俄か雨は真空なりや
アパートのドアを開けた途端、焦げ臭い風がどっと押し寄せ、私は反射的に鼻と口をふさいだ。煙たい二○三号室の中から、よたよたと現れた院部は、私を見つけるなりくわっと目を見開き、
「こ、これは貴様が三人に見えすぎるとは、かげぶんしんを習得したのに一発でぜったいれいどの冷凍睡眠から目覚めるとそこは二千年問題……」
鞄を投げ捨て、院部を廊下に蹴り出してから部屋に飛び込むと、息が続かなくなる前にベランダを開け放つ。振り向きざまに裸炬燵の上で煙を吐き出している物体を掴み、そのまま外に向かって放り投げ、急ぎ廊下へ飛び出すと、ようやく私は一息ついた。
「重さの違う部品たちが同時に落ちてゆく」
廊下の手すりに寄りかかり、部屋の奥のベランダを見つめて何事かをつぶやく院部の横に座り込むと、酸欠その他からくる頭痛に耐えるべく、私は頭を抱えた。
「ひょっとして、部屋の外は真空中なのでは?」
○
「まったく、危うく生きながらえるのに失敗するところだったのだよ」
「殺しても死にそうにないくせに」
帰りがけに買ってきたコロッケのおかげで、私が悪態をついても、院部は特に傷ついた様子もなく、きつね色の衣をむしむしと口の中に押し込んでゆく。
「ううむ、それにしても」と、長細い指先をぺろりと舐めてから、
「あの壊れかけのラジオを壊してしまったのは、もったいない怨霊が出没するから警戒せねば」
「どうせまたゴミ捨て場から拾ってきたんだろう。いずれ壊れてたさ」
「うつけめ、あれは今までの作品の中でも特にベストなジーニスト賞を受け取り損ねた逸品なのに」
院部がラジオの改造に凝りだしたのは、三か月ほど前からである。実家からの荷物の中に、中学の頃、自由研究で作成した鉱石ラジオが入っているのを、目敏く見つけだしたのがそもそものきっかけだった。
「なんぞなもし」と珍しく興味を示した彼に、記憶の底からかろうじて掘り起こせたチューニング方法を教えて以来、すっかりラジオにのめりこんでしまったのである。
初めのうちは、砂嵐の中から幽かに日本語が聞こえてくるだけで満足していたのだが、何時までもノイズばかり聞いている彼を見かねた千草の「アンテナの向きを変えてみると良いのでは」というアドバイスを、一体どう曲解したのか、その日から奇怪なオブジェクトをラジオの上部に取り付けるようになり、やがて二週間、三週間と経つうち、「あのような軟弱物では足りん」と、何処からかラジオを拾ってきては、奇天烈な改造を施すようになったのだ。
元々壊れかけていた物ばかり拾ってくるものだから、そもそもまともに音声が聞こえてくることも稀なうえ、院部の魔改造と元々の不調の為に、熱暴走を起こしたり、煙を吐いたり、嫌なにおいをさせたりと、まともな動作をするものは一つとしてなく、殆どは一週間もしないうちに、院部の寝ている時間を狙って、私が捨てに行く羽目になっていた。
もはやラジオとも認識できない鉄塊に変じたそれを携えて、夜明けのうろな町を自転車で駆け抜けていくのは、極めて面倒くさいながらも、なにやら自虐的な快感を伴う行為であったし、日が昇るとともに色付いてゆく町の景色は、私がここに越してきてから幾度となく変化を重ねて尚、目が覚めるほど美しいものだった。
それでも語学概論の課題レポートの作成に追われた日の朝なんかには、美しき街の景色のどうのこうのも効果なく、ついうっかり「なんでこんなことをせにゃならんのだ」と当たり前の事実にぶつかることもあり、そうして無意味な散歩から帰ってきた朝には、押し入れから半身をさらけ出して眠りこける自称宇宙人の顔が、ことさらに汚く見えるのだった。
「なんだか前にもこういうことをしていた気がする」
腹立ちまぎれに彼を押し入れに押し入れながら、そんなことを考えているうちに院部が起き出し、腹が減ったと騒ぎはじめて一日が始まるというのが、ここ最近の私の生活であった。
○
