第36話 まずは、ふせから覚えよう
フランスが近づくと、赤い竜の瞳がこちらに向けられる。
大きな星みたいね。
きらきらしてきれいだわ。
近くまで行くと、赤い竜の姿はほどけて人のすがたになった。
人のすがたにもどったイギリスが、フランスのほうへと近づいて、不自然な距離で止まる。
ん?
なに、この微妙に遠い距離感……。
あ。
アミアン一人分⁉
……律儀に守るのね。
フランスは、天幕でのことに改めて礼を言ってから、目の前にひろがる湖を見つめて、言った。
「美しい場所ですね」
「ピュイ山脈の中腹あたりだ」
ピュイ山脈なのね。
教国にある山脈だが、教会からはかなり遠い。フランスにとっては、名前は知ってはいても、はじめて見る場所だった。
山だから、すこし冷えるのね。
フランスは湖に近寄ってのぞいてみた。まるでそのまま星空がそこにあるようだった。
陽の光の中でみたら、どんなに美しい湖なのかしら。
ピュイ山脈に湧く水は、得がたいほどに清い水だというもの。明日の朝が楽しみね。
それにしても……。
ここには騎士の姿はないのね。
フランスは不思議に思って訊いた。
「あの天幕は帝国の騎士たちが建てにきたのですか?」
「いや、人の足で来るには難しい場所だ。わたしが少し前に持ってきて、建てた」
「えっ」
まさか、あれ、全部、皇帝陛下がひとりで建てたの?
お菓子を用意して……、うさぎの人形まで持ってきて?
あまりにも、意外だわ。
言葉よりも、態度を注意深く見ないといけない方なのかもね。
「ありがとうございます」
フランスのことばに、イギリスが頷く。
フランスは空を見上げた。
こんな山の上まで来たのは、はじめてね。町から見るよりも、星がはっきりと見えるような気がするわ。
不思議ね。
入れかわって、とんでもないことの連続だけれど……。こうやって、素敵な景色を見られるのは楽しいわ。
肩にマントをかけられる。
あたたかい。
イギリスはかけるだけかけると、律儀にもアミアン一人分はなれて立った。
フランスは、思わずくすくすわらった。
おかしい。
イギリスが不愛想な表情のまま言う。
「なんだ」
「帝国の紳士は、素敵ですね」
イギリスがちいさく、ふんと言った。
*
前言撤回よ。
な~にが、帝国の紳士よ。
あんまり、むかつくようだったら、お尻にかみついてやるからね。
朝起きると、フランスは赤い竜の姿で湖のほとりにいた。
いつものように、のびをする。
なんで、最後に右後ろ脚をぴぴっとしないと、完了した気分にならないのかしら。これって、もしかしてイギリス陛下のくせか何か?
しばらくすると、天幕から聖女フランスの姿をしたイギリスが出て来た。
あ、髪がぼさぼさのままじゃない。
気になるわ。
陛下、なおしてください。
フランスは文句を言ったが、竜の口から不満げな唸り声が出るだけだった。
それを聞いて、イギリスが怪訝な顔をする。
竜の姿じゃ、伝えようがないわね。
イギリスは湖のほとりにある、大きな木の幹のうしろに隠れた。そこから顔だけひょっこり出して言う。
「まずは、ふせを覚えろ」
ふせ?
いや、それよりも、なんなの。
その、木に隠れるのは……。
もしかして、アミアンに『赤い竜の動きを予想して立ち回る』って言っていたのは、木に隠れてやりすごすってこと?
イギリスは、顔だけのぞかせる妙に愛らしい状態のまま、不愛想な表情で言う。
「まずは尻尾を持て」
尻尾ね。
フランスは尻尾を持とうとして、すこし身体を右にひねった。尻尾がにげる。
そのまま追いかけるように身体をひねった時、何かに当たったようなにぶい感覚がすると同時に、すごい音がした。
ふり向くと、赤い竜の尻尾が木にあたったようだった。イギリスの隠れていた木だ。
わ、あぶないわね。
イギリスは、尻尾が打ち付けられたのとは反対側の木の影に逃げていた。
なるほど。
これは、隠れていないと、大変なことになるわ。
そのあと、すこし木から離れて、尻尾を追いかけるが、つかまえられない。竜の手は短いから、なかなか届かない。
イギリスが、木の陰から言う。
「尻尾を身体にまきつけるようにしろ」
あ、そういえば寝るとき、そうしていたわ。
フランスはうずくまって、しっぽをくるりと身体にまいた。
できた!
あ、でも、この状態だと、手をどうやって出すのよ。
手は身体の下で地面にぴったりとつけられている。フランスはちょっと手をあげようとして、転がった。とたんに巻いていた尻尾が逃げる。
「さっさとしろ」
急かさないでよ。
尻尾なんて普段掴まないんだから!
容赦ないイギリスの言葉に、フランスの喉から威嚇するような唸り声が出た。
竜の姿だと言葉が話せないからかしら、そのまま感情が喉から出ちゃうわね。
イギリスが小ばかにする顔で言った。
「立派に話せて驚くよ」
むかつくーっ!
フランスは思わず尻尾をびたんと地にうちつけた。とたんに、地面がぐらぐらっと揺れる。
イギリスが立っていられずに、お尻からこけた。
思わず、うれしそうな音が、フランスの喉からでる。
イギリスが、にらみをきかせてこちらを見ていた。
そんな顔したって、こわくもなんともないわよ。
あら、やっぱり身体が大きくなると、気持ちまで大きくなっちゃうのかしら。皇帝陛下相手に、仕返しまでするなんて。
その後、しばらくしてから、なんとか尻尾をつかまえる。
「そのまま全身を地面につけろ。つばさもできるだけ地面につけるように」
フランスは、首をさげて身をふせた。
尻尾は持っているから、身体は問題ないが、翼が問題だった。
そもそも、こんなもの、人間の身体にはないのだから、動かす感覚が分からない。右の翼が下がったと思ったら、左の翼が上がったり、開いたりする。
イギリスがまた、もう何度も見た、小ばかにするような表情で言う。
「その様子じゃ、舞踏会でも人気だろうな」
なんですってぇ。
ほんと、むかつくわね。
フランスは、むかついた勢いでなんとか羽をたたんで、ふせの姿になり、地面にびたっと顎をつけたまま、イギリスをにらんだ。
素敵な紳士は撤回よ‼
赤い竜の鼻から、不満げな息がはかれる。
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おまけ 他意はない豆知識
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【ピュイ山脈】
ピュイ山脈とリマーニュ断層の地殻変動地域は、フランスの世界遺産。
地殻変動のプロセスを見ることのできる、素晴らしい自然があります。
【ピュイ山脈の得がたいほどに清い水】
ミネラルウォーターブランドの「ボルヴィック」が利用しているのは、ピュイ山脈の地下を流れる自然水です。




