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亡き姉の「生後8ヶ月」の娘を引き取った俺と家族になってくれませんか?

作者: 文月ナオ
掲載日:2026/02/09

 

「フギャアアアアア!!」


 耳をつんざくような絶叫。


 鼓膜を直接揺さぶるような、不快と焦燥を煽る音。


「……頼む、頼むから……泣き止んでくれ……」


 俺、佐伯優真(さえきゆうま)は、ふらつく足でリビングを徘徊していた。


 腕の中には、真っ赤な顔をして泣き叫ぶ小さな生き物。


 生後8ヶ月になる姪の陽菜(ひな)だ。


 時計の針は、22時を回っている。


 窓の外には、煌びやかな東京の夜景が広がっているはずだが、遮光カーテンを締め切ったこの部屋は、まるで深海の底のように重苦しい。


 床には、高かったはずのイタリア製ラグの上に、粉ミルクが散乱し、使用済みのオムツが入った袋が転がっている。


 俺は、もう3日間、まともに寝ていない。


「……ミルクか? いや、さっき飲ませた……。オムツ? 替えたばっかりだ……」


 掠れた声で問いかける。


 けれど、返ってくるのは更にボリュームを増した泣き声だけだ。


 縦抱きにして背中を叩く。


 横抱きにして揺らしてみる。


 スクワットがいいと聞いて試してみるが、膝がガクガクと笑って立っていられない。


 俺は外資系のコンサルティングファームに勤めている。


 32歳、独身。


 年収は同年代の数倍はあるし、住まいは都心の一等地にあるタワーマンションだ。


 仕事での俺は常に冷静沈着で、どんな難題もロジカルに解決してきた。


 クライアントの無理難題を捌き、数億円規模のプロジェクトを動かす。


 陽菜を引き取ってからは、会社に掛け合って完全在宅勤務フルリモートに切り替えた。


「赤ん坊なんて、一日の大半は寝ている。その隙間に仕事をすればいい」


 ……そう、タカをくくっていたんだ。


 だが、現実は違った。


 陽菜は、寝ない。


 昼は抱っこしていないと火がついたように泣き、夜はこうして夜泣きのオンパレードだ。


 PCを開く暇さえない。チャットツールには未読が溜まっていく一方だ。


 かつては、部下から「鋼鉄のメンタル」「感情のないサイボーグ」「鉄仮面」なんて陰口を叩かれるほど、仕事人間だったはずだ。


 だが、今の俺はどうだ。


 鏡に映った自分の顔を見て、俺は愕然とした。


 髪はボサボサで、頬はこけ、目の下にはどす黒いクマができている。


 着ているのは、いつ洗濯したかわからないヨレヨレのスウェット。


 かつてのエリートの面影は、どこにもない。


 ただの、育児に敗北した男の残骸がそこにいた。


「……くそっ、なんで……」


 俺は歯を食いしばった。


「俺が育てると決めたんだ。……弱音を吐いてる場合じゃないだろ!」


 絶対に幸せにしてみせる。そう誓ったはずなのに、俺は無力だ。




 ◇◆◇




 1ヶ月前。


 葬儀場の空気は、冷たく湿っていた。


 祭壇には、少し困ったように微笑む姉の遺影が飾られている。


 交通事故だった。


 信号無視の車が、横断歩道に突っ込んできた。


 姉はとっさの判断でベビーカーを突き飛ばし、陽菜を守った。


 奇跡的に無傷で残された陽菜は、葬儀の間も何も知らずに眠っていた。


 姉の夫――義兄さんは、1年前に癌で他界している。


 陽菜が生まれる数ヶ月前のことだった。


 姉は、亡き夫の忘れ形見である陽菜を、それはそれは大切に育てていた。


「この子は、あの人が残してくれた宝物だから」


 そう言って笑っていた姉の顔が、今でも焼き付いている。


 通夜振る舞いの席で、親族たちの話し合いが行われた。


 議題は一つ。『誰が陽菜を引き取るか』だ。


 両親は健在だが、父は数年前に脳梗塞で倒れ、母がその介護をしている状態だ。


 今回の娘の死に、母はショックで寝込んでしまい、葬儀に出るのがやっとだった。


 義兄さんの両親は健康体ではあるが、年齢的なことを考えても、やはり引き取るのは難しい。


 もう一人のきょうだいである妹は、海外留学中だ。


 しかも向こうで体調を崩して、急な帰国はドクターストップがかかっている。


 あいつは姉のことが大好きだったから、多分そのせいだ。


「……お祖父ちゃんとお祖母ちゃんじゃ、現実的に無理だわ。介護と育児なんて、共倒れになってしまう」


「かといって、俺たちも……」


 叔父や叔母たちは、皆一様に顔を曇らせた。


 誰もが、陽菜の将来を案じてはいる。


 だが、現実問題として「誰が育てるのか」となると、誰も手を挙げられない。


「……施設に、預けるしかないんじゃないか」


 誰かがポツリと言った。


 重苦しい沈黙が流れる。


 施設。


 その言葉が出た瞬間、俺の中で何かが弾けた。


 姉ちゃんは、最期の瞬間までこの子を守ろうとした。


 義兄さんも、お腹の子に会えるのを楽しみにしながら逝った。


 二人が命がけで愛したこの子を、孤独な場所にやるのか?


