第105話 忘れていた赤い竜の魔法
フランスはピュイ山脈にある天幕の中で、ランプの灯りをたよりに、手元の布をちくちくやった。
思わずため息がでる。
「苦手だわ。シトーみたいにうまくできればいいのに」
奮発して買った高価な布地に、刺繍しているのはカヌレとネコだ。
かかげて、出来上がりかけの柄を見つめる。
「やっぱり、変な柄かしら。でも、もう今から変更できないし……」
陛下に、カヌレを買ってもらったり、教会の食糧庫をいっぱいにしてもらったり、色々としてもらってばっかりだ。何か、お返ししたかった。
かといって、帝国の皇帝陛下が喜ぶような高価なものは用意できない。
フランスは、不器用さがにじみ出る刺繍を、睨みつけた。
変な柄だって、べつに、机をふくぐらいのことには使えるでしょ。
フランスが用意したものはハンカチだ。お礼の気持ちをこめて、刺繡をほどこして、渡そうと思っている。
が、不安だ。
「ほんとに、びっくりするほど、お返しとしては見合わないものね……。せめて、刺繍が上手だったら良かったのに……」
ほんと、苦手だわ。
もらった途端に、残念な気持ちにならないくらいの出来にはしたいけれど……。
フランスは大あくびをした。
一昨日から、夜に刺繍をしているから、完全に寝不足だった。
でも、もうできそうなのよね。
もしや、これは、明日には渡せるかも。
さらに、大きなあくびが出る。
*
フランスは、しっかりとつばさをひろげて、風をつかむ感覚を堪能した。
もうすっかり赤い竜の姿で立派に飛べるようになった。たまにバランスを崩して顎を地にこすりつけることはあるが、着地も、まあ問題ない。
イギリスが、着地したフランスに向かって言った。
「飛ぶのは、それで十分だろう。あとは、赤い竜の魔法についてだ」
フランスは人の姿に戻って、イギリスの近くに行って訊いた。
「魔法? 飛ぶ以外のですか?」
「ああ、きみが、帝国の城を吹き飛ばしたやつだ」
……。
あっ!
そういえば、色々あって忘れていたけど、最も危険な感じのするやつじゃない。
今の今まで、すっかり忘れていたわ。
フランスは、おそろしい気持ちで言った。
「教会を吹き飛ばしていないのが奇跡のようです