FILE.5-1 音楽と死神①
イルは音楽が好きだ。それも名前の通り病的なほどに。
「ほら、イル。……もう行くよ」
絶えず人が行き交う街――骨壺ヶ原市。その街の中心地にある繁華街のある一角。僕はCDショップの試聴機の前で、ここ二時間ばかりずっと立っているイルの腕をぐいぐいと引っ張っていた。
「待ってくれ、マコト。もうあと少しで終わりにするから」
「……それ、もう三回聞いたよ」
僕は両手いっぱいの手提げ袋をもったまま、この死神と格闘している。いい加減に袋を持つ手がしびれてきた。今日は店内で切れかけていたコーヒー豆や備品の数々を仕入れるために、僕はイルに呼ばれてこうして買い物に付き合っていた。
ただ、言い出した当の本人は、この試聴機を見つけるや否や「後を頼む」と買い物リストを僕に押し付けて一人自分の世界に入り浸っていたようだった。
僕が「分かった」とそのリストを預かって買い物をし始めたのが二時間も前のことだ。その間イルはずっとこの試聴機の前で音楽を聴いている。
「あぁっ! 何をする!」
僕はイルからヘッドフォンを取り上げ、元に戻す。イルは抵抗しようと手を伸ばすが、その指がヘッドフォンに触れるか触れないかのところでイルはずるずると僕に引っ張られてその場を後にした。店から出る際に、店員が引きつらせた顔で「ありがとうございました……」と声をかけた姿はとても印象深いものだった。
「……マコト。お前は見かけによらずケチだな」
「そうかな? そんなことを言われたのは初めてだけど」
イルが頬を膨らませつつ、不満げに僕に文句をぶつけた。ぶつけられた僕は特に不快になることもなく、ただ帰る道をひたすら歩く。まだ太陽が出ている時間に外へ買い物に来たはずだったのだけれど、すでに空は黒い闇に覆われ、辺りには眩しく光るネオンサインが踊っている。
周囲から『心が壊れている』と言われる僕を、こんなにも人間扱いしてくれるのはイルだけだろう。当然ながら、僕を「ケチだ」などと評価する人はこれまで一人もいなかった。
他人は僕を、『ゼンマイが切れた人形』として評価し扱う。そこにはイルのように『感情』という類のものは一切含まれていない。
僕は僕でちゃんとした人間に成長しているのだろうか?
それは分からない。
僕では判断できない。
だからどうすることもできない、ということだけはハッキリと分かる。
「少しは持ってくれてもいいんじゃないの? これはイルの荷物でしょ?」
「キミは私の助手だろう? 荷物運びも助手の立派な仕事さ」
「……そうなの?」
「さあね」
僕はケタケタと笑いながら目の前を歩く彼女の姿に肩を落とした……といったこともなく、一緒に店への道を歩いた。
◆
「そういえば、イルは本当に音楽が好きだよね。どうして?」
店に戻り、買って来た大量の荷物を一通り片付け終えた僕はイルにマグカップを手渡しながら、ふとそんな事を聞いてみた。
「うん? どうしてそんな事を聞くんだい?」
「別に。ただ不思議に思っただけだよ」
僕はあの試聴機の前でずっと張り付くように音楽を聞いていたイルの姿を思い出していた。イルは二時間もの間(それも同じ曲を延々とリピートして)聞いていたのだ。
普通ならそんなに長い間(しかも同じ曲を)聞くだろうか?
「私が音楽を聞くのはね。人間の持つ一番の才能を実感していられるからだよ」
「一番の才能?」
彼女は渡されたマグカップに口を付け、その湿った舌で誰か(とは言ってもこの店にいるのは僕だけだが)に諭すようにそっと告げた。
「そうさ。人間に与えられた一番の才能。それは――ソウゾウリョクさ」
「想像力? ……まぁ頭の中でいろいろと空想するのは楽しいのかもしれないだろうけど」
そんなことを呟きつつ、僕は首をひねった。
イルは僕との会話をどこか楽しんでいるように、嬉しそうな顔を浮かべてマグカップに再び口を付けた。
「そうだな。考えることは大切なことだよ。けれども、私はそれ以上に人間はその空想を、願望を、憧れを実現するために色々と工夫をするから面白いんだよ」
「どういうこと?」
僕がそう聞き返すと、イルは真新しい煙草に火をつけて白煙を吐き出しながら言葉を紡いだ。
「例えば、人は空を自由に飛び回りたいと願った。空を自由に駆け回る鳥たちを羨み、自分たちも同じように翼を広げ、青空をどこまでも羽ばたいていきたいと願った。やがてはその願いを『飛行機』という道具で叶えるまでに実現させたのさ。もともとは人の願望や空想が発端だ。それがどうだい。人間は知恵を絞り、研究を重ね、ついにはその願望を実現させたじゃないか」
「うん」
「こんなことができるのは人間だけしかいないだろう?」
「まぁ確かにね」
イルの言うように、願望や空想を実現できるのは人間しかいないだろう。イヌやネコ、それこそアマゾンにいるカエルだってそんなことはできやしないし、そもそも「空を自由に飛び回りたい」などという願望すら抱かない。