 そんなこと、できるわけがない。


「……誰も引き取る気がないなら、俺が引き取りますよ」


 静まり返った部屋に、俺の声が響いた。


 叔父が驚いたように顔を上げる。


「優真くん? 何を言ってるんだ。君に赤ん坊が育てられるわけがないだろう。君の会社は激務で有名じゃないか」


「時間は無理やり作ります」


 俺は言い切った。


「育休だって取ります。……両親にこれ以上の負担はかけられません。それに、姉ちゃんの宝物を手放すなんて、俺にはできません」


 それは、愛情というよりは、強烈な責任感だった。


 姉ちゃんが命がけで守った命のバトンを、俺が落とすわけにはいかないだろ。


 俺は今まで、どんな難題もクリアしてきた。


 赤ん坊一人、育てられないわけがない。


 効率的にリソースを配分し、最適な環境を整えれば、育児なんてプロジェクトの一つに過ぎない。


 俺が、陽菜を最高のレディに育て上げてみせる!


 ……そう、思っていたんだ。


 この時は、本気で。




 ◇◆◇




 現実は甘くなかった。


 いくら高級なベビーベッドを買っても、最高級のオーガニックコットンを着せても、泣く時は泣く。


 言葉が通じない相手には、ロジックも交渉術も通用しない。


 俺の「効率化」は、完全に破綻していた。


「……っ、なんだ? どうしたんだ……ほーら、ほら、泣き止んで〜」


 抱っこして揺らしているのに、陽菜の泣き声が止まない。


 むしろ、悲鳴のように甲高くなっていく。


 暴れる手足を押さえようとして、ふと、その肌の異常な熱さに気づいた。


「熱い……?」


 俺は自分の額を、陽菜の額に押し当てた。


 焼き石のように熱い。


 Tシャツ越しに伝わってくる熱気が、ただ事ではない。


「熱……!?」


 思考が一気に白く染まる。


 赤ちゃんの高熱。


 ネットで見た恐ろしい病名が脳裏をよぎる。


 髄膜炎? 肺炎? 熱性けいれん?


 姉ちゃんが命がけで守ったこの子を、俺の不手際で死なせてしまったら?


「びょ、病院……病院に行かないと……!」


 恐怖で手が震えた。


 俺は陽菜を抱きしめたまま、リビングを飛び出した。


 何が必要だ?


 保険証? 母子手帳?


 いや、そんなものを探している時間はない。一刻を争うかもしれないんだ。


 とにかく、タクシーを捕まえて病院に行こう。


 俺はサンダルを突っかけ、重たい防音ドアを勢いよく開けた。


 深夜の廊下の冷たい空気が、肌を刺す。


 バタンッ!!


 背後で、重厚な金属音が響いた。


 俺は廊下を数歩走ってから、ハッと足を止めた。


「……そうだ、配車アプリでタクシー呼んどこう……!」


 ポケットを探る。


 スウェットの薄い生地越しに、太ももの感触があるだけだ。


 軽い。


 スマホがない。


 財布もない。


 そして何より、部屋のカードキーがない。


 サーッと、全身の血の気が引いていく音が聞こえた気がした。


 俺はゆっくりと、恐る恐る振り返る。


 そこには、閉ざされた2102号室のドアが、冷たく鎮座していた。


 このマンションは、セキュリティが万全だ。


 最新式のスマートロックを採用しており、ドアが閉まれば数秒後に自動で施錠される設定になっている。


 普段なら「鍵の閉め忘れがなくて便利だ」と気に入っていた機能。


 セキュリティの高さが、今は俺を拒絶する城壁となっていた。


 カチャ。カチャカチャ。


 ドアノブを回す。


 回らない。


 ノブの上にある赤いランプが、冷酷に点滅している。


「……うそ、だろ」


 閉め出された。


 スマホも、金も、移動手段も、すべて部屋の中だ。


 俺の格好は、スウェットにサンダル履き。


 そして腕の中には、高熱を出して泣き叫ぶ赤ちゃん。


「開け……開いてくれよ……っ!」


 バンバンとドアを叩くが、分厚い鉄の扉はビクともしない。


 どうする?


 最悪なことに、今は22時過ぎ。

 ここのエレベーターは22時以降は夜間セキュリティモードがかかるようになっている。

 内側からエレベーターを呼ぶにもカードキーが必要になる。


「俺……ここからどこにも行けないぞ……」


 この階に住む誰かが来るのを待つ?


 待ってどうする!?


 なんて説明する!?


「フギャアアアア!!」


 俺の焦りが伝播したのか、陽菜の泣き声がさらに大きくなる。


 静まり返った内廊下に、泣き声が反響する。


 それはまるで、俺の無能さを責め立てるサイレンのようだった。


「ごめん……ごめんな……俺が、俺がバカなせいで……っ」


 膝から力が抜けた。


 その場に崩れ落ちそうになった、その時だった。


 チン、とエレベーターの到着音が響いた。




 ◇◆◇




 エレベーターは、私と、重たい憂鬱だけを乗せて静かに上昇していく。


 鏡に映る自分の顔は、ひどく疲れていた。


「……はぁ」


 ため息がこぼれる。


 今日は、散々な一日だった。


 受け持っているクラスの子が怪我をしてしまって、保護者の方に頭を下げた。


 私の不注意だ。先輩にも「もっと周りを見ないと」と注意された。


 正論すぎて、何も言い返せなかった。


 保育士になって3年目。


 いつまで経っても、私は半人前。


 真っ暗な部屋に帰りたくなくて、駅前のファミレスで目的もなく時間を潰した。


 スマホを見てるつもりなのに、情報は何も頭に入ってこなかった。


 ドリンクバーのメロンソーダを5杯も飲んで、まるで酔っ払いみたいに管を巻いてみたかったけど、私はお酒が一滴も飲めないから、酔ったつもりになっただけ。


 シラフのまま、ただただ自己嫌悪の時間だけが過ぎていった。


「……寂しいなぁ」


 ポツリと呟く。


 誰も待っていない、広すぎる部屋。


 セキュリティは万全でも、心の隙間風は防いでくれない。


 チン、と到着音が鳴り、ドアが開く。


 重い足を引きずって、冷たい廊下に出た。


 その時だった。


「フギャアアアアア!!」


 廊下の奥から、鼓膜を直接揺さぶるような絶叫が聞こえた。


「え……?」


 顔を上げると、そこには異様な光景があった。


 2102号室の前。


 ヨレヨレのスウェット姿の男性が、泣き叫ぶ赤ちゃんを抱えて、呆然と立ち尽くしている。


(……あれ? あの人、2102の人?)


