孤独の条件
目が覚めたのは十七時半頃のことである。
薄暗い部屋の中で布団の上に半身を起こし、しばらく呆然と宙を眺めてから、押し入れを開く。
かつては四方を囲む壁にまで菌糸を伸ばし、その栄華を誇った粘菌王朝は、宿主が去ると同時に急激な衰退を見せ、彼がいなくなってから三日目の夜に、干からびた茸数本という僅かばかりの残滓の他には何一つ残さず、静かに崩壊した。
次の日の朝、ついに万年床制の廃止を決定した私は、布団を片付けながらほくそ笑んだ。
以前から千草には、押入れの中が汚いのは全て私の管理の不手際であると散々言われてきたのである。そんなことはない、と口では言いつつも、二○三号室の荒れ果てぶりを目の当たりにすると、どうにもはっきりと反論することが出来ず、私はその非難を、いつも甘んじて受け入れてきたのである。
だが、私が何もしないうちにかの帝国が自壊した、という事実は、そのまま彼女の難癖が全く的外れなものであったことを証明するものである。私はこの勝利に酔いしれ、心の中で快哉を叫んだ。
そして、今はもうその勝利を見せ付ける相手も、この喜びを完膚無きまでに馬鹿にしてなじる同居人もいないことに気づいて、押入れの前に立ち尽くしたのである。
○
あの長い八月最後の一日を終えた私が目を覚ましたのは、九時頃のことであった。
いつもならば、起床した院部が話し相手を求めるために、どんなに夜更かしした日であろうとも、七時にはたたき起こされるのだが、まだ重い瞼をこすりながら四畳半を見回しても、彼の姿はどこにもなかった。
はて面妖な、またなにか問題ごとを巻き起こしたのではあるまいな、と起き上がって時計を覗き込み、危うくもう一度万年床に倒れ込みそうになった。
炬燵の上に置いてある受験票をひっつかみ、嗚呼いっそ全てが夢であれ、と儚い望みを口にしながら、時間割の部分を舐めるように見る。この望みは、例えば「今ここに百万円があればなあ」とか「いきなり超能力に目覚めたりしないかなあ」という類のもので、英文法で言う仮定法未来というものにあたり、基本的にその願いは叶うことがない。
九時半開場、五十分から英語が始まる、というのが受験票に書かれた現実である。
コーポから受験会場の大学までは、どんなに急いでも一時間強はかかる。私のようなどうしようもない奴のために、最初の科目だけは三十分の遅刻が許されているが、それでも諸々の準備などを含めると、なかなかに際どい時間である。
やにわに私は弾かれたかのごとく立ち上がると、鞄と受話器を鷲掴みにし、会場へ電話をかけつつ荷物をまとめ、遅刻することを伝えながら着替えを終え、即座にコーポを飛び出した。鍵をかける時間すら惜しかった。
万が一泥棒に入られたとしても、心配なのは精々コーポを去る際に永武さんからいただいた秘宝館の商品くらいなもので、そのほか二○三号室に散らかっている物は皆、こちらから料金を支払わないと引き取ってもらえないようながらくたばかりであるから、むしろ入った泥棒の方が困惑するばかりだろう。
このような精神状態であったので、私が院部のことを思い出したのは、ほうほうの体でコーポに帰り着いた時であった。
○
失踪当初、私は彼の行方について、然程心配してはいなかった。
散々な結果に終わった模試の方に気を取られていて、それどころではなかったのである。どうでも良いとさえ思っていた。どうせ千草はいないのだから、奴を野放しにしておいても叱られることはない。あいつのことだ、どうせ夕食時には腹を空かせて戻ってくるさ、とたかをくくっていた。
カップ麺だけの夕食を済ませ、いよいよ院部が帰ってこないとわかると、私は小躍りしてその僥倖を喜んだ。
翌朝になっても帰ってこないので、私はその日一日を、入居以来初めて誰にも気兼ねなく使った。古代史にかまけてみたり、単語帳と取っ組み合ったり、戦後史に苦闘したり、英文法に叩きのめされたりした。
翌朝になっても帰ってこないので、私はその日一日、音読をして過ごした。法度を読み上げて悦に入ったり、パトリシアが殺虫剤をバックパックの何処にしまったのかを必死に探したりした。
翌朝になっても帰ってこないので、私はその日一日、街を歩き回った。そこらのゴミ捨て場から学校の周辺まで、様々なところへ行き、色々な人を見、時には会話すら交わした。
翌朝になっても帰ってこないので、私はその日から院部のことを考えなくなった。最初から一人で暮らしていたかのように起き、一人分の食事を済ませて、誰とも話すことなく机に向かうようになった。眠くなったら銭湯へ行き、帰りにレトルトのものを買って、一人でそれを食べてから机に向かい、少ししてから眠った。
日曜日になっても、千草が訪ねてくることはなかった。
そうやって過ごしているうちに、私の生活周期は少しずつずれていった。