私の分のコロッケまですっかり平らげてしまうと、「それでは小生これにてドロン」と謎の動作をしながら、院部は押し入れの中へ退散した。目の輝き方や、後ろ手に隠しているつもりのガラクタたちから推察するに、明日の朝辺りまで魔改造を続けるつもりなのだろう。
いつもなら無理やりにでもやめさせるところだが、グループ発表原稿の締め切りが明日に控えていることもあって、私は彼が引きこもると、すぐさまパソコンを取り出した。
大学入学記念に親戚から譲ってもらったこのノートパソコンは、我が家にやってきた当時から既に、キーボードを叩いてから文字が入力されるまで3,4秒のタイムラグが差し込まれ、その間使用者に「今入力した文字で本当に良いのだろうか」と推敲させる、という実に気付かいの出来る頼もしい奴であり、これは時と場合によってはまったく役に立たないということも無きにしも非ずということもなかったが、今現在のように一分一秒でも惜しいという状況に置いては、鬱陶しいことこの上ないコンチクショウであった。
資料の出典をまとめたメモをなくして騒いだり、引用の仕方を忘れて調べなおしているうちに、窓の外の夕暮れが焼きナスのような色になり、付け合わせの月が煌々と輝きだす。
ドアを叩く音が聞こえてきたのは、そうしてどうにか原稿を形に仕上げた頃のことだった。
「こんばんは」
私が招き入れるよりも早く、制服姿の千草は部屋の中央までするすると上がり込んでくると、抱えていた鍋をどすんと裸炬燵に置いて、くるりとあたりを見まわした。
「院部さんは何処?」
「さあ。大方またどっかのゴミ捨て場にでも行ったんじゃあないんですか」
「ええい、待ちやがれい、この末成りビョウタン!」
押し入れからぬるりとまろびでた院部は、這いずるようにして炬燵まで進んでくると、蛞蝓のような腕で私の裾を掴み、
「この宇宙帝王が未来男ズからここまで逃げ延びたのを知っていたのを隠していたのが許せぬ!」
「お前さっき僕の分までコロッケ食ってたろ、それで我慢しろよ」
「ふん、度重なる脱皮を経て三令幼虫へ変態完了した乃公が、あんな程度で満足できるものか」
「日焼けして皮が剥けただけだろ」
「そうやって喧嘩するようでしたら」
ひょいと鍋を持ち上げ、千草は私と院部を順々に睨んだ。
「これは私が一人で食べます」
しばし沈黙が辺りを支配し、それから我々はがっちりと手を取り合った。
「休戦協定といこうじゃあないか」
「良いだろう、我ら生まれし日は違えど干支はかに座」
千草は大げさにため息を吐くと、ゆっくりと鍋を下ろした。
○
「課題はちゃんと出来たんですか?」
唐突にそう訊かれたせいで、食べかけていた糸こんにゃくを飲み込み損ねて、私はむせ返った。
「出来たよ、出来ましたってば」
「それじゃあ読んでみてください。聞いてますから」
鍋の中の肉じゃがを素手でつかみ取ろうとする院部の手をはたくと、千草は極めて冷淡にそう言った。
うろな中に進学してから、千草が私の勉強内容に直接口を挟むことは、殆んどなくなっていた。大学までくると、小中の勉強とは重ならない部分が大半を占めているからだ。その代わりとでも言うように彼女が始めたのが、レポートやグループ発表原稿の確認である。
「内容は詳しくわからなくても、発表の仕方を注意することはできるでしょう?」
と、こういう理屈で、千草は私に発表の練習をさせるのである。説教の回数や時間は劇的に減少したものの、二十分と時間を指定されている発表を、平気で一時間半も続けさせようとする彼女のやり方が役に立ったことは、数えるほどしかなかった。
その夜も、私が担当する十分程度の発表は徹底的に叩き直され、結局千草が「まあ良いでしょう」と空になった鍋を持ち上げたのは。十時半を回った頃だった。
「そういえば」と片手に鍋を下げて、制服の皴をぴっぴと伸ばしてから、千草はそう尋ねた。
「明日のご予定は?」
「ええと、一限しかないから……帰って来るのは一時半くらいになりますかね」
ふぅん、とだけ言うと、何故か早足気味に玄関へ向かって、
「それでは、おやすみなさい」
するりと廊下へ抜け出すと、ドアも閉まりきらないうちに、ぱたぱたと足音が遠ざかって行った。