 足元は、サンダル。


 この寒空の下、どう見ても異常事態だ。


 普段の私なら、怖くて部屋に逃げ込んでいたかもしれない。


 でも、その時の私は、メロンソーダで糖分過多になった頭で、妙なことを考えてしまった。


 ――あの人も、泣きそうな顔をしてる。


 街灯に照らされたその人の顔が、どうしようもなく絶望していて。


 さっきまでの、ファミレスでの私みたいだったから。


 酔った(つもりの)テンションが、背中を押したのかもしれない。


 気づけば私は、吸い寄せられるようにその男性の方へ一歩を踏み出していた。




 ◆◇◆




 エレベーターホールから歩いてきたのは、一人の女性だった。


 地味な色のコートに身を包み、疲れたように肩を落としている。


 栗色の髪を後ろで一つに束ねた、大人しそうな女性。


 二つ隣の、2104号室の住人だ。


 挨拶くらいしかしたことがないけど、部屋からゴミ袋を持って出てくるのを見た事がある。


 彼女は、廊下の真ん中で立ち尽くす俺と、泣き叫ぶ陽菜を見て、驚いたように足を止めた。


 完全に不審者を見る目だ。


 当然だ。こんな時間に、男が大泣きする赤ん坊を抱えて立ち尽くしているなんて、通報案件でしかない。


「「あの……」」


 声が重なった。


 彼女もまた、俺に何かを言おうとしていたようだった。


「あ、お、お先にどうぞ……」


 俺は反射的に譲ってしまった。


 エリートコンサルの交渉術なんて、今の俺には欠片も残っていない。


 ただの、助けを求める遭難者だった。


 彼女は少し躊躇いながらも、俺の方へと一歩近づいてきた。


 街灯の光を受けて、栗色の髪がさらりと揺れる。


 その瞳は、怯えよりも、探るような色をしていた。


「……赤ちゃん、どうかされたんですか?」


 その声は、驚くほど穏やかで、透き通っていた。


 不審がるというよりは、純粋に心配しているような響き。


 俺は情けなさで顔を歪めながら、必死に言葉を紡いだ。


「じ、実は……この子が少し熱っぽい気がして……病院に連れて行こうと急いで出てきたら、鍵もスマホも忘れてきてしまって……」


 彼女の視線が、俺のサンダル履きの足元と、固く閉ざされたドアを行き来する。


「その、電話を! 電話を貸していただけませんか!? この子、熱があるかもしれなくて、病院に連れていかないと……!」


 普通だったら断られる。


 でも、ただ、陽菜を助けたい一心で、俺は頭を下げた。


「ここの住人の方だっていうのは、知ってます。何度か、朝にお見かけしましたので……2102の方ですよね?」


「あ、はい! そうです! 2102号室の佐伯優真と申します! 決して不審な者ではなくて!」


「……佐伯さん。あ、私は小日向です。小日向詩(こひなた うた)と申します」


 彼女は俺の顔と、陽菜の顔を交互に見た。


 そして、ふぅと小さく息を吐き出すと、俺の目を見て言った。


「とにかく、落ち着きましょう。ここじゃ寒いですし」


 彼女は自分の鞄から鍵を取り出した。


 二つ隣の、2104号室の鍵だ。


「……え?」


「入ってください。病院に行くにしても、救急車を呼ぶにしても、まずはあなたが落ち着かないと。……それに、赤ちゃんが寒そうです」


 彼女は手際よくドアを開けると、俺を招き入れた。


 見ず知らずの男を、部屋に入れる?


 警戒心はないのか?


