第157話 こっそり頑張る者に幸あれ
フランスは立派な宿屋の部屋から、窓の外を見た。
もうすっかり暗くなって、月がしっかりとこちらをのぞきこんでいる。
出発前は、ブールジュの就任式典と、教皇直属の聖女お披露目という自分の役目に、ずいぶん心が重かった。
けれど、今は、けっこう、気持ちが軽い。
旅の一日目がずいぶんと楽しかったからかもしれない。
悩み事って深刻になると、よくないわね。
面白いことで、素直に笑える時間って、ほんと大事だわ。
眠る前に、すこしだけ外の空気を吸ってこようかな。
宿から出なければ、大丈夫よね。
大きな中庭があったから、行ってみよう。
フランスは、マントを羽織ってから部屋を出た。いくつも並ぶ扉の前を通り過ぎて、立派な廊下を進むと、大きな階段がある。階段を降りて、しばらく進むと、目の前がひらけた。
手入れされた、色々な植物が、品よく配置されている。
素敵な、中庭ね。
異国物の陶器や、分厚いガラス細工の、いかにも高価そうな飾り物が置いてある。さすが、高級宿屋。
小さな入り組んだ小道を演出する中庭を、フランスは進んだ。
中央には、噴水がある。月の光を受けて、噴水の水がきらきらと舞い降りるようだった。
その噴水のはしに、誰かが腰掛けていた。
あら。
カーヴね。
どうやら、カーヴはこの暗い中、月明かりをたよりに、手元の小さな本に目を落としているようだった。
噴水の音に紛れて、小さく聞こえる、カーヴの声。
耳をすませる。
聖書を、読んでいるのね。
フランスは、邪魔しないように、引き返そうと思ったが、カーヴのほうが目をあげてフランスに気づいた。
あ、バレちゃった。
フランスは、カーヴに近づいて言った。
「ごめんね、邪魔しちゃった」
カーヴが首をよこにふる。
「となりに座ってもいい?」
カーヴがうなずく。
「えらいわね、カーヴ。疲れたでしょうに。まだ、勉強するの?」
フランスが聞くと、カーヴが、すこしためらってから、口をひらいた。
「き、騎士団に、もどろうと、思ったけど」
「うん」
フランスは、カーヴが一生懸命に話すのを、邪魔しないよう、そっと相槌をうった。
「やっぱり……」
「うん」
「……」
カーヴは、しばらくして、ようやっと言った。
「やっぱり、司教に、な、……なりたい、から」
「うん」
カーヴがフランスをしっかりと見て言った。
「騎士団に、もど、さないで、ください」
えらい!
言えた!
自分の本当にしたいこと!
フランスはちょっと泣きそうになりながら、笑顔で言った。
「ぜったいに、もどさないわ」
フランスはカーヴの持っている聖書を見た。もうボロボロで、多分そっと扱わないとすぐばらばらになりそうなくらいに見えた。
「メゾンと、ちゃんと話し合ったのね」
フランスの言葉に、カーヴがうなずく。
メゾンは、ゆっくりと、でも一生懸命な様子で言った。
「もっと、メゾンのことも、聖女様のこと、も、守れるように、なりたいから。カーヴ、いなく、なるんじゃなくて、そばで、頑張りたい」
うわあ、だめえ、そういうの弱いのよ。
フランスは、もう我慢できなくて、泣いた。
カーヴが、しわくちゃのハンカチを差し出した。
くっちゃくちゃね。
「ありがとう」
フランスは受け取って、涙をふいた。
「じゃあ、教会に戻ったら、一緒に練習する時間を作ろうか。もう知識は十分だろうから、あとは、言葉にする練習ね」
カーヴがうなずく。
「他の人に、聞いてもらったりしているの?」
「たまに、メゾンと、シトー助祭に」
シトー、しっかりお世話しているのね。
「わからないことがあったら、シトーに聞くのが一番良いかもね。なんといっても、首席だったし」
カーヴがうなずく。
カーヴの目は、以前、騎士団に戻してほしいと言った時よりも、はるかに力強い光を持っていた。
フランスは、しばらくカーヴが聖書を読むのを聞いていた。
カーヴが司教かぁ。
まずは、助祭からだけど、カーヴは頭が良いから、すぐに上がっていけそうね。
毎日、一生懸命、言葉にする練習をしているんだろうなあ。
彼の聖書はもう、背の部分がぼろぼろで、いつちぎれてもおかしくなさそうだった。何度も、何度も、開いたせいだろう。
教会に戻ったら、シトーに頼んで修理してもらわなきゃね。
みんな、ひとつずつ成長している。
メゾンはアリアンスに勇気を出してチューリップをおくったし、カーヴは目指すべき先に向かって勉強している。アリアンスも、オランジュも、自分のおそれを乗り越えようと、もがいている。シトーもそうだ。
それにくらべて——。
自分は、どうだろうか。
自分の心に正直に向かい合って、進みたい先は……。
フランスは、月を見上げた。
向かいたい先。
シャルトル教皇の進める教国の道。
それも、もちろん、フランスが望む未来だ。
けれど、本当に、心から望む先は?
フランスは、あの金貨を思い出した。くるくると、光りながらとんで、イギリスの投げた金貨とぶつかって、思わぬところに落ちた金貨。
スイス大公国のベルンの泉で、思わぬ偶然から、思わぬところに落ちた金貨。
そうだ。
イギリスと出会ってから、思わぬ先に進み続けている。
わたしが、本当に、望むのは……。