「――けれども、人間の持つその一番の才能は今や失われていっていると思うがね」
「そうなの?」
僕が訊き返す前に、イルは棚から本を取り出して静かに読み始めていた。
そして同時に、カウベルの音が店内に流れた。
◆
「どうも……」
ソファに腰をおろし、消え入りそうな声で僕が差し出したお茶を受け取ったのは、ボロボロに擦切れたジーンズに色褪せたシャツを着た女性だった。肩までかかりそうなショートカットの髪を後ろで結わえ、両手にはいくつもの絆創膏が貼られている。
ちらりと依頼主である彼女の指先を見ると、その爪がぼろぼろになっていた。
「ミュージシャン、ですか……。その横にあるのはギターですか?」
依頼主の女性が持っていた黒いケースを視界に捉えたイルは、いつもと変わらない調子で話しかける。
どのような姿や格好、どのような年齢の男女であれ、この店は客を中へと招き入れる。ここは一流ホテルやレストランでもない。外見だけで門前払いされることはまずない。
それが不幸を抱えている人であれば誰でも。
そもそも、イルという死神の彼女にとっては入って来た人間の外見には興味の欠片さえもっていない。ただその人がどのような「不幸」を抱えているのか……。それだけに関心があるのだから。
「えぇ、おっしゃる通りこれはギターですよ。と言っても、そんなに値の張る有名なものではないですけど」
依頼主の女性は少しばかり照れながら、「でも、これは私の分身なんです」と付け加えた。おそらく彼女はそのギターに愛着があるほど使い込んでいるのだろう。そうでなければこんなセリフは聞けないはずだ。事実、楽器を収納するケース自体もところどころ痛んでいるのか、塗装や革が剥がれている。
「そうですか……それで、今回貴方が私に売りたい『不幸』とは一体何でしょうか?」
「それは……」
依頼主の彼女は一瞬どうしようかと考えた挙句――
「音楽を止めたい、という思いを持っているという不幸ですよ」
ギュッと拳を握り締めながら、彼女はそっとそう告げた。
「音楽を止めたいと思う不幸、ですか……」
イルはその意図している意味が分からないのか、首をかしげつつも彼女の話に耳を傾ける。
「私がどういった職業かを知っていますか?」
「ミュージシャンでしょう?」
「えぇ。その頭に『売れない』という言葉がつきますが」
疲れた顔でそう呟く依頼主の女性は、どことなく生気が感じられない。ぎょろりとした目が虚空を泳ぎ、乾いた唇が言葉を紡ぐ。
「夜に路上で歌っても、聞いてくれる人はほとんどいない。私の歌を最後まで聞いてくれるのはごくわずか。歌っても歌っても私は生きることができない。どんなにアルバイトをしても、ライヴの使用料や楽器のメンテナンスにお金は飛んで行く。周囲からは『もっと安定した職業に就いたら?』と言われて揺れ動く日々。そんな時に出てくるんです。『もう音楽を止めてしまおうか』と」
「でも、止めることができない」
「はい。私には歌うことしかできないから。私にとって、歌とは『もう一人の自分』みたいなものなんです」
「そうですか……」
「なら、いっそのこと『止めたい』という不幸な気持ちを綺麗さっぱり洗い流して、歌に集中できないか? と考えたんです」
依頼主の女性は「私には一つのことしかできませんから……」と小さく付け加えた。目の前でそんなことを依頼する彼女に、僕は何もできない。
僕は依頼主ではないし、同じ立場でもない。ただの一人の学生に過ぎない。
何も言えないことが悔しいとは思わない。
何もできないことが哀しいとは思わない。
なぜなら僕はただの心が壊れた人間に過ぎないのだから。僕に出来ることはこうして彼女の話に耳を傾けることぐらいだろう。
隣にいる死神と同じように。
「……確かに、私は貴方の『不幸』を買い取ることはできます」
イルは僕の隣で静かに口を開いた。時間が経ってすでにぬるくなったコーヒーを胃に流し、一息ついたイルは依頼主に向かって「ただし……」と付け加える。
「本当にそれでいいのですか? と私からは言わせてもらいますけれど」
「えっ?」
依頼主の女性ミュージシャンは目を見開いてイルをじっと見つめる。
「音楽、とは旋律にその人の想いが宿る。それは言い換えれば人生とか魂と言っていいかもしれない。苦悩もあれば、別れや喜び、幸福感に充実感もある。音楽とは『音』を『楽』しむと書くでしょう? けれどもただ音を出して楽しむだけでは何も生まれないし、聞く人を感動させることもできやしない。その音や紡ぐ言葉の端々に歌う人の想いが宿るからこそ、人はその音に、旋律に魅せられると私は考えていますけどね」
「音に想いを……」
イルの言葉を聞いていた依頼主の彼女は、膝に置いた手をギュッと握りしめていた。