目を覚ますのが段々遅くなり、比例して眠りに着くはさらに遅くなった。一週間ほどして、夕暮れ時に起床し、昼になる前に眠るようになると、私の時間はそこで止まった。一日の境界は限りなく曖昧になり、私は昨日と今日の区別を失った。
漠然とした明日を追ううちに、一週間が経ち、二週間が経ち、二ヶ月が経った。私がそのことに気づいたとき、既に十一月は一週間ほど過ぎ去った後だった。
八月のまま壁に掛けてあるカレンダーをめくりもせず、その夜、私は久しぶりに勉強以外の事を考えた。
バイトに出かけることもなく、生活態度を大喝されることもない、他人の尻拭いに冷や汗を書く事もなくなった今、私は孤独なのだろうか。
そう考えてから、すぐに私は首を横に振った。
私の孤独などたかが知れている。孤独というものは、例えば出口のない箱に閉じ込められたまま、ゆっくりと海に沈んでゆくようなもので、まず常人の堪えうるものではない。いわんや、私のような腐れ浪人なんぞ、一秒たりとも我慢のできるものじゃあない。
確かにこの一ヶ月、他人とろくに会話もせず、ただひとりで部屋に閉じこもっていたことは事実だが、そのような態度こそ浪人生の理想的な生活であると、くどいくらいに言ってきたのは、ほかならぬ私自身ではないか。
大体、誰とも言葉を交わしていない、寂しくて死んじゃう等と言うのならば、今炬燵の上に放り出してあるカップ麺はどうやって手に入れたというのだ。私がどうにか人前には出られる程度に清潔なのは、どういうわけか。
全てコンビニで「これください」と言ったり、番台の親父さんに「大人ひとり」と言ったからではないか。
それは商売のための取引で、決して会話ではない、というのならば、電話をかければよかろう。ほぼ一人だけとは言え、私には友人がいるではないか。彼女と一緒のところを邪魔したって構うものか、相手の迷惑も顧みずに電話をかけてきたのは、彼の方が先だ。仕返しのつもりでやれば良い。
「いや、そんな残酷なことはできない」とあくまでも善人ぶるつもりなら、実家にかければ良いことだ。友人よりも気兼ねがいらないし、親孝行は孔子も推奨する立派な善行である。これなら文句もあるまい。
してみると、ちょっと同居人と隣人が同時にいなくなっただけで、私は全く孤独ではない。
そうとも、私は誰かと会話しようと思えば話せるし、その気になれば外へ出て遊ぶこともできる。断じて孤独ではないはずだ。
そう断言すると、私は寝具を取り出そうと、押し入れを開いた。
中は依然、綺麗なままである。
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十一月八日、深夜。古代の荘園制度をどうにか打ち倒し、満身創痍のまま鎌倉幕府へ戦いを挑もうとしたところで、空腹を覚えた私は、机を離れて外出の準備を始めた。
うろな町は基本的に整備の行き届いた町であるから、人家の少ない夜明けの道のあたりにも、歩くのには困らない程度の街灯が設置されているのだが、念には念を入れて、私はいつも懐中電灯を持って行くことにしていた。
本来の機能を取り戻した押入れの中から目的の物を取り出し確認のためにスイッチを入れると、現れた光の輪に照らされて、見覚えのある銀色が浮かび上がり、私はぎょっとした。
裸電球の下に引っ張り出して、仔細に確認してやる必要もない。ヘルメットにしては柔すぎるが帽子にするには堅すぎる絶妙な強度といい、押し入れ中のガラクタが持ち主に反旗を翻さんと一致団結したのは良いものの、あまりに強固に合体したせいで身動きが取れなくなったかの如きシルエットと言い、見間違えようにも、そもそも他に間違えられる物がない、院部のカリキュラ・マシーンである。
「まだ残っていたのか」
炬燵の上にそれを置いて、私は誰に言うでもなしにそう呟いた。
院部のいなくなったあの日、彼の武器類もまた二○三号室から消えた。押入れに残っていたのは、彼の手で「武きこ」と殴り書きされたダンボール箱だけで、だから私はあの馬鹿げた兵器類は、全て持ち去られたものだと思っていたのである。
どうせ奴の事だから、と更に押入れの中を探すと、冬服の間からリモコンコントローラーが見つかり、私は一人苦笑した。
院部が何を思って二○三号室を去ったのかまではわからないが、普段通りの様子だった彼が一夜のうちに逐電したことから察するに、準備万端意気揚々と家を飛び出したようには思えない。恐らく相当慌てていたに違いない、とそう考えていたのが、この忘れ物によって証明されたのである。
カリキュラ・マシーンに付随するコントローラーが無い以上、趣味の悪い置物にしかならないそれと、二度手間の権化を部屋の隅に放り投げると、懐中電灯を尻ポケットに突っ込んで、私はふらりと外に出た。