 けれど、今の俺にそれを問う資格はない。


 ただただ、助かった。


 俺には彼女が女神に見えたんだ。




 ◇◆◇




 2104号室のドアが開く。


 その瞬間、ふわりと柔らかな空気が俺を包み込んだ。


 俺の部屋と同じ間取りのはずなのに、そこは全く違う世界のようだった。


 荒れ果てた俺の部屋が戦場だとしたら、ここは静寂な聖域だ。


 玄関には可愛らしいドライフラワーが飾られ、ほのかに柑橘系のいい香りが漂っている。


 床には塵一つなく、家具も温かみのある木目調で統一されていた。


「どうぞ、入ってください。散らかってますけど」


「い、いえ。俺の部屋に比べたら、モデルルームみたいです……すみません、お邪魔します」


 俺は恐縮しながら、スウェットにサンダルという情けない格好で足を踏み入れた。


「あの……少し、その子を診てもいいですか?」


 小日向さんが、タオルと体温計を持って言った。


 その瞳は、先ほどまでの隣人としての遠慮が消え、プロの光を宿していた。


「えっ?」


「私、保育士をやってるんです。それに兄が小児科医で、子供の急病の対応とか、よく聞いてて」


 保育士。そして、医師の妹。


 その言葉を聞いた瞬間、俺の中で張り詰めていた何かが、ぷつりと切れた気がした。


 プロだ。


 この人は、プロなんだ。


 ネットの不確かな情報でも、俺の頼りない勘でもなく、確かな知識を持った人だ。


「お、お願いします……! 助けてください……!」


 俺は縋るように陽菜を差し出した。


 彼女は、泣き叫ぶ陽菜を慣れた手つきで受け取ると、優しく抱きかかえた。


 その抱き方は、俺のぎこちないそれとは全く違っていた。


 赤ちゃんの背骨を支え、包み込むような安定感。


「よしよし、びっくりしたねぇ。パパが慌ててるから、怖くなっちゃったかな?」


 彼女が背中をトントンと一定のリズムで叩きながら、あやし始める。


 その手つきは魔法のようだった。


 俺が何時間揺すっても、スクワットをしてもダメだったのに。


 陽菜の泣き声が、少しずつ、確実に弱まっていく。


「……すごい」


 俺は呆然と呟いた。


 彼女は手早く陽菜の首元や背中に手を入れ、様子を確認した。


 そして、体温計を脇に挟む。


 数秒後、ピピピと電子音が鳴った。


「……うん。熱は37.5度。赤ちゃんにしては、微熱程度ですね」


「えっ、でも、すごく体が熱くて……さっき触った時は、焼き石みたいで」


「これは『うつ熱』ですね」


「うつ熱……?」


 聞き慣れない言葉に、思わず聞き返した。


「厚着させすぎて、熱がこもっちゃってるんです。佐伯さん、暖房何度設定でした?」


「えっと、26度……くらいで。風邪を引かせちゃいけないと思って、このフリースを着せて、毛布も掛けて……」


「ああ、それは暑すぎますね。赤ちゃんは大人より体温が高いんです。それに、泣いて興奮するとすぐに体温が上がるんですよ」


 小日向さんは苦笑しながら、陽菜のフリースのジッパーを下ろした。


 中に着ていた肌着のボタンもいくつか外し、風を通す。


 そして、濡らしたタオルで、汗ばんだ首元や脇の下を優しく拭いてやる。


「ほら、涼しくなったねー。気持ちいいねー」


 するとどうだろう。


 火がついたように泣き叫んでいた陽菜が、嘘のように静かになり、ほうっと息を吐いたのだ。


 赤い顔が、少しずつ元の色に戻っていく。


 そして、小日向さんの指をぎゅっと握りしめ、キャッキャと笑い声を上げた。


「……あ」


 笑った。


 引き取ってから俺の腕の中では一度も笑わなかった陽菜が。


 会ったばかりの彼女の腕の中で、天使のように笑っている。


 それを見たら、急に涙が溢れてきた。


 止まらなかった。


「……よかった……本当によかった……」


 俺は両手で顔を覆い、子供のように泣いた。


 30過ぎた男が、人前でボロボロ泣くなんて、ほんと情けない。


 でも、この1週間、俺はずっと張り詰めていた。


『俺が育てなきゃいけない』


『姉ちゃんと義兄さんが命がけで残したこの命を、俺が絶対に幸せにするんだ』


 失敗は許されない。


 そう思えば思うほど空回りして、陽菜を泣かせてばかりだった。


「……俺は、ダメな男です……。この子を幸せにするって誓ったのに、熱の理由すらわからなくて……」


 嗚咽混じりに漏らす俺の背中を、誰かが優しく撫でたような気がした。


 小日向さんは何も言わず、ただ陽菜をあやしながら、俺が泣き止むのを待っていてくれた。




 ◇◆◇




「落ち着きましたか?」


 しばらくして、俺が鼻をすすりながら顔を上げると、テーブルの上に温かいマグカップが置かれていた。


 湯気を立てる、ココアだ。


「……すみません、取り乱して」


「いえ。相当、参っていたみたいですから」


「……はい」


 否定できなかった。


 今の俺にはもう、プライドのプの字もない。


 完全に心が折れたダメパパだ。


 俺はココアを一口飲んだ。


 甘い。


 温かさが、冷え切った内臓に染み渡っていくようだ。


 ここ最近ずっと、ゼリー飲料と冷めたコンビニ弁当しか食べていなかった胃袋が、驚いて活動を始めたような感覚。


 陽菜は、ソファの上に敷かれたタオルの上で、スヤスヤと寝息を立てている。


 あんなに泣いていたのが嘘みたいだ。


「可愛いですね。何ヶ月ですか?」


 小日向さんが、眠る陽菜を見つめながら優しく尋ねた。


「えっと……8ヶ月です」


「……8ヶ月。一番大変な時ですね。名前はなんて言うんですか?」


「陽菜です」


「陽菜ちゃん、可愛い名前」


 陽菜に微笑む彼女の顔を見た時、何故か分からないけど、俺は思ってしまった。


 こんな人が奥さんだったら、毎日幸せなんだろうな、と。


「あ、そういえば奥様は大丈夫なんですか? 中に入れないってことは、まだ帰られてないんですよね?」


「……あ……」


 答えに詰まってしまった。


 そりゃそうだよな。


 こんな小さな子がいれば、奥さんがいると思うのは当たり前。


 彼女は、俺と陽菜を中に入れてくれた。


 物騒な世の中で、女性一人なのに、迷わず。


「……実は」


 俺はココアのカップを握りしめ、正直に話すことにした。


 この人には、嘘をつきたくなかったから。


「……1ヶ月前に、姉が事故で亡くなって。陽菜は、姉の子で……俺が引き取ったんです」


「……そう、だったんですか」


 彼女の目が見開かれる。


 同情の色よりも、納得の色が強かった。


 俺の不慣れな手つきや、限界ギリギリの様子を見て、合点がいったのだろう。


「両親は高齢で、介護もあって……陽菜を施設にやるしかないって話になったんです。でも、俺にはできなかった。姉ちゃんたちが何よりも大切にしていた宝物を手放すなんて」


 俺は拳を握りしめた。


「仕事なら何でもできるつもりでした。金もあるし、環境も整えた。……でも、一番大切な『安心』を、この子にあげられていなかった。俺は、父親になった気になってるだけで、なんにもできてない」


