第159話 魔王のあらたな才能
フランスは、高級宿屋の部屋でうとうとし始めたころに、聞きなれた音を聞いた気がして目を覚ました。
窓の外は、すっかり暗い。
いま、竜のつばさがはばたく音が聞こえた気がする。
フランスは、ベッドからそっと出て、音をたてないように、部屋のとびらをあけ、外を見た。
高級な宿屋の廊下は、立派な敷物がしかれている。ふかふかの敷物に一歩足をふみだして、きょろきょろやる。
聞き間違いかしら。
今日の午後、イギリスは生き残っているかもしれない七賢人について、詳しく知るためと、帝国での政務にもどるために、赤い竜の姿で飛び去った。
もう、すっかり皆寝静まった時間だが、まだイギリスは戻っていない。
フランスが、ひとつあくびをして、部屋にもどろうかと思った頃、廊下の先に見慣れた姿があらわれた。
フランスが手をふると、イギリスがぎこちなく手をふりかえした。
イギリスがすこし速足に近くまで来る。
「おかえりなさい、イギリス」
「あ、ああ。ただいま」
「疲れてない?」
イギリスは「いや」と言ったあと、すこししてから、言い直した。
「すこし疲れたかもな。まだ、寝ていなかったのか?」
「あなたのこと、待っていたの。といっても、ちょっとうとうとしていたけれど」
イギリスが、すこし眉をしかめるようにして言う。
「何かあったのか?」
「何もないわ。あなたが疲れて帰ってくるんじゃないかと思って、宿の人にお香をいくつか用意してもらったのよ。リラックスできるから。気分転換に良いかと思ったけど……、もう遅いし、やめておく?」
その時、廊下の向こうから、使用人たちがやってきた。何か重そうなものを運んでいる。
使用人頭っぽい男が身を低くして言った。
「陛下、湯を用意いたしました」
「ああ、部屋に用意しておいてくれ。あとは、ひとりでする」
使用人たちは、それ以上、何も言わず、イギリスの部屋に入り、またすぐに出ていった。
「じゃあ、お香は、また今度ね」
フランスがそう言って、部屋に戻ろうとすると、イギリスがフランスの腕をつかんだ。
「すぐに、湯を使うから。部屋で焚いておいてくれ」
「うん、いいわ。すぐ、持っていくわね」
「ああ」
フランスは、部屋に戻って、宿屋の者にもらったいかにも高級そうなお香を手にした。
ダラム卿によると、このあたりで有名なお香らしい。
フランスはイギリスの部屋の扉をノックした。
返事はない。
湯を使っているものね。
そのまま、中に入る。
泊まる宿屋が毎回貸し切りで、宿屋の中も外も護衛騎士の目が光っているから、意外と、宿屋の中ではリラックスして過ごせる。
奥の部屋で、イギリスが湯を使っている音がした。
フランスは、暖炉の近くのクッションがしきつめてあるあたりに座り込んで、お香に火をつけた。
しばらくすると、甘ったるい香りが満ちた。
わ、こんな香りなのね。
しばらくすると、イギリスが出てきて、フランスのとなりに座った。
髪は拭きかけなのか、濡れたまま、肩に布をかけて、ゆったりとしたローブを羽織っている。下はしっかりズボンをはいているが、胸元がちらりと見えて、なんとなく見てしまう。
お肌、すべすべしていそう。
フランスは、イギリスの肩にかかっている布をとって、イギリスの髪をふいた。
イギリスが、焚かれているお香を見て言った。
「甘いな」
「ええ、思ったよりも、甘い香りね。このあたりで有名なお香らしいわ」
「ふうん」
「ね、遠くまで飛んで、肩が疲れたりしないの?」
「うん。あんまり、分からない」
「いいわね」
フランスが心の底からそう言うと、イギリスがくすりと笑って言った。
「きみの身体は、肩も背中も腰も、全部疲れるな。飛んでもないのに」
「飛べたら、ましになるかもね」
毎日、鳩の姿であちこち飛んでまわれたら、楽しくて、肩こりもなくなるかも。
イギリスは大人しく髪をふかれながら、言った。
「押してやろうか?」
フランスは、驚いて髪をふく手をとめて言った。
「えっ、でも、あなたが疲れているだろうからと思って、お香を焚きに来たのに。それじゃ、意味なくない?」
「じゃあ、やめておく」
「やめてとは言ってないわ。して。背中がいいわ」
フランスは、クッションをかき集めて抱きしめ、背中を上にして寝転がった。
イギリスが、フランスの背中を押す。大きな手が暖かくて、心地よい。力加減も痛くなくて、ちょうどよかった。
肩をほぐしてから、背中を上から順に押される。
「なんで、皇帝なのに、こんなに人の背中押すのが上手いの」
「アミアンがしてくれるからな」
「入れかわっている時に?」
「ああ」
「なるほどね」
フランスの身体は、イギリスにとっても自分の身体だ。
そりゃ、気持ち良い場所も、力加減もよく分かっているわよね。
にしても、気持ち良い。
しばらく、ふたりとも何も話さなかった。
暖炉で、火がぱちぱちと燃える音。
火のあたたかさ。
立派なクッションはふかふかで、敷物も、おどろくほどふかふかだ。
お香の甘ったるい香りに、イギリスの優しい手つき。
フランスは、あっという間にうとうとしはじめた。
そのまま夢見心地で言った。
「わたし、あなたのこと」
イギリスが、驚くほどリラックスした声で「なに?」と言った気がした。
夢かもしれない。
イギリスの髪が、フランスの頬にかかるほど、近づいたような気がする。
フランスは、もうほとんど意識を手放しかけながら、ささやき落とすようにした自分の声を聞いた。
「あなたのこと、癒しに来たのに」
焚火のゆらゆらと揺れるように暖かい熱が、夢の闇の中に、フランスを引きずり込んでいくようだった。
顔にかかる髪を、なでるように後ろへ、やさしく触れられた気がした。