「なんだか変だなあ」
完成原稿のデータを保存しながら、私がそう呟くと、再び押し入れの中へ潜り込もうとしていた院部が、けえっと怪鳥音のような声をあげて笑い出した。
「おんどれは三年近くも一つ屋根の下で共に繁栄を続けたというのに、あの元青汁少女の本意も分からんとは」
「だったら、お前には分かるっていうのかよ」
「分かりすぎるとも」
きゅーっと口角をあげると、押し入れの戸に寄りかかり、
「あの思わせぶりな視線移動、上昇する脈拍、迅速な退却、これらの作戦的行動から察するに、奴のメイン・エナジーたる青汁が枯渇したので本陣へ補給に行きたいのでお前と話している暇などなかったのだよ……待たれよ、何処へ行く」
それ以降も院部は持論を展開し続けたが、私は早々に彼の声を頭の中から締め出し、洗面を済ませると、そのまま万年床へ倒れこんだ。
○
じりじりと耳に刺さるような音で飛び起きた。何事かと辺りを見まわしてから、炬燵の下に忍ばせてあった目覚まし時計を発見すると、私は恨めしい気分でアラームを止める。
「千草さんだな」
こういう仕掛けをするのは彼女しかいない。大方、昨晩鍋を持って来た時に置いていったのだろうが……。
やけにファンシーなデザインのそれを机の上に置くと、もぞもぞと万年床から這いだし、大きく伸びをする。
ベランダと部屋の間で、ラジオらしき物体を抱えたまま、ぼんやりと外を眺めている院部を発見したのは、ちょうどその時だった。スピーカーと思わしき部分からは、ホワイトノイズが垂れ流されている。
「なんだ、お前もう起きてたのか」
「ほほほ、相変わらずの朝寝坊主め、今朝の日差しがそこまで憎めるとは」
寝起きの頭では彼の妄言を翻訳することが出来ず、適当に相槌を打つと、私は朝飯の準備を始めた。
冷蔵庫の中にあった野菜を煮込んだだけの朝飯を炬燵に置くと、院部は「お前の作る料理は味が薄いから嫌だ」等と、いつものように文句を言いはじめる。
「こんな優しい味ばかりの食生活では、今に雨にも負ける貧弱な男へと二段進化を遂げるために塩の石を要求せんとす」
「馬鹿、岩塩なんて高いもん買えるかよ。僕らは食卓塩で十分」
阿呆なことを言い合っているうちに、時間が来て、私は鞄を抱えると、靴を履きながら院部に声をかけた。
「今日は帰るのが一時半くらいになる。それまでつつがなく生きてろ」
「ふん、言われなくとも今日を生き抜くために乃公は元気です」
気のせいか、今日は普段よりも更に意味不明な言葉遣いになっているようである。「お前、大丈夫か?」
すぐには答えず、不満を漏らした割にはしっかりおかわりまでした煮鍋をぐいと押しやると、ラジオを抱えて、再びベランダの近くに陣取った。六月の空は珍しく晴れ渡っていたが、爽やかな陽光に照らし出される自称宇宙人はてらてらと光って薄気味悪く、抱えている改造ラジオのせいもあって、寂れた遊園地に打ち捨てられている仕掛け人形のような、妙な哀愁が漂っている。
「ああ、無暗に大丈夫だぜよ。こんな陋屋に繋がれて一人飼い殺されていても、我は毎日が楽しく暮らしましたとさ」
あてつけがましく手元のラジオをいじくりまわす姿は、見ようによってはいじらしくとも、いじましくも取れた。しばし迷ったが、ため息を吐いてドアに手をかけると、私は彼に声をかけた。
「どっかへ出かけたいなら、帰ってきてから相談に乗ってやる。それまでは我慢してろ」
途端、院部の顔に笑みが広がり、私は口を滑らせたことを早速後悔し始めた。
「ふふん、その言葉を忘れたとはいわせんぜ」
おぼつかない足取りの割に素早く私の前に来ると、そう念押ししてから、ひょいとラジオを炬燵の上に置き、いやあ我々三人が遠く遠征のための準備を怠って全滅だけは避けねば、とすっかりいつもの調子に戻って改造を始めた。
やはりあんなことを言うべきではなかった。今さら悔やんでも仕方がないと分かっていても、風船を膨らませるように不安が押し広がり、私は再度ため息を吐いて、廊下へ出ようと戸を開いた。
「おう、そうだった。傘を忘れずに行くのを忘れないように覚えていることを忘るるなかれ」
