな?」
僕のそんな呟きに、イルは「まぁいいさ」と一息つき、コーヒーをあおった。
「私から言わせてもらえば、依頼にやって来た彼女は、とても貴重な人材なのさ。だからあえて不幸を買い取らずに帰らせた」
「……貴重な人材? なぜ?」
僕の疑問に死神は薄い笑みを浮かべる。それが《授業》の始まりの合図だ。
「私はキミに言ったね。『人間に与えられた一番の才能。それは――ソウゾウリョクだ』と」
「あぁ、確かに言っていたね」
僕は頷きながら記憶の海に飛び込んだ。依頼主であるミュージシャンの彼女が来る前、イルが僕にそんな事を言っていたような気がする。
想像力と創造力。
これは人間だけに与えられた能力であり、イルが「面白い」と評価するものだ。
人が「空を飛びたい」と願い、想像し工夫を重ね、概念と理論を創造した結果、〝飛行機〟と呼ばれるような夢を叶える乗り物が誕生した。
人が「他者と話をしたい」と望み、試行錯誤を重ね、文字を創造した。それがやがて会話することを可能にした。
「それと同時に私はこうも言ったはずだ。『人間の持つその一番の才能は今や失われていっていると思う』とも」
「そうだったね」
「なぜその一番の才能が失われつつあるのか――それは今のこの世の中が豊かで便利で、ひどく人間にとって都合のいい環境になったからだよ」
「人間に都合のいい環境?」
「考えても見たまえよ。昔は今ほど便利でもないし、豊かでもなかった。人と話すためには遠く長い距離を移動し、直接会わなければならなかった。今やそれも相手の電話番号さえ分かれば直接話すことができる。なにせ番号を押せばいいだけなのだから。会話一つとってみても昔はそれほどまでに手間と時間のかかる不便な時代だった。だからこそ人間は知恵を絞り、想像力を膨らませて現実に対処しようと努力した。……違うかい?」
イルの問いかけに、僕は首を振って答えた。
「確かにそうかも。絶えず続くその努力のおかげで、今生きている僕達は確かに豊かで便利になった」
「そう。それは胸を張って誇るべきことさ。なにせ努力が報われたのだから。……けれども、どうだい? 豊かで便利でひどく使い勝手の良いこの世の中にいるキミは、『空を飛びたい』とか『他人と話したい』などという願望を抱き、想像力を膨らませ、新しい何かを創造しようとするかい?」
「思わない」
「それは一体なぜ?」
「なぜって……。それは『空を飛びたい』のなら『飛行機に乗ればいい』と答えるだろうし、『他人と話したい』のなら『文字や電話でコミュニケーションを図ればいい』と返すから」
「そう。普通はそう考える。でも、逆説的に考えれば、それはつまり『すでに優れた方法があり、選択肢があり、その現状に満足している』ということだろう?」
「……それがいけないの?」
「いや、いけなくはないさ」
「それじゃあイルはどうして『失われている』と思うの?」
「だって、キミは現状に満足しているのだろう? 満足しているということは、言い換えればそこで思考を停止させていると同じ事だからだよ」
「思考を停止させている?」
「そうさ。別に不満を抱いているわけでもなく、苦言を呈したいわけでもなく、ただ満足している。満足している状態ならば、願望も想像力を膨らませる必要もない。なぜなら、『想像力を膨らませる』ということは、現状に対する不満や不便を使い勝手が悪いと思い、思考を巡らせ、試行と失敗を繰り返すことなのだから」
「思考を巡らせ、試行と失敗を繰り返す……」
「そうさ。例えば人は飛行機を造った。けれども、その裏にどれだけの思考と試行と失敗を重ねたと思う? 時には鳥の翼を研究し、時には空気や気流の流れ、気圧、揚力といった物理的法則を見出すために研究と理論構築に努めた。そうした果てに人は新たなものを創造するのさ」
「長い道のりだね」
