エピローグ 合法滞在宇宙人
リーダーたる彼の顔を元に戻すのには、大分時間がかかった。私としては、彼の表情を元に戻した途端、彼らが襲い掛かってくるのではないか、と不安でならなかったのだが、その疑問を口にすると、院部はせせら笑い、
「貴様じゃあるまいし 、公文書を偽造した、その動かぬ証拠が今ここに動いているというのに、そんな阿呆なことはするまいて。」
許可書はもう母星にお送り申し上げたのだぜ、と傲然と言ってのけた。普段が普段なだけに、私は中々彼の言うことを信じることができなかったが、彼の言葉通り、ようやく笑いの地獄から解放された男は、目線で殺せるのなら殺してやりたい、というような目をして、回収した兵器類を四畳半にぶちまけると、二○三号室を引き上げていった。
ついに往来を手を振って歩けるようになった彼が、まず最初に行ったことは、押し入れの粘菌王国を崩壊させたことへの、責任の追及であった。
「しょうがないだろ、まさか、あんな綺麗になくなるとは思ってなかったんだから」
「しょうがないで済むものか、あの王国は我が一つ一つ手作りで叩き上げた温かみのある風土が特徴だったのに」
「湿り気の間違いじゃあないのか」
侃々諤々の議論は数時間程続き、業を煮やした院部は、「第三者の介入が必要である」と言って、素早く立ち上がると、少々乱暴にドアを開けた。
廊下に立っていたらしい第三者は、気まずそうに咳をすると、きちんと靴をそろえてから、二○三号室に入ってきた。
「大家の娘として言わせていただくのなら、アパート内に新たな国家を興すのは、やめていただきたいのですけど」
脳を摘出されそうになったり、捻じくれた商店街に迷い込んだりと、今宵、散々驚かされてきたせいで、多少のことには驚かなくなっていたつもりではあったが、しかし彼女が現れた時、驚愕のあまり、私はしばらく口を閉じることができなかった。
「千草さん、何故ここに」
「大家ですもの」
「僕が連れてきたんだ」
すましてそう答えた彼女の横から、永武さんが顔を出したので、せっかく落ち着きかけていた顎がまた落下した。
「やあ、完全変態男ではないか、ビデオは捌けたのか」
「いいや、思ってたより売れなかったよ」
商売の失敗を話している割に、永武さんはいつもと同じ、好青年然とした笑みを浮かべている。
「ついでに言うと、彼女に僕の趣味がばれた」
「それは、ええと、お気の毒に」
私がうつむいてそういうと、彼は笑いながらそれを打ち消した。
「いやあ、結構隠し通してたつもりだったんだけど、やっぱり女性には敵わないなあ。大分絞られたよ。『こんな面白そうなものを、なんで隠してたの』って言って。お義母さんとお義父さんに内緒にする代わりに、全部取り上げられちゃった」
余程懐の広い人と見える。「じゃあ結局、秘宝館は閉店ですね」
「いや、どういう訳か、うろな本店の営業だけは許してくれたんだ。これの中身は」
と、上機嫌で傍らのボストンバッグを叩くと、
「全部商品だよ。またお隣さんになるわけだ」
「ふうん、牛は牛連れ世は情け、という訳か」
相変わらず意味不明な呟きを漏らすと、院部は千草の方に向きなおった。
「では、こちらはどういう」
「色々あったんです」
ふう、とため息をつくと、それを皮切りに、彼女は一気にまくしたてる。
「お爺ちゃんがママ、じゃあないや、お母さんとお父さんに伸太郎さんのことを話したら、もうアパートには行ったらダメって言われて、それから日曜日も祝日も、無理やり家族みんなでどこかに出かけたりして、そりゃあ楽しくなかったわけじゃあないけど、家からここまでは結構遠いから、学校の帰りに寄るってことも出来なかったし、一度院部さんを商店街で見つけちゃって、本当にびっくりして、追いかけようとしたらもういなくなってて、不安になってお爺ちゃんに訊いてみても、全然答えてくれなかったし、今日だってお婆ちゃんが、『大家が店子のことを悪く言ってどうするの』って叱らなかったら、ああもう」
再び深く息を吸うと、