「なんだって?」
「この天気ならまあ間違いなくお昼飯時に雨が降り注ぐと、こいつが言っているので分かったか」
振り向きもせずに院部はそういうと、こつこつとラジオを叩いた。
初夏を過ぎ、一時梅雨を撤退させた夏の陽気はひたすらに眩しく、まだ朝方だというのに、道路にはもう陽炎が出来始めている。この陽気でか、と聞き返しても、ほそっちょろい背中は鉄塊を前にもぞもぞ動き回るばかりだった。
○
課題の提出やサークル活動費の徴収等で時間を取られ、寝不足の頭を抱えながら「うろな裾野」の駅に降り立った時には、既に一時を大幅に回っていた。
暑くぬるんだ山裾の空気をかき分けながら改札を出ると、すぐ近くの商店に「氷」の小さなのぼり旗が揺らめいているのが目に入る。
ああ、もう夏だなあ、と思った時には既に軒下の影に滑り込んでいた。我ながら驚かんばかりの素早さである。
尻ポケットの財布は、店の軒先で揺らめく風鈴と同じくらい涼やかだったが、ここからコーポまで十数分は歩くことを思い、私は迷わず椅子替わりのビールケースに座り込むと、メロン味のかき氷を注文した。
厚いガラス容器を抱え、舌を緑に染めながら頭痛に耐えていると、ちりちりと風鈴の音がした。
「何やってるんです。こんなところで」
言い訳をする隙も与えずに、千草は私の向いへ座ると、いちご練乳味を頼んでから、
「一時半には帰るって言ってたじゃあないですか!」
「いや、まあ、その、色々ありまして、教授に課題出したり、サークルに顔だしたりとか……」
「言ったことには責任を持つ。社会人として当然のことですよ」
久しぶりにお説教が始まりかけ、私は如才なく相槌を打ちつつサイフへ手を伸ばし、さっさと代金を払って逃げ出す準備を始めたが、程なくして、目にも鮮やかなかき氷がテーブルに運ばれてきて、千草は一時説教を中断した。これ幸いと私は身を乗り出し、
「わあ、来ましたよ。いいなあ、すごくおいしそうじゃあないですか。ところで千草さんはどうしてこっちに?」
「またそうやって誤魔化して……すいません、スプーン取ってください」
しめた、と内心薄汚い笑みを浮かべながら、一番小さなスプーンを渡すと、はたせるかな、千草はかき氷に夢中になりはじめ、説教の時間はあっという間に雲散霧消した。
「学校が午前中で終わったから、急いで帰ってきたんですよ。なのに駅から出たら、井筆菜さんが美味しそうにかき氷なんか食べてて……」
「何か僕に用でもあったんですか?」
はっと目を伏せると、千草は焦ってかき氷を頬張り、頭痛を起こしてしばし悶絶した。
「別に……ただ暇そうにしてないかどうか、気になっただけです。大家の娘ですから」
大家の娘だから気にするという理屈はさっぱり分からなかったが、私は神妙に頷いておいた。
そうやって彼女の説教をのらりくらりとかわしているうちに、不意に店内に影が差し、あれよと言う間もなく、にわかに土砂降りの大雨となった。
「あんなに晴れてたのに」
会計を終えた私が店の外に出ると、千草が値札のついたビニール傘を真剣な表情で見つめていた。手には桃色の小さなサイフが、しっかりと握りしめられている。
口を開いて、呟くように枚数を数えては、未練がましくビニール傘に目を移している彼女の横に立つと、ビールケースの横に立てかけておいた傘を差し出し、
「どうぞ」
千草は目を見開くと、続いて信じられないものでも見るような目付きで私を見上げた。
「あんなに晴れてたのに、よく持ってましたね」
「院部が持ってけって言ってたんですよ」
へえぇ、と心底驚いた様子でため息を吐く。「確かに、院部さんなら天気予報くらい難なくできてしまいそうな雰囲気がありますね」
「天気予報というか、天候をいじくってそうな気もしますが」
千草が傘を受け取ると、私は鞄を降ろして底の方を漁りはじめる。いつもその辺に、紫色の小さな折り畳み傘を放り込んでおいてあるのだ。