 さっき、小日向さんに抱かれて笑った陽菜の顔。


 あれが答えだ。


 今の俺には、圧倒的に足りないものがある。


 それを痛感した。




 ――グゥゥゥゥ……。


 その時、盛大な音が部屋に響いた。


 俺の腹の虫だ。


 緊張の糸が切れて、極限状態だった空腹感が一気に襲ってきたのだ。


「あ、すみま……!」


「ふふっ」


 小日向さんが吹き出した。


 花が咲くような、柔らかい笑顔だった。


「佐伯さんも、限界だったんですね。……何か、食べますか?」


「えっ、いえ、そんな悪いですよ! ただでさえ夜に押しかけて、迷惑を……」


「良いんです。私もお腹空いてて、これから作ろうと思ってたんです。ついでですよ。嫌じゃなければ……ですけど」


「い、嫌なんてとんでもない! ……その、お願いします」


「はい! 任せてください!」


 彼女はキッチンへと向かった。


 冷蔵庫を開け、手際よく食材を取り出していく。


 トントン、と包丁がまな板を叩く音が心地いい。


 ジュウ、と何かが炒められる音。


 出汁の香りが漂ってくる。


 誰かが自分のために料理をしてくれる音を聞くなんて、何年ぶりだろう。


 コンビニの電子レンジの音とは違う。


 人の営みの音がする。




 ◇◆◇




 見ちゃいけないとは思いつつも……ついつい、彼女の部屋を見てしまう。


 整理整頓されて、綺麗な部屋だ。


 ――ふと、疑問がよぎる。


 ここは都内でも有数の高級マンションだ。


 彼女は保育士だと言っていたけど、失礼だが、保育士の給料で住めるような場所ではない。


「不思議、ですよね?」


「えっ!?」


 俺が振り返ると、彼女はクスッと笑いながら答えてくれた。


「あ、この部屋……実は、親が用意してくれたんです」


「ご両親が?」


「私はもっと安いアパートでいいって言ったんですけど、父が過保護で。『女の一人暮らしなんだから、ちゃんとしたセキュリティのところに住め』って聞かなくて……」


 なるほど。


 実家が裕福なお嬢様、ということか。


 それなら納得がいくし、彼女の纏う、どこか育ちの良さそうな穏やかな雰囲気とも合致する。


 得体の知れない俺を招いてくれたのはありがたいけど、彼女のそういう優しさを心配してご両親はここに住まわせているのかもな。


「そう、でしたか。……すみません、部屋をジロジロ見ちゃって」


「いえ。良いんです。不釣り合いなのは分かってますから」


「そんなことありませんよ……! 部屋だって綺麗にされてるし、小日向さんだって品があるし……!」


「ふふ。そうですか?」


 恥ずかしい。何を言ってる、俺は。


 これじゃ、必死なおっさんだろ。


 ……何を浮かれてんだ。



 ◇◆◇



 出てきたのは、湯気を上げる大きなおにぎりと、具沢山の豚汁だった。


「残り物で作ったので、たいしたものじゃないんですけど」


「い、いただきます……」


 俺はおにぎりを手に取った。


 ほんのり温かい。


 海苔のいい香りがする。


 一口齧る。


 塩加減が絶妙で、米の一粒一粒が立っている。


 中に梅干しが入っていて、その酸味が疲れた体に心地いい。


 美味い。


 涙が出るほど、美味い。


 豚汁を啜る。


 大根、人参、ごぼう、豚肉。野菜の甘味と味噌の風味が、疲れた体に染み込んでいく。


 コンビニの弁当とは違う、命の味がした。


「……美味しいです。すごく」


「よかった。おかわり、ありますからね」


 俺は無我夢中で食べた。


 食べている間、小日向さんは陽菜の頭を優しく撫でていた。


 その横顔が、あまりにも穏やかで。


 聖母のように見えた。



 ◇◆◇



「ごちそうさまでした」


「お粗末さまでした」


 彼女が頭を下げる。


 つられて俺も頭を下げる。


「とんでもない……! とても美味しかったです!」


「ふふ。それは良かったです。……あ、佐伯さん。管理会社に連絡しますよね?」


 小日向さんが俺にスマホを差し出してくれた。


「なにからなにまで……本当にすみません」


「いいんですよ。助け合いです」


 俺は管理会社に経緯を説明し、すぐに対応してもらうことになった。


「大変ですね。男性一人で、こんなに小さな赤ちゃんを」


 小日向さんは陽菜のお腹をポンポンとしながら言った。


「……いえ、自分で選んだことなので」


「ご立派です」


「……そんなんじゃないですよ、実際今日だって、小日向さんが助けてくれなきゃどうなってたか」


「私、お世辞は言わないことで有名なんです」


「え?」


「自信持っていいと思います。子供を育てるって、並大抵のことじゃないですから」


「……そう……ですね」


 俺の中で一つの決意が固まっていた。


 俺はもう、元の生活に戻れる気がしなかった。


 陽菜と二人きりの、あの暗い部屋に戻るのが怖い。


 また泣き止まない夜が来るのが怖い。


 この人と一緒なら、陽菜は笑ってくれる。


 この人は、陽菜を笑顔にできる方法を知ってる。


 ……気持ち悪がられるだろうな。


 でも……。


 俺は居住まいを正した。


 スウェット姿で、目にはクマがあって、情けない格好だけど、今できる精一杯の誠意を込めて。


「あの、小日向さん」


「はい?」


「お願いがあります」


 俺は深々と頭を下げた。


「俺に……育児を教えてくれませんか」


「え?」


「お金は払います。ベビーシッターとして雇わせてください。……いや、シッターとしてじゃなくて、あなたの知識と経験を、俺に貸してほしいんです」


 俺は顔を上げて、彼女を真っ直ぐに見た。


「俺は、この子を自分の手で育てたい。でも、今のままじゃダメだということも分かりました。だから……俺が一人前の父親になれるように、助けてくれませんか。もちろん、スキマ時間で構いません」