「とにかく、のほほんと勉強してた伸太郎さんには分らないくらい、色々あったんです!」
彼女の言う「のほほんと勉強してた」の内訳に、まさか脳髄の摘出手術未遂などは含まれていないだろうが、私は何も言わなかった。こういう時に口を挟むと、二時間ほどの説教が待っている、ということを、私は体で覚えていたのである。
「僕の方は、今さっき彼女の所から帰ってきたんだけど、駅からアパートに帰る途中で、偶然千草ちゃんに会ってね、丁度いいから一緒に来たんだよ」
永武さんがそういうと、院部はじろりと彼を睨み付けた。
「けえっ、こんな時間にそう都合良く感動の再開ができるものかねえ」
「こんな時間も何も、もう八時を過ぎてるんですよ、普通の人は、もう家を出てる時間です」
そう言われて、私と院部は顔を見合わせた。
「ええと、書類を偽造し始めたのが、何時だったっけ」
「まだ夜明けにはとんと足りなかったはずでごぜいますが」
寝ぼけてるんですか、とうんざりした顔で言い、あちこちに散らばるゴミを蹴っ飛ばすと、千草はカーテン替わりにしていた夏用の掛布団を、思い切り引いた。
白々しい程の夜明けが、そこにはあった。
○
さて、書くべきことも、そろそろ少なくなってきた。
院部が帰還するや否や、粘菌王国は華々しい復活を遂げ、私は押し入れにしまい込んでいた物の移動に追われて、また貴重な勉強時間を失った。
祖母の説教により、渋々孫娘との同棲を呑んだ孫吉氏は、しかし未だに私を、憎むべき犯罪者予備軍であると睨んでいるようで、家賃を納めに行くたびに、私はひどく気まずい思いをしている。
永武さんは再び秘宝館の営業を始めた。商品が少なくなった分、より一層顧客へのサービスに力を入れているようである。
彼女との交際を続ける傍ら、大学にも通いつつ、更に秘宝館を経営するその手腕には舌を巻くばかりだが、ここ数日、少々厄介な問題が立ち上がっているようで、
「桃色調査委員会 の人がさ、泣きついてきて困るんだよね」
バイトの終わり際に、珍しくため息をつきながら、彼は私にぼやいたものである。
「閉店セールの時に買い込んだのはいいけど、早速カミさんに見つかってしまったって」
ちゃんとお勧めの隠し方のマニュアルも渡したのに、と呟くと、
「やっぱり、女性からの視点も必要なのかなあ。そうだ、一回彼女に訊いてみるか」
もちろん、私は全力で止めた。
学校があるにも関わらず、千草は毎日二○三号室を訪れる。私が参考書を開いていると、必ずランドセルを背負ったまま近寄ってきて、習いたての知識を存分にひけらかすのである。私という駄目な生徒を相手に、毎日欠かさず復習をしているせいで、最近の彼女の成績は、今や右肩上がりらしい。
「そういう面があるのなら、もうちょっと僕に優しくしてくれても良いじゃあありませんか」
江戸幕府の興亡について熱く語る彼女の横で、私はぼそりと呟いた。
「例えば、説教の時間を減らすとか」
「それは考えられませんね。伸太郎さんが、説教をされるようなことをするのがいけないのです」
当然、彼女が自分を曲げたことは、一度もない。
「ゴミを細かく分別するのは結構ですけど、分けといたゴミ袋をいつまでも部屋に置いとかないでください」
○
院部については、今更詳しく書く必要もあるまい。
この手記を読まれた諸賢は、既に取り返しのつかないほど彼の思考形態に汚染されていて、彼の行動を予想できるようになっているであろうし、そういった予想を悉く裏切って、突拍子もない日常を送るのが彼の本質である以上、これ以上諸賢の脳に無意味な知識を吹き込むのは、無益を通り越して、極めて有害な行為であると言わざるを得ない。
それでも、もし今の院部について知りたいというのならば、是非一度、二○三号室を訪ねてみることをお勧めしておく。十中八九、彼はそこにいるし、九分九厘、院部は来訪者にのべつ幕なくしゃべりかけ、ほぼ確実に、諸賢はその阿呆らしさに落胆させられるであろう。
それでも私は、院部の肩を持つ。
救いようのない阿呆の友人もまた、どうしようもない阿呆なのである。