この傘は骨もいくつか折れているし、柿渋色が腐ったみたいな色合いで、まったく私の趣味ではないうえ、開く度に赤錆の細かな粉がちらちらと降ってきて、傘の中で傘を必要とするような欠陥品だったが、少なくとも雨をしのぐことはできた。
本当はこっちの方を彼女に渡したいくらいだったのだが、さすがにそれは憚られたので、恰好つけて今朝家から持って来た、きちんとした方の傘を千草に貸したのである。自分には折り畳みがあると思えばこそだ。
ところが、そろそろ隅の方が破れかけてきた鞄の何処を探しても、あのしわくちゃな折りたたみ傘が見つからないのである。
困った。
マジで困った。
「あ、そうだった」
あの傘は院部が「アンテナが欲しいアンテナが欲しい」とうるさかったので、「この骨組みはグラスファイバーで云々」と適当な理屈をつけて、彼に押し付けたのである。院部は彼らしく大いに喜び、早速ラジオを改造して悦に入り、その翌朝、やはり意味不明な鉄塊になったそれを私が捨てに行ったのである。
あんまり私が狼狽えているので、千草は不信がってしきりに私の鞄の中をのぞき込んでいたが、やがて狼狽の原因を理解すると、ふんと鼻息を鳴らし、にやりと笑ってみせてから、
「本当にしょうがない人ですね」
そう言って傘を広げた。
○
「海ですか?」
一つ傘の下でとりとめのないことを話しながら、コーポへの道を歩いているうちに、どういう訳か話題は夏の予定へと横滑りしていった。
「はい、七月の終わりごろに、みんなで行く予定なんです」
最盛期である。恐らく浜辺は黒山の人だかりとなり、私のように普段からインドアな趣味に親しんでいるくせに、「ひと夏の思い出」なるおよそ手に入れることの叶わぬ幻の至宝を追い求めてやまない阿呆な連中が、喜び勇んで飛び込んでは無残に散ってゆき、やがてすっかり人のいなくなった海岸で「何が夏のアバンチュールだ! 何が夏は女を開放的にする、だ!」と泣きぬれて蟹と戯れ、我が衣手を露に濡らすのだろう。
「羨ましい限りです。いやあ、僕も行きたかったなあ」
精々羨ましげに見えるよう笑顔を取り繕ったが、千草はきゅっと眉をひそめて、
「伸太郎さんも来るんですよ」
「え、え」
「だってしょうがないじゃあないですか。お爺ちゃんもお婆ちゃんも、あんな人の多いところには行きたくないって言うし、ママ、じゃないや、お母さんとお父さんは仕事だし」
保護者がいないと駄目だって先生たちが言うから、と言ってから私を睨み付け、
「前に訊いたとき、七月の最終週からずっと暇だって言ってましたよね?」
そんなことを言ったような気もする。「そりゃあ暇ではありますけど」
「じゃあ良いでしょう」
いやも応もなかった。
そうやって話し込んでいるうちに、見覚えのある茶色の屋根が、砂利道の下からぬるりとあらわれ、コーポ鸚屋が見えてくる。
「それじゃあ荷物を置いたら、二○三号室まで行きますから、海の件について具体的な……」
と言ってから、続いてぎょっとした表情で前方を指さした。
「なんじゃこりゃ!」
視線の先にある二○三号室からは、薄黄色い煙がもうもうと立ち昇り、その中から奇妙に細長いシルエットが見え隠れしている。
「ううむ、幸せの黄色い鳥が楕円軌道を描いて我が周囲を旋回行動している……これは重力が発生してこの体をとらえて離さない……」
「伸太郎さん」
ゆっくりとこちらを振り向いた彼女の表情を、私は余りに恐ろしくて直視することが出来なかった。
「まず院部さんを止めます。伸太郎さんはその後」
私はただ、唯々諾々と従う他なかった。
○
その夜、私と院部は久しぶりに千草からの説教を食らった。
内容については、言うまでもない。我々はこってり絞られ、院部は「ノーベル経済学賞受賞大会シード権獲得初戦敗退級」の作品を処分されて押し入れに引きこもり、私はやたらに重い彼の創造物を前かごに乗せ、薄明の中をゴミ捨て場まで延々歩く羽目になった。重すぎて下手にスピードを出すと、そう簡単には止まれないのである。
「一体僕はなにをやってるんだろう」
東雲の空のもとに、そんなくだらない質問の答えを出してくれる人は、誰一人としていなかった。