 全部丸投げするんじゃない。


 俺が、父になるために。


 小日向さんは少し驚いた顔をしたけれど、やがて優しく微笑んだ。


「……お金はいりませんよ」


「えっ、でも」


「お隣さんじゃないですか。それに、陽菜ちゃんの笑顔、私ももっと見ていたいですし。私、子供大好きなので」


 彼女はスマホを取り出した。


「連絡先、交換しましょう。困ったことがあったら、いつでもLINEしてください。私のIDと番号、書いておきますから」


 それが、俺たちの始まりだった。




 ◇◆◇




 その日から、俺の世界が変わった。


 俺は小日向さんに教えてもらった通り、部屋の温度管理を見直し、抱っこの仕方を練習した。


 わからないことがあればすぐにLINEをして聞いた。


『夜泣きが止まらない時は、一度電気をつけてリセットするといいですよ』


『離乳食、食べない時は無理強いしなくて大丈夫です。楽しい雰囲気を作ってみてください』


 彼女のアドバイスは的確で、何より俺の不安を消してくれた。


 週末には、三人で公園に行くようになった。


「ほら、陽菜ちゃん。ブーラン、ブーラン」


 小日向さんがブランコに乗り、膝の上に陽菜を乗せて揺らす。


 陽菜はキャッキャと声を上げて笑い、俺はその様子をスマホで動画に収める。


「佐伯さんも乗ります?」


「えっ、俺はいいですよ」


「陽菜ちゃん、パパと一緒に乗りたいって顔してますよ?」


 そう言われて、俺はおずおずとブランコに近づいた。


 陽菜を抱き上げると、俺のシャツを小さな手でぎゅっと握ってくる。


 陽菜を落とさないように、しっかりと支える。


 ああ、愛おしい。


 姉ちゃんは言ってた。


『育児してるとさ、自分も一緒に育ってる気がして、毎日新しい発見があるんだよね』


 そうだ。


 俺は仕事ばっかりで、こんなにゆったりした時間を過ごしてこなかった。


 休日に公園で、太陽の下で過ごす時間がこんなに心地のいいものだなんて知らなかった。


 俺は、陽菜と一緒に成長してるんだな。


 そして、微笑む小日向さんを見ると、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。


 周りから見れば、俺たちは幸せな家族に見えているだろうか。


 もし、本当にそうなれたら。


「幸せだろうな……」


「えっ? なにか言いました?」


「えっ!? あ、いえ!」


 そんな想いが、日に日に大きくなっていった。




 ◆◇◆




 ある週末の午後。


 俺たちは、マンションの近くにあるスーパーに来ていた。


「佐伯さん、今日の夕飯はポトフにしましょうか。お野菜がたくさん摂れますし、陽菜ちゃんも味付け前の野菜なら食べられますから」


「了解です。……キャベツと、人参と、あとじゃがいもですかね?」


 俺は、陽菜を乗せたカートを押しながら、小日向さんの後ろをついて歩く。


 かつての俺なら、スーパーなんてコンビニの延長線上でしかなかった。


 必要な栄養素を効率的に摂取できる惣菜か、保存の効くレトルト食品をカゴに放り込むだけの場所。


 滞在時間は5分もあれば十分だった。


 でも今は違う。


 野菜の鮮度の見分け方を小日向さんに教わり、離乳食に使えそうな食材を裏面の成分表示とにらめっこしながら選ぶ。


 それが、こんなに楽しいなんて知らなかった。


「あ、佐伯さん。その人参より、こっちの方が色が濃くておすすめですよ」


「え、そうなんですか? 俺には全部同じに見えますけど……」


「ふふ、主婦の知恵です。独身ですけど」


 小日向さんが悪戯っぽく微笑んで、俺のカゴに艶のいい人参を入れる。


 その何気ない仕草が、まるで長年連れ添った夫婦のようで――俺の心臓が、少しだけ跳ねた。


「きゃっきゃ!」


 カートに乗った陽菜が、陳列棚のカラフルなパッケージを見て嬉しそうに声を上げる。


「陽菜も人参好きか? 小日向さんが選んでくれたやつだぞ」


 俺が陽菜に微笑んだその時だった。


「あらあら、可愛い赤ちゃんねぇ」


 品出しをしていた年配の女性店員さんが、目を細めて声をかけてきた。


「元気でいいわねぇ。……ふふ、パパに似て目がぱっちりしてるわね」


「えっ」


 俺は思わず動きを止めた。


 パパ。


 そっか、俺、もう陽菜のパパなんだよな。


 店員さんが続けて小日向さんを見て言った。


「ママも美人さんだから、将来が楽しみねぇ。休日に家族でお買い物なんて、幸せそうでいいわねぇ」


 ママ。

 家族。


 その言葉の響きに、俺の思考回路が一瞬ショートした。


 俺たちが、家族に見えている?


 俺と、陽菜と、小日向さんが?


