第106話 いつまでも忘れられない日
フランスは、ピュイ山脈で正午にイギリスと入れかわり、聖女の姿に戻った。天幕にこっそり置いておいたハンカチを手に、イギリスのもとに行く。
イギリスが、告解室のようなものの近くで、いつものように言った。
「用意はいいか?」
「陛下、教会に戻る前にお渡ししたいものがあるんです」
「なんだ」
フランスは見えないようにうらっ返していた、刺繍の部分を表にした。
イギリスが驚いた表情で、フランスの手にあるものを見る。
ちゃんと、言葉にしないと。
メゾンとカーヴみたいに、双子ですら、きちんと思いをつたえないと、人って分かり合えない。
フランスは、イギリスの瞳を見つめて言った。
「陛下、いつもありがとうございます。いつも、良くしてくださって、いただいてばかりで……。これがお返しというには、かなり頼りないのですが、心をこめて作りました」
イギリスは、じっと聞いている。
「カヌレを買って下さったことも、その思いやりも、わたしにとっては得がたい喜びです。それに、教会の食糧庫をいっぱいにしてくださったことも、すごく素敵で、嬉しかったんです。あと、居酒屋も、陛下と一緒に行くのが、とても楽しくて好きです。……ほかにも、馬車酔いがひどいときも、月のものでつらいときも、良くしてくださって……、陛下といると心がやすらぎます」
フランスは、両手でイギリスにハンカチを差し出して、言った。
「いつも、心から感謝しています。これを、もらって、下さいますか?」
明るい場所で見ると、てんで不出来な刺繍だった。大きなカヌレのとなりに、ちょこんと座るネコの刺繍。
やっぱり、変だし、下手すぎるかも。
ちょっと恥ずかしくなる。
イギリスが、まるで大切なものを受け取るみたいに、両手で受け取った。
彼は、刺繍を見てから、フランスに目を合わせ、真剣な顔で言う。
「光栄です」
まあ。
またね。
こういうときは、まるで騎士がご令嬢にするみたいに、するんだわ。
フランスは、イギリスが教国に来た日、丁寧な態度で『ゆるしてくださいますか』と言った時のことを思い出した。
イギリスの、紳士らしい丁寧な態度を、フランスは好ましく思った。
「あなたの心づかいに感謝いたします」
イギリスがそう言って、うやうやしく礼をする。
フランスが、微笑むと、イギリスも同じように微笑んで言った。
「わたしも、きみに感謝している」
「わたし、いただいてばかりですよ?」
「焼き菓子がうまい」
「まあ、ではまた焼きますね」
「楽しみだな」
「お肉の方がお好きかと思っていました」
「選びがたい」
フランスは笑った。
「じゃあ、朝ごはんが焼き菓子で、お昼ごはんはお肉ですね」
「うん、いいな」
やさしい雰囲気だったのに、イギリスが急にいじわるな顔をして言った。
「それに、きみといると飽きない。ずいぶん、まともな様子だからな」
なんですってぇぇ。
息をするように皮肉を言うのは、相変わらずね!
フランスも、しっかり皮肉っぽい顔をつくり上げて、返した。
「陛下の讃美歌ほどではありませんよ。とっても、まともな歌いっぷりですもの」
「悪魔に心を売り渡す聖女もいるらしいからな。本当に、きみが、まともで助かるよ」
フランスは、目を細くして言った。
「皮肉ばっかり言ってると、爆発するわよ」
イギリスが吹き出した。
もう、この爆発って言葉が、ツボなのね。
もう一回、言ってやる。
「爆発」
「やめろ、それを言うな」
*
フランスは午後に、ひとりで執務室を片付けながら、手紙の整理をしていた。イギリスは、帝国での仕事があるらしく、赤い竜の姿で飛んでいった。
フランスは手紙をひとつずつ確認して、不要な手紙を、選別してゆく。
ひとつの手紙に目がとまる。
あら、今日ね。
いいな。
でも、今はそんなことしている場合じゃないもの。
フランスは、手紙を処分するようの箱に放り込んだ。
そのあとも、次々と手紙を仕分けていく。集中してすると、あっという間に終わってしまった。
フランスは、腕まくりをして、思いっきり息を吸い込んだ。
さあ、今日は、じゃんじゃん働くわよ!
休む間もないほどにね!
忙しく動き回っていれば、時間はあっという間にすぎてゆく。
今日という日は、いつもよりも早くすぎるほど、ありがたいわ。
時間があると、思い出してしまうもの。
アキテーヌを。
フランスは、その後、せわしなく立ち働き、夕食もかきこむように食べて、礼拝堂の手入れをしていた。
日暮れ前の礼拝堂には、誰もいない。しんとする中で、フランスは、あちこち磨き上げていた。
すると、アミアンとシトーがそこに来た。
フランスは笑顔と、元気な声で言った。
「あら、どうしたの、二人とも? もう片付けも終わったなら休んでね。わたしも、ここだけ片付けちゃったら休むから!」
「お嬢様、これ」
そう言って、アミアンが差し出したのは手紙だった。
「何の手紙?」
「これ、今日の舞踏会の招待状ですよね。処分する箱に入っていたのを、見つけてしまって」
「ああ、うん。でも、それって、教会の社交に必要な舞踏会じゃないから」
「でも、お嬢様の好きな、仮面舞踏会です」
「うーん、まあ、そうだけど、最近忙しいし、いいのよ。また、別の機会に行けるわ。それに、もうすぐ陛下と行く舞踏会もあるじゃない」
アミアンが、心配そうな顔で言った。
「今日は、ずっと、無理をされてます」
「……」
アミアンが近くに来て、フランスの両腕をそっと、なぐさめるようになでて言う。
「必用以上に忙しくして、思い出さないようにされているんですよね。今日は、お父様の命日です」
フランスは、不自然に見えないように、気楽な感じで肩をすくめて言った。
「うん。そうね。あとで、礼拝堂の片付けが終わったら、ひとりでお祈りしようと思っていたの」
「さっきも、ずっとお祈りされていました」
見てたのね。
フランスは、さっきよりも明るい声で言った。
「何度してもいいでしょ、命日だしね」
フランスが明るくするほど、アミアンの表情が沈む。
アミアンったら、過保護なんだから。
甘えたくなっちゃうでしょ。
アミアンが、フランスの頬にそっと手をあてて、優しい顔で言う。
「すこしだけ、踊ってくるというのはどうでしょう」
「でも……」
「お嬢様が、お眠りになれるくらい、ほんのすこし疲れるまででいいんです。いつも、この日は眠れないじゃないですか」
「……」
「わたしがお送りして、シトー助祭が迎えにいきますから」
フランスは泣きそうになって言った。
「でも、ふたりとも忙しいのに……」
「わたしたちがそうしたいんです」
アミアンの言葉にシトーがうなずく。
ふたりとも……。
フランスは二人の優しい気持ちにたまらなくなって、右手でアミアンの首に抱きつき、左手でシトーを呼び寄せて服をつかんだ。
情けない涙声が出る。
「ふたりとも、大好き」




