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第82話 聖下の、りんごちゃん♡

 フランスは、シャルトル教皇にわたされた着替えを手に、部屋をぐるりと見回した。


 これが、聖下の私室……。


 もっと豪華かと思っていたのに、驚くほど小さく質素だった。控えめなサイズのベッド、控えめなサイズの衣装入れ、ベッドサイドに小さなテーブルがあるだけだ。


 飾り物なんてひとつもない。壁にはちいさな窓があるばかり。


 フランスの部屋よりも、小さい。


 さすがに、寝具は良いものが用意してありそうだったが、それもイギリスの天幕にあるような豪華な織物なんかは使っていない。いたって素朴なベッドだった。


 シャルトル教皇が案内してくれた彼の私室は、執務室からすぐの場所にあった。


「泊まり込むこともたまにあって、そういう時にこの部屋を使うんです」


 シャルトル教皇は、衣装入れから服を取り出してフランスに手渡すと、すぐに出ていった。


 あまり使わないと言っても、教皇の私室なのに——。


 どれも、手入れは十分にされているけれど、質素で古いものばかりね。


 なんだか、意外だった。シャルトル教皇自身が、あまりに華やかな姿をしているからか、生活も同じように華やかな雰囲気をまとっていると思っていた。


 勝手な、思い込みね。


 フランスは服を着替えた。


 大きいけれど、居心地が悪くなるほど大きすぎることもなかった。服から、聖下の香りがする。


 幸せ!

 アーメン!


 フランスは急いで着替えをすませて、扉をあけた。シャルトル教皇はすぐそこに立っていた。


 フランスは、着てきた服をかかえて言った。


「あの、着替えた服は……」


「ああ、その部屋に置いておいたらいいですよ。また戻ってきますから」


「はい、聖下」


 ふたりで、大聖堂のとなりにある厩に行く。


 淡い色の立派な馬に、シャルトル教皇が手をのばした。真っ黒でつぶらな目をしている。


 かわいい。


「こわくはありませんか?」


「はい。かわいらしいですね」


 フランスが答えると、シャルトル教皇が、嬉しそうな顔をして馬の鼻面をなでながら言う。


「良かったな。かわいいと言われて嬉しいだろ?」


 馬が鼻先でシャルトル教皇にじゃれつくようにする。すると、彼は、あははと嬉しそうに笑った。


 ——まずいわ。


 ほんとの、ほんとに、召されるかもしれない。


 聖下の、くだけた口調と、天真爛漫な笑い?

 女と見まごう美貌に、大天使ガブリエルのようと言われる聖下のお姿でよ?


 わたし今日、無事に生きて帰れるのかしら。

 ちょっと心配になってきたわ。


 落ち着こう。


 フランスは息を深く吸ってから、いかにも平気ですという顔をつくって言った。


「聖下の馬ですか?」


「ええ、まあまあ長めの付き合いです。名前は、りんごが好きなので、りんごちゃんです」


 うぅっ‼


 シャルトル教皇がにっこりして、馬に向かい「ね、りんごちゃん」と言った。


 うぅぅっ‼


 天の御国が見えるっ‼




     *




 りんごちゃんは、ゆったりと優雅に進んだ。


 りんごちゃんが足をすすめるたびに、フランスの背中にシャルトル教皇の身体があたる。


 尊い。

 尊い時間だわ。


 馬に乗ると、シャルトル教皇はマントを目深にかぶった。さすがに、町中をあけっぴろげには移動できないのだろう。フランスもならって、マントをまぶかにかぶる。


 荘園は、町からほんのすこし馬で移動した場所にあった。


「ここから先が、わたしの荘園になります」


 目の前には、草地がひろがっている。ゆったりとした雰囲気の場所だった。


「荘園と言うほどの大きさでもないんですけれどね。建物がいくつかと、農地がすこしあるばかりです。仕事の息抜きに来るために、手に入れたんですよ」


「素敵な景色ですね」


「そう言ってくださいますか。何もないところなのですが、そこが良くて、気に入っているんです」


 フランスは、しばらく景色を楽しんだ。


 りんごちゃんは、ゆったりと慣れた様子で勝手に歩いているようだった。


 ああ、夢のようね。

 聖下とふたりで、乗馬デートだなんて。


 しっかりと、焼き付けよう、心に。

 一生の思い出にするわ。


 シャルトル教皇が、唐突に言った。


「最近も、ずいぶん色々と、うわさされているようですね」


 フランスは、夢見心地だったところに、うわさを持ち出されて、急に緊張した。


 どのうわさかしら。


 最近も、ということは、すべて、知っているのだろうか。


 聖下にいったい何と思われているのか、おそろしいわね。


 見知らぬ誰かに、好き放題勝手に思い込まれてもなんとも思わないが、聖下になんと思われるのかは——、考えるとすこし不安だった。


 聖下には、悪く思われたくない。


 フランスが答えられずにいると、シャルトル教皇が、目深にかぶっていたフランスのマントをそっと両手でおろす。


 振り向くと、同じように、もうマントを降ろしている聖下と目があった。彼の顔には、心配そうな表情がある。


 シャルトル教皇が、いたわるような声で言う。


「大丈夫ですか? 今回はずいぶん、ひどいうわさもでまわっているようですから……。あなたのことが心配です」


 フランスは目を見開いて言った。


「あれらのうわさを信じてはいらっしゃらないのですか?」


 シャルトル教皇は、気づかうような顔をして言った。


「まさか。ちゃんと知っていますよ。あなたのまわりにあるうわさが、本当のことではないこと」


 シャルトル教皇が、フランスの肩をなぐさめるようにぽんぽんと叩いて、言う。


「さいしょの望みでシトー修道士を連れ出したところから、知っています」


 フランスの目の前に、聖下の優しい顔と、花のような香りがあった。


 彼は、やさしく笑って言った。


「勝手なことですが、実は、あなたには特別、親しみを感じているのです」


 えっ。


 したしみ?

 したしみって、どういう意味だっけ?


 このまま、もたれこんでも良いっていう意味だっけ?


 フランスは混乱した。


「なんだか似ている気がして。むかしのわたしに」


 聖下に?


「わたしも、ずいぶんひどいうわさに取り巻かれていましたから」


「そんなうわさは聞いたことがありません」


 フランスの言葉に、シャルトル教皇は苦笑して答える。


「今はね。まだ力もないころは、ずいぶん色々と言われましたよ。でも、ひとのうわさはうつろいやすいものです。しばらくすると、すっかり忘れられてしまう」


「思いもよりませんでした」


 シャルトル教皇が、荘園の景色に目をやって言う。


「あなたと同じですよ。わたしも色々なうわさを逆手にとって、ここまで来た。まあ、いまだに、うわさは色々とありますけれどね。——悪魔のようだとか」


 フランスは、それを聞いて、ブールジュとの会話を思い出した。


『シャルトルは——、一番、やばいわよ。絶対。世界で一番、怖い男だと思う』


『相手をした女全員殺してるんじゃない?』


 なんだか胸が痛む。


 シャルトル教皇は、やさしい顔をフランスに向けて言った。


「だから、あなたがうわさを上手く利用して、貴族たちを煙に巻いている様子を見るのは、なんだか気分が良かったんです」





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