 チラリと隣を見ると、小日向さんが顔を真っ赤にして固まっているのが見えた。


 否定しなきゃ。彼女に迷惑がかかる。


 そう思うのに、口が動かない。


 いや、動かしたくなかったのかもしれない。

 その誤解が、あまりにも心地よくて。


「……ありがとうございます。自慢の、娘なんです」


 俺は、あえて「妻」の部分は否定せず、陽菜のことだけを答えた。


 店員さんは「まあ素敵」と微笑んで、仕事に戻っていった。


 残されたのは、微妙な空気の俺たち二人。


「あ、あの……すみません、変に誤解させてしまって」


 俺が慌てて謝ると、小日向さんは赤くなった頬を隠すように俯いて、小さく首を横に振った。


「……いえ。その……嫌じゃ、なかったので」


「え?」


「あ、な、なんでもないです! さあ、次は牛乳買いに行きましょう! 陽菜ちゃん、ヨーグルトも見るよね?」


 彼女は慌ててカートの先頭に立って歩き出した。



 スーパーの帰り道は、並んで歩いた。


 重たいレジ袋を持つ俺の左手と、抱っこ紐をつけて陽菜を抱っこしている彼女の右手が、歩くたびに少しだけ触れ合った。


 お互い距離を取ろうとはしなくて、その距離が、以前よりもずっと近くなっている気がした。




 ◆◇◆




 ある日のこと、私は高熱でベッドに沈んでいた。


「……うう、頭いたい……」


 体温計は38度を超えている。


 保育園で流行っていた風邪をもらってしまったらしい。


 喉が焼けるように痛いし、体の節々が悲鳴を上げている。


 その時、スマホが震えた。

 佐伯さんからのLINEだ。


『今日、仕事が早く終わったので、もし良かったら夕飯一緒にどうですか? 陽菜も会いたがってます』


 嬉しいお誘い。

 でも、今の私じゃ陽菜ちゃんに風邪をうつしてしまう。


『すみません、ちょっと風邪を引いてしまって……今日は遠慮しておきます』


 送信ボタンを押すと同時に、深い孤独感が押し寄せてきた。


 一人暮らしの風邪は、心細い。


 いつもは「先生」として気を張っているけれど、弱った時は誰かに甘えたくなる。


 でも、私には甘えられる相手なんていない。



 ――それから数時間が経過し、ふいにインターホンが鳴った。


 ……ピンポーン。


 画面を見ると、そこには息を切らした佐伯さんが立っていた。


 でも、いつもの抱っこ紐がない。陽菜ちゃんがいない。


「……佐伯さん?」


「小日向さん、どうしても心配で」


 私が鍵を開けると、彼は大量の買い物袋を提げて立っていた。


「う、うつしちゃうかも……」


「大丈夫です。マスク3重にしてますし、手洗いうがいとアルコール消毒を徹底します! 断られても、入りますよ」


「でも……」


「こういう時くらい、頼ってください」


「……分かりました、じゃあお願いします。私もマスク3重にして、換気もして、小声で喋りますね」


 袋の中にはゼリー、スポーツドリンク、冷えピタ、消化に良さそうなうどんが入っていた。


「あ、あの……陽菜ちゃんは?」


「数時間だけシッターを呼びました」


「えっ!?」


「さすがに、ここに連れてくるわけにはいかないし、かといって一人で寝かせておくわけにもいかない。……それに、俺が小日向さんの看病に集中したかったから」


 彼は当たり前のように言ってのけた。


 プロのシッターを、私の看病のためだけに?

 私のために、そこまでしてくれるの?


