case5ー6.消せない記憶
気がつくと、エレノアは寝台の上にいた。
広く豪勢な寝台で、美しい天蓋が付いている。そこは店の自室でも、病院でもない。
見上げると、男が自分の上に馬乗りになっている。その男の顔を見て、エレノアはすぐにこれが夢だとわかった。
馬乗りになっている男が、既にこの世に存在しない人間だったからだ。
(ああ……最悪だ)
男は下卑た笑みを浮かべながら、エレノアのことをじっと見下ろしている。
『ああ、エリー』
脳がまだ男の声音を記憶しているせいで、鮮明に言葉が聞こえてくる。
『俺の可愛いエリー』
男はそう言いながら、エレノアの首をゆっくりと締め上げる。
夢なのに息苦しく感じるのは、精神的なものだろうか。
そして、徐々に男の顔が近づいてきたかと思うと、奴はエレノアの耳元で囁いた。
『俺はお前が苦しむ姿を見ると、無性に興奮するんだ』
本能的な恐怖と嫌悪感が腹の底から湧き上がってきて、強い頭痛と吐き気に襲われる。動悸がして上手く呼吸ができない。苦しい。
(離せ)
「――ノア」
男の腕を引っかき、バタバタと暴れるが、一向に男から逃れられない。力が、圧倒的に足りていない。
(離せ離せ離せ!!!)
「エレノア!!」
耳元で響いた大きな声が、エレノアを夢から現実へと引き戻してくれた。
「ハッ、ハッ、ハァッ」
呼吸が酷く乱れている。大量の汗をかいたようで、髪の毛がぐっしょりと濡れていて気持ちが悪い。
夢から目覚めたばかりで混乱するエレノアの耳に、聞き慣れた優しい声が響いてくる。
「落ち着いて深呼吸して。ここは病院だ。大丈夫。君を傷つける者は誰もいない」
心配そうに覗き込んできたその顔を見て、エレノアは全身から力が抜けていくのを感じた。
「アレン……」
エレノアはそこでようやく現実を理解し始めた。
ここはオーウェンズ病院の病室だ。廃屋で眠ってしまった後、どうやらスノウが病院に運んでくれたらしい。
アレンはいつにも増してその灰色の瞳に不安の色を浮かべている。
「酷くうなされていたから心配したよ。嫌な夢でも見た?」
エレノアはその問いには答えず、しばらくアレンのことを見つめていた。何も返ってこないことを不思議に思ったのか、アレンは首を傾げる。
「エレノア?」
「お前のその人畜無害な顔を見てると、なんだか安心する」
ようやく返ってきた答えに、アレンはポカンと呆気に取られた様子だったが、程なくして苦笑を漏らした。
「それって褒めてる?」
「褒めてる。最大級の褒め言葉だ」
「ふふっ。ほんとかなあ」
「ああ、本当だ」
エレノアは穏やかに笑った。その表情を見て安心したのか、アレンは病床の近くにあった椅子に腰掛け、エレノアの診察を始めた。
「体の具合はどう? スノウさんから、痺れ薬を飲まされたって聞いたよ」
エレノアは寝そべったまま腕や足を動かしてみる。だるさはやや残るが、動作に問題はなさそうだ。
「ああ、もう動ける。今は何時だ? どれだけ寝ていた?」
「今は朝の十一時だね。昨日のお昼過ぎから今まで、ぐっすり寝てたよ」
「一日中寝ていたのか……」
あまりの醜態に、エレノアは自分に呆れた。今まで熱を出そうが怪我をしようが、そんなに寝込むことはなかったというのに。
「普段が寝不足すぎるんだよ。君は毎日もう少し睡眠時間を確保したほうがいい」
アレンは眉を下げてそう言った後、脈を測ったりいくつか問診をしたりしてエレノアの診察を終わらせた。今回飲まされた毒には解毒薬がなく、毒の効果が消えるのを待つしかないのだ。
とはいえ、もう体に痺れはないので問題ないだろう。アレンからも退院の許可をもらえた。
「ウィリス卿が来てるんだ。待ってて。すぐに呼んでくるよ」
そう言って立ち上がったアレンの手首を、エレノアはなぜか咄嗟に掴んでしまった。自分でも意図しない行動に驚き、すぐにパッと手を離す。
アレンもアレンで、驚いたように目を丸くしていた。
「エレノア?」
「悪い、何でもない」
バツが悪くなり思わず視線を逸らす。するとアレンは椅子に座り直し、穏やかな声音で問いかけてきた。
「ちょっとだけ世間話をしてもいい?」
「え? ああ」
それから彼は、本当に他愛もない話を聞かせてくれた。
長らく入院していた男の子が病を乗り越え、先日晴れて退院できたこと。
訪問先の貴族の家に、めでたく第一子が誕生したこと。
それから、妹のセレーナが患者から頻繁に花束をもらって困り果てている話も聞いた。
アレンは話し上手なので、聞いていてつまらないということは全くなかったが、彼がなぜこんな話をしてくるのかは全く理解できなかった。
しかし、話が終わり「落ち着いた?」と聞かれてようやく彼の意図を理解する。エレノアの精神が不安定なことを察し、他愛ない話をすることで気持ちを落ち着かせてくれたのだ。
「苦しい時や悲しい時は、誰かに頼っていいんだよ。一人で抱え込みすぎないで」
「…………」
「あ、そうだ、エレノア。睡眠薬を処方しておくから、帰る時に窓口で受け取って。今日は眠れないんじゃないかと思って」
アレンは患者の全てを見通す眼を持っている。エレノアは、何度もそれに驚かされてきた。
「全く……お前には本当に敵わないな。ありがとう、助かるよ」
エレノアが苦笑すると、アレンは優しく微笑んだ。そして彼は立ち上がり、今度こそウィリスを呼びに病室を出ていった。
それから程なくして、ウィリスがスノウを引き連れてやってきた。
「エレノア様……」
病院着のエレノアを見たウィリスは、ショックを受けたように悲痛な面持ちをしていた。隣にいるスノウはというと、少しバツが悪そうに頭を掻いている。
「ウィリス様、申し訳ありません。ジョンに会ったら捕まえてお届けすると大見得を切っておいて、このザマです」
エレノアが頭を軽く下げると、ウィリスはすぐに首を横に振った。
「いいえ。あなたがご無事で何よりです。むしろ、未然に防げず申し訳ございませんでした」
今度はウィリスが深く頭を下げた。
彼は何も悪くない。わざわざ事前に忠告をしてくれたというのに、それを無駄にしてしまった自分が悪いのだ。
困ってしまったエレノアは、眉を下げながら「お顔を上げてください」と促す。そして、隣のスノウに視線を移した。
「スノウも後始末を任せてすまなかったな。ジョンは戻ってこなかったか?」
「はい、残念ながら。でも、今回奴のアジトを叩くことができたのは、かなり大きかったと思いますよ」
ウィリス主導の下、これまでジョンのアジトをいくつも潰してきたらしいが、これほどの規模は初めてだったらしい。捕らえられたジョンの手下たちは、尋問にかけられてる最中だという。
そしてその後、ウィリスは現状を説明してくれた。
違法麻薬の件に関しては、所持や乱用している貴族を見つけては、そこから売人を辿るという地道な捜査を続けているらしい。
また、ジョンが人身売買を行っているという噂から、奴が帝国の人間を他国に売り飛ばそうとしているのではないかと考え、国外に通じる全ての検問所で積荷の検査を厳しくした。しかし、ウェストゲートの包囲網をもってしても、人間を運ぶ商人は見つけられていないらしい。
「エレノア様は、これ以上この件には関わらないでください。もしまた奴がエレノア様の元に現れても対処できるよう、うちから何人か護衛を送ります」
「いえ、そこまでしていただかなくても大丈夫です。今回はイレギュラーがあったというのもありまして」
あの時ポールが店に来なければ、もう少しマシな結果になっていたはずだ。言い訳じみた結果論でしかないが。
するとウィリスは苦しそうに顔を歪め、思わずといった様子でエレノアに手を伸ばした。しかしその手は虚空で止まり、一瞬のためらいの後、スッと引っ込められる。
「……こんな無茶なことはもう二度としないと、どうかお約束ください。今回は本当に肝が冷えました」
ウィリスの金色の瞳には、己への後悔とジョンヘの強い怒りが入り混じっている。
彼はそう言うが、同じ状況に出くわした時、同じことをしない自信が自分にはなかった。約束は到底できそうにない。
「ご心配をおかけして申し訳ありませんでした」
結局エレノアは、曖昧な答えしか返せなかったのだった。