「あぁ、それこそ暗いトンネルを駆け抜けるようなものだろう。けれども、人は止めることを、立ち止まることをしない。それは心の奥底に強い願望と想像力と創造力が息づいていたから」
「それは満足していたら出来ないものなの?」
「満足していたら努力しないだろう? 何せ目の前に手っ取り早い方法があるのだから」
「……確かにそうかもしれないね」
「便利で使い勝手がよくて、手っ取り早い方法にそれを実現させる道具。それは確かに魅力的な存在だろう。けれど、それは同時に代償として人の一番の才能を奪うものでもあるのさ」
「諸刃の剣というわけ?」
「そうだね」
「じゃあ、今を生きる僕達にできることって何だろう?」
「……さぁ、今生きる人間にしかできないもの。それは――祈ることぐらいかもしれないな」
「祈る?」
ふとそう聞き返した僕に、死神は肩をゆすらせて「鳥も虫も、魚もライオンも祈りはしないだろう?」と笑って言った。
確かに、人間の一番の才能を失いつつある僕達には祈ることぐらいしかできないのかもしれないと僕は素直にその死神の言葉に納得がいった。
それこそ、この才能がどうか涸れ果てませんように――と祈るように。
◆
「それじゃあ、この世で一番ソウゾウリョク豊かな人間ってどんな人なんだろう?」
「それはもちろん秋葉原やネットに棲み付く二次元中毒者共だろうさ。ヤツらは大人になった今でも魔法少女や巨大人型ロボットに思いを馳せるのだから」
「……それってたぶん貴重でもないと思うよ?」
「現実可能性の問題さ。魔法少女や巨大人型ロボットに比べれば、ミュージシャンの方がまだマシというものだろう?」
意地の悪い笑みを浮かべるイルを見ながら、僕は「どうやら本当にこの店は本当に彼女の趣味で経営しているらしい」と悟った。
それはなぜか?
だって、この死神は音楽がたまらなく好きなのだ。
この神様はひどく好き嫌いが激しく、人間を選り好みするらしい。
イルの言葉を聞きながら、僕は「死神、という存在の方が魔法少女や巨大人型ロボットよりずっと貴重なのではないか?」とは思った。
けれども、僕はそのことをわざわざ口にすることはしないのだけれど。
◆
「……まだ終わらないの?」
「あぁ、もう少し待っていてくれ」
数週間後、僕とイルは再び外出していた。イル曰く、店内に流している音楽に新しいものを加えたい、とのことだった。
CDのジャケットをじっと見つめながら、これにしようかあれにしようかと思い悩んでいる彼女に「本当に音楽が好きなんだな」と納得しながら視線を動かした。
店の中心には話題のものが並べられ、手書きのPOPが見本のジャケットに貼り付けられている。僕は何気なく一つのジャケットを手に取った。
そこには「今人気急上昇中の注目アーティスト!」と太書きされたPOPが貼付され、店員からの絶賛コメントが添えられていた。
「なんだ、キミもそれが気に入ったのか?」
横からひょっこりと無邪気に顔を覗かせたイルが、手に取っていたCDジャケットと僕を交互に見やり、そう口を出した。
「気に入ったというわけじゃないけど……」
「なら聴いてみるかい? キミの意見も聞きたいからな」
イルが指し示したその向こうに、客寄せに設置された試聴機があった。押されるようにしてその前までやってきた僕に、問答無用とばかりにイルがヘッドフォンを掛けて曲を再生させる。
ヘッドフォン越しに聞こえてきたのは、哀しげな音とそれに負けないような声量で響き渡る優しげな女性の歌だった。
「この声って……」
そんな僕の疑問に、イルは唇の前に指を立てて優しく微笑んだ。
僕の耳に聞こえてくる優しい女性の歌。それは紛れもない、あの女性ミュージシャンのものだった。
「だから言っただろう? ソウゾウリョクこそが人間の一番の才能なのだと」
そんな死神の言葉も忘れ、僕はただ聞こえてくる旋律に身を委ねていた。