「さあ、寝ててください。お粥作りますから」


「……すみません、お金もかかるのに」


「気にしないでください。小日向さんの為なら、別にいいんです。……それに、いつもお世話になってますから」


 テキパキとキッチンに立つ彼の背中を見ながら、私は熱とは違う理由で顔が熱くなるのを感じた。


 以前、廊下で途方に暮れていた頼りない彼はもういない。


 今の彼は、頼もしくて、優しくて、判断力のある大人の男性だ。


 なんだか、胸の奥がじんわりと温かくなる。


 ああ、ダメだ。


「……弱ってる時に優しくされると、泣いちゃいます」


「あの夜、俺が泣いたのと同じですよ。……頼ってください。俺たちは、持ちつ持たれつでしょう?」


 持ちつ、持たれつ。


 その言葉が、熱に浮かされた頭に心地よく響く。


 キッチンから、お粥のいい匂いが漂ってくる。


「……安心する匂い」


 ボソッと呟いた私の一言を彼は聞き逃さなかった。


「俺は料理得意じゃないですけど、シッターが来るまでの間、レシピサイト見まくって、お粥の作り方勉強しましたから! 多分、美味しいですよ」


「ふふっ……お粥のためにレシピサイトですか?」


「いや、結構奥が深いですよ。あ、生姜も買ってきましたけど入れときますね。小日向さん生姜好きでしたよね?」


「あ、はい。ありがとうございます」


「風邪、治ったら3人で動物園行きませんか? 陽菜もきっと喜びます」


「あ、いいですね! 最近テレビで見ましたけど、新しい動物が来たらしいですよ」


「へー! それは楽しみだ」


 なんだろうこの会話。


 ……敬語ではあるけど、内容は、夫婦みたい。


 誰かが自分のためにいてくれる。

 誰かが自分を心配してくれる。


 その安心感の中で、私は思った。


 この人と一緒なら、きっとどんな時も大丈夫だ、と。


「はい、お粥できました。茶碗によそっておくので、食べてください。洗い物はまた後でしに来ますよ。シッターの時間切れになる前に」


 佐伯さんが簡単に片付けをしてそう言った。


 ……言いたい。


 ワガママを言いたい。


 まだいてください。


 まだ一緒にいたいですって。


 でも……うつるリスクが上がる。


 うつれば、陽菜ちゃんにもうつるかもしれない。


 だから……言えない。


「小日向さん」


 帰る準備をしていた佐伯さんが不意に私の名を呼んだ。


「あ、あ……はい……」


「……また何かあれば、すぐにLINEしてください。すぐに駆けつけます。……本当は、まだ一緒にいたいけど」


「……えっ?」


「そんなに不安そうな顔しないでください。俺、スマホをずっと離さず握ってますから」


「……なら、ワガママをひとつ聞いてください」


「はい、なんでしょうか」


「……この後、しばらく電話していたいです。電話なら風邪はうつらないし……佐伯さんの声は聞けるから」


「小日向さん……。それ、俺も思ってました。すぐ電話しますね! でも、辛くなったり眠くなったら自分を優先してください」


 ああ。


 私……。


「はい、ありがとうございます」


 ただの隣人じゃなくて、もっと深い関係になりたい……。そう、願ってしまった。


 私って、もうずっと前から彼に恋をしてるんだ。




 ◇◆◇




 それからの日々は、瞬く間に過ぎていった。


 動物園でベビーカーを押していたら「可愛いお子さんですね。お母さんとお父さんも幸せそうで」と、また夫婦だと勘違いされて声をかけられたこと。


「スーパーでのこと、思い出しますね」なんて笑いあった。


 生後10ヶ月の記念日、飾り付けに失敗した俺を見て、小日向さんがお腹を抱えて笑ったこと。


 陽菜が初めて「まんま」と言った時、二人で顔を見合わせてハイタッチしたこと。


 彼女が仕事で疲れた、とLINEを送ってきた時。少しでも癒してあげたくて、彼女の好きなだし巻き卵を差し入れした。


 それを彼女が、「美味しい」と泣きながら食べてくれたこと。


 日を追うごとに、俺たちのカメラロールには、陽菜と、そして三人の笑顔が増えていった。


 それは、俺が今まで積み上げてきたどんなキャリアよりも、鮮やかで、温かい記録だった。


 陽菜が1歳の誕生日を迎えた日。


 俺たちはささやかなお祝いをしていた。


 彼女の手作りケーキ。


 陽菜用の離乳食ケーキもある。


「陽菜、お誕生日おめでとう」


「おめでとう、陽菜ちゃん」


 陽菜は嬉しそうに手を叩き、クリームだらけの顔で笑った。


「あはは、陽菜ちゃんクリームまみれ〜」


「小日向さん、このケーキ、めちゃくちゃ美味しいです」


「そ、そうですか? ……良かった」


「本当に、今まで食べたケーキで一番美味しいです」


「そんなにおだてても何も出ませんよ?」


「本心ですから」


 楽しい時間が過ぎ、陽菜が遊び疲れて眠ってしまった頃。


 俺は、小日向さんと二人で洗い物をしていた。


 並んでキッチンに立つ。


 その距離感が、たまらなく心地よかった。


「……小日向さん」


「はい?」


「俺、陽菜を引き取って本当によかったと思ってます」


 俺は泡のついた手を止めて、彼女を見た。


「最初は、意地だけでした。でも今は、この子の笑顔や寝顔を見るのが何よりの幸せです。……それは、あなたがいてくれたからです」


「私は、少しお手伝いをしただけですよ。佐伯さんが頑張ったからです」


「いいえ。あなたがいなかったら、俺は潰れていました」


 俺は手を洗い、タオルで拭いてから、彼女に向き直った。


 心臓が、早鐘を打っている。


 プレゼンの時よりも、何倍も緊張している。


 でも、伝えなきゃいけない。


「小日向さん。俺……あなたが、好きです」


「えっ……」


 彼女が目を見開く。


「陽菜のためとか、育児のためとか、そんな建前はどうでもいい。俺自身が、あなたとずっと一緒にいたいって思ったんです。あなたと、陽菜と、3人で過ごす時間が……尊いものだと感じてしまった」


 俺は一歩踏み出し、彼女の手を取った。


「俺は、不器用だし、仕事人間だし、まだまだ父親としても半人前です。でも、あなたを幸せにしたいという気持ちだけは、誰にも負けません」


 彼女の顔が、みるみる赤く染まっていく。


「あの夜、俺はあなたに救われました。……今度は、俺があなたを守らせてください」


 俺は、万感の思いを込めて、あの夜言えなかった言葉を、今度は違う意味を込めて告げた。


「子持ちの、30過ぎのおっさんですけど……俺の恋人になってくれませんか……そしていつかは、俺と陽菜の家族になってくれませんか」


 彼女の瞳から、ポロリと涙が溢れた。


 でも、その顔は笑っていた。


「……はい。私もそうなれたら嬉しいなって、思っていました」


「小日向さん……」


「詩、です」


「う、詩……さん」


「はい。優真さん」


 俺は彼女を抱きしめた。


「……必ず幸せにします」


「はい。ちゃんと幸せにしてくれないと、私が癇癪起こしますよ?」


 腕の中の温もりと、ソファで眠る陽菜の寝息。


 その横で、俺たちの唇が重なった。


「……まん、ま」


 ふいに、陽菜が可愛い寝言を漏らした。


 夢の中で、美味しいご飯でも食べているんだろうか?


 俺たちは慌てて唇を離し、顔を見合わせて――それから、声を殺して吹き出した。


「……ふふ。どんな夢を見てるんでしょうね?」


「きっと楽しい夢ですよ。ほら、笑ってる」


「あ、ほんとだ! 可愛い! 優真さん、写真写真!」


「あ、そっか!」


 姉ちゃんが命をかけて残してくれたこの宝物、ずっと守るから。


 大切な人と、二人で。

 






【2/11追記】

皆様、おはようございます。

本日2/11より連載版の投稿を開始いたしましたが、爆速で完結まで投稿し、2/11現在で【完結済み】です。


【連載版】亡き姉が残した「生後8ヶ月」の娘を引き取った俺と家族になってくれませんか?

https://book1.adouzi.eu.org/n5805lt/


──────────────────

最後までお読みいただきありがとうございました!


今回は、元々長編として執筆済みの物語を1本の短編として読みやすく再構成しました。

要素をぎゅっと凝縮したため駆け足気味な部分や内容を変更した部分(シッターを呼んだシーンは連載版では一時帰国中の妹に陽菜を任せたりなど)もありましたが、楽しんでいただけたなら幸いです。

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