第90話 魔王が用意したもの
ダラム卿は、フランスの私室の近くまで、ドレスの入った箱を届けてくれた。
フランスは笑顔で言った。
「ダラム卿、ありがとうございます。運んでくださったことも、ドレスのことも」
ダラム卿がうやうやしく礼をして言う。
「わたしはあなたのしもべですから。それに、あのドレスは、本当にとてもよく似合っていました。あなたの美しさを、誰も、取り上げたりできるものではありません」
アミアンが小さい声で「すごい」と言った。
たしかに、すごい。
ぶれない、女たらし。
アミアンがドレスの箱をうけとる。
ダラム卿が、もうひとつ下に隠し持っていた箱を、フランスに差し出した。
「あら、これは?」
「実は、今日は陛下に竜の姿で、帝国から運んでもらったのですが、そのときに、ちょっと寄り道をしまして。これは、そこで買ったものです。できたてを買ったのですが、すこし冷えてしまったかもしれません」
「まあ、あけてみても?」
「もちろんです」
フランスは箱を受け取る。
素朴なつくりの箱だった。
底の方は、まだほんのりと暖かい。甘いような、香ばしいような香りがする。
焼き菓子かしら。
フランスは、そっと、ふたをあけた。
あけて、中身を見て、固まった。
これは……。
これって……。
どうしよう、こんなのって……。
フランスは、目頭があつくなって、あわてて目をぱちぱちやった。
何か、言いたいのに、何もでてこない。
嬉しいと、伝えたいのに、口をひらけば、涙が出てしまいそうで、喉の奥にぐっと力をこめて耐える。
アミアンが、フランスの様子を見て、首をかしげ、箱のなかをのぞきこんだ。
アミアンが小さい声で言う。
「……カヌレ」
フランスは、なんとか涙をこらえて、ダラム卿を見て言った。
「アキテーヌに、寄られたのですか?」
「ええ。陛下がアキテーヌで菓子を買いたいと仰られて。この菓子は、あんまり外に出回っているものでもないので、どこで知ったのか……。あなたに、あとで渡してほしいと言われていたんです」
「そう……だったんですね」
カヌレは、アキテーヌの菓子だ。
むかしは、よく、焼きたてを食べた。
アキテーヌを追われ教国にうつり、アキテーヌが帝国領となってしまってからは、見ることはなかった。
もう、ほとんど、覚えてもいなかったのに。
見たら、味まで思い出せる。
ふと、フランスは、なつかしい景色を思い出した。カヌレの香りがする思い出だ。アキテーヌの城の庭園で、手ざわりの良いクッションにもたれかかりながら、足をほうりだして、カヌレを手に持ち、なにか、ひどく楽しい話で笑っている。アミアンと。
フランスが何も言えないまま、動けずにいると、アミアンがそっとひとつカヌレを取って、小さく割き、フランスの口にいれた。
覚えていた通りの、なつかしい味。
外側の香ばしいかりっとしたところを先に食べてから、中の甘くてしっとりと柔らかい部分を食べるのが、好きだった。
フランスは、カヌレを飲み込んでから、言った。
「わたし、ちょっと、陛下のところに行ってきます」
アミアンが、優しい顔でうなずく。
フランスはダラム卿に礼を言ってから、アミアンにカヌレをあずけて、イギリスのいる天幕に走った。
思いっきり走る。
すそがじゃまっけだ。
思いっきりすそを持ち上げて、走る。
天幕につくと、使用人たちが衣装や布を運び出しているところだった。
入り口に立つ帝国の騎士が、フランスに気づいて言った。
「陛下なら、先ほど出ていかれました」
フランスは息切れしながら言った。
「どちらに行かれたんですか?」
「あっちのほうに、歩いて行かれました」
騎士が指さした先は、天幕のむこうにある林のほうだった。
フランスはまたすそを持ち上げて走った。
すこし先にイギリスがいる。
天幕が騒がしいから散歩でもしているのか、林に向かって、ゆっくりと歩いている。
陛下、と、呼ぼうとした。呼ぼうと口をひらいたが、いつもあまり使われていない道は荒れていて、走ると声を出す余裕がない。
途中で、走る音にきづいたのか、イギリスが振り向いた。
イギリスの姿がぼやけて見えた。
走るたびに、我慢できなくて、涙が落ちる。
フランスは、イギリスの前まで行って、立ち止まり、ありがとうございます、と言おうとした。
アキテーヌの菓子を買って下さって、ありがとうございます。
その心づかいに感謝いたします。
そう言おうとしたのに、次々あふれる涙に流されるみたいに、言葉にならなかった。
声にならない音が喉からして、そのまま、その場でただ泣いてしまう。
イギリスが赤い竜の姿になって、フランスの近くで、座り込む。フランスの身体のまわりを囲むみたいにして、尾をくるりとやった。片方の翼をひろげて、まわりから見えないように、フランスを隠す。
くるりとやった尾を、イギリスが赤い竜の口先でとんとんとする。
座れと言うように。
フランスはしっぽの先の方にちょんと座って、泣いた。
赤い竜の体が、すべての風からフランスを守ってくれるようだった。炎のような色の身体には、やさしいあたたかさがある。
イギリスは、フランスが泣きやむまで、フランスの近くの地面にあごを置いて、ふせをするみたいに、じっと待ってくれた。
しばらくして、フランスはようやっと落ち着き、言った。
「陛下、ありがとうございます」
赤い竜が首をもたげる。
大きな竜の瞳が、目の前にあった。
フランスが立ち上がると、イギリスが赤い竜の姿をほどいて、ひとの姿に戻る。
まるで、そうするのが普通のことのように、ごく自然にイギリスが腕をさしだし、フランスはそこに手を置いて、ふたりで歩きはじめた。
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おまけ 他意はない豆知識
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【カヌレ】
アキテーヌ公国の首府であるボルドー地方の伝統菓子です。
正式名称は「カヌレ・ド・ボルドー」。フランス革命で資料が焼失し、正確な歴史は分からない謎めいたお菓子ですが、16世紀頃には作られていたとも言われています。