「音を出すだけなら誰でもできる。手を叩けば、口笛を吹けば、声を出せばそれだけで音は出せる。何せ空気を振動させれば良いのだからね。理屈としては簡単だ。……けれども、貴方の内に秘めた想像力と書き出した歌詞の創造力が人を魅せる。私は『不幸』を切り捨てるよりも、それを抱えて歩き出す方がよほどいいものができると思いますが」
イルは音楽に対する持論を展開して一息ついた。喋ることに疲れたのか、「コーヒーを頼むよ」とだけ僕に告げると口を閉じた。僕は頷いてそっと席を離れる。
「そんなこと、思ってもみませんでした……。毎日が必死でしたから」
僕が戻ってくると、しばらく黙ったままだった依頼主はこぼすようにそっと口を開いた。
「……何かを選択するということは、ギャンブルと一緒なんですよ」
僕が淹れたコーヒーに舌鼓を打ちながら、イルはそんな言葉を漏らす。
「選択することはギャンブルと同じ……?」
彼女はイルの放った言葉がどういった意味を持っているのか、その意図を探ろうとして眉間にしわを寄せた。
まぁ、僕は慣れているから特別何かをするわけでもないのだけれど。
「そう。選択する、という行為は賭けることと似ている。――それは犠牲を払い、目的とすることを得る行為である点においては。自分が持っている手札や金をベットして利益を得る。選ぶこともこれと一緒さ。命、金、時間、仲間、信頼、夢……。それらを犠牲にして人は日々何かを得ている」
イルはそこまで話すと、コーヒーを一口あおる。うっすらと香るコーヒーの匂いが僕の頭を刺激して思考を加速させる。
イルの言っていることが本当に正しいのかどうかは僕には分からない。けれども、その言葉は僕の身体にすうっと染み込んでくる魔力をもっているようだ。
「この世界はひどく厄介なものなんですよ。それは犠牲を払い、自らの血を流さなければ何も得ることはできないのだから……。それに、おかしなものだと思いませんか?」
唐突過ぎる死神からの質問。虚を突かれたようにして放たれたその言葉に、依頼主の女性が一瞬遅れて「……何がでしょう?」と相槌を加える。
「だってそうでしょう? 『夢を持て』『夢を見るのはいいことだ』と人は口々にそう言う。けれども、そんな人達に自分の夢を語った途端、手のひらを返したように揃いも揃って『諦めろ』『夢を見過ぎだ』などと理不尽なことを突き付ける。何をやっているんだと嘲り笑う。現実を変えようと夢を持つのに、持った途端に『現実を見ろ』とは、一体全体どうすれば彼らは満足するのでしょうかね?」
依頼主の彼女はどこか不思議なものを見るような目でイルのことを見つめていた。彼女はこの目の前で話す白髪の少女のことをどう思うのだろう?
何を生意気なことを言うヤツだ、と怒るのだろうか?
それとも、どうしてそんな持論をもっているのだろうかと感心するのだろうか?
僕はそんな依頼主である彼女の思いを想像することはできる。けれども、それが正しいのかどうかは別の話だ。
なぜなら僕は人間なのだから。人の心が読める、聞こえる超能力者でもなければ神様でもない。ただの心が壊れた人間に期待値以上のものを求められても困る。
「諦めるのは簡単で一瞬だ。けれども、続けるには努力とそれ相応の時間と覚悟が必要だ」
「覚悟……」
「そう。覚悟さ。言葉にすると簡単だけれど、その中には壮絶な精神力が必要だ。覚悟を決め、全力をもって目の前の障害を乗り越えようと努力する。その果てに本物が宿る……と私は思うけれどな」
イルの言葉が溶けるように依頼主の心を満たしていく。それは彼女の何気ない一言かもしれない。意味なんてないのかもしれない。
けれども、誰かが言った、『言葉には力がある』という表現のように、この死神は弱り切った一人の人間をゆっくりと蘇生させていく。
「全力、というのは汗も血も涙も一滴残らず絞り切ることだ。何かを目指すことなら誰だってできる。けれども、それを続けることは一握りの人間しかいない。貴方が何のために自らの声を震わせて歌うのかは私には分からない。私は『現実を見ろ』とも『貫くべきだ』ともアドバイスはしないしするつもりもない。なぜなら私ができるのは『不幸』を買い取ることしかできないのだから」
死神が対面に座る依頼主に微笑みを見せ、静かに言葉を紡ぐ。
「……どうしますか? 貴方は自分の持つ『不幸』を買い取って欲しいのですか」
イルの最終意思確認とも言えるこの言葉。僕はこの言葉を何度耳にしたのか分からない。
いや、別に数える気にもならないけれど。
そんなイルの言葉を聞いた依頼主は、ふっとその口元を緩め――
「いえ、結構です。買い取って頂かなくても大丈夫です」
失っていた生気を取り戻した彼女は何かが吹っ切れたかのように、晴れ晴れとした姿を見せてそうイルに告げた。




