第37話 意外と楽しい、ふたりの喧嘩
「ふせ」
フランスはイギリスにそう言われるたびに、竜の姿で、地に身をふせた。
もうすっかり、この姿勢はなれてきて、すぐに伏せられるようになった。
そうこうしているうちに、もうそろそろ正午も近い。
「今日は、このくらいでいいだろう。竜の身体は大きい。動けば動くほど、まわりに危険がおよぶ。何かあった時には、すぐにこの姿勢をたもて」
フランスの喉から、すっかりうんざりした声が出た。
もうちょっと、優しく教えられないのかしら。
イギリスが散々、皮肉やら嫌味やらを投げかけてくるのに、竜の身体では言い返せない。フランスの心に鬱憤が山のように積み上げられていくようだった。
フランスは、イギリスから視線をはずして、きれいなものでも見て、心を落ち着けようと湖を見た。
青空をそのままうつしたかのような湖は、のぞきこむと底まですっかり見えるほど、美しい水をたたえている。
わあ、綺麗ね。
足をひたしてみたいけれど……。
竜の姿だから、そのまま入っても大丈夫かしら。
フランスは前脚をつけてみた。
ひんやりとして心地よい。
もしかして、人には冷たすぎるくらいかもしれないわね。
うろこにおおわれた身体は、まるで守られたように、痛みや冷たさに鈍感だ。
入っちゃえ。
フランスはそのまま、湖の中に向かって進んだ。後ろ足まで水につかったところで、岸からイギリスの声がする。
「聖女、やめろ」
フランスが振り向くと、不機嫌な顔のイギリスと目が合った。
あ、焼き菓子。
いつの間に持ってきたのか、イギリスの手には、昨日フランスが持ってきた焼き菓子の袋がにぎられていた。
尊大な雰囲気でイギリスが言う。
「もどってこい」
あ~、聞こえないわ。
そんなに偉そうな人の、偉そうな言葉は、竜の耳には難しすぎるわ。
フランスは聞こえないふりをして、湖の奥まで進んだ。腹までつかったところで、身体のむきを変えて、岸辺にいるイギリスのほうに向いた。
イギリスが、尊大な雰囲気のまま、言い聞かせるような強い口調で言った。
「いますぐ、でろ」
ふん。
なにが、いますぐ、でろ、よ。
腕でもひっつかんで、出してみたら?
フランスは、その場で『ふせ』をした。
赤い竜の身体が全身湖のなかにつかる。
わ~、ひんやりして、きもちいいわね。
鼻先もつけて、鼻から息をはいてみる。ぶくぶくして楽しい。
思い切って頭をぜんぶ沈めて、水の中でえいやっと目をひらいてみる。
すごい!
楽しい!
水が透明で、けっこう先まで見えるわ。
魚とか、いないかしら。
フランスは水中で、あっちこっちに首をめぐらせてから、顔を上げた。
岸辺で、イギリスがすごい顔をしてこちらを見ていた。
そんな顔で見たって、こわくないわよ。
フランスは、ワニみたいに鼻先と目だけは水面にだして、鼻息をふんとした。
その瞬間、眩暈のように、目の前の景色があやしく溶ける。
気づくと、フランスは岸辺に立って、湖に沈む赤い竜を見ていた。
手には焼き菓子の袋をにぎっている。
ん?
食べる暇もなかったように思うけれど、焼き菓子の袋がずいぶん軽くなっていた。
いつのまに、食べたのかしら。
フランスは確かめるように袋をふってから、湖にいる赤い竜を見た。
……。
言うことをきかなかったから、怒るかしら?
ちょっと水遊びしただけの、つもりだけれど。
フランスが見つめる先で、赤い竜はゆっくりと岸辺に上がった。大きな体から、たっぷりの水が滝のようにしたたりおちる。
ほどけるようにして、姿が人にかわった。
えっ!
やだ!
そういうこと⁉
頭から足まで、全身びっしょり濡れたイギリスが、そこに立っていた。
フランスは走り寄って、脱いだ外套でイギリスの顔と髪をぬぐった。焦って、思わず、丁寧に話すのを失念してしまう。
「ごめんなさい、わたしったら、こうなるなんて思ってもみなくて」
気づいて、なおす。
「陛下、申し訳ございません」
イギリスが疲れた顔で、言う。
「きみが言う事を素直に聞いてくれる生徒で助かるよ」
ここまできても、まだ皮肉を言うのね。
フランスは思わず、耳をふくついでに、ちょっと力をこめてつかみ、笑顔で返した。
「わたくしも、教え上手の素敵な先生と出会えて、讃美歌でも歌いたい気分です」
イギリスが耳をつかまれるとは思っていなかったのか、一瞬おどろいた顔をした。すぐに、いつもの不愛想な表情で言う。
「唸り声をあげる讃美歌なんて珍しいものも教国にはあるらしいな」
「ええ、陛下を褒めたたえる言葉しか入っていない唸り声の讃美歌ですわ」
おたがい、じとっとにらみ合う。
フランスはにらみながら、手はやすめずに、イギリスの髪をふいた。
服もどうしようもないほど濡れちゃっているわね。風邪は……呪いのおかげで引いたりしないだろうけれど、さすがに寒かったりしないかしら。
悪いことしちゃったわ。
でも、にらむのはやめないでおく。
それと、これとは別よ。
唐突にイギリスが笑った。
控えめな笑顔だったが、あんまり急だったから、フランスは面食らってしまった。
ちゃんと笑うこと、あるのね。
「その様子じゃ、竜の姿で散々、わたしの悪口を言っていたんだろうな」
「そうですね」
フランスが正直に答えると、イギリスがまた笑った。
フランスもなんだかばかばかしくなって笑った。
まるで、子供じみた、喧嘩みたいね。
急にイギリスが真面目な顔で言う。
「離れろ。アミアンにおこられる」
フランスはまた笑った。
もう。やめてよ。
変なの。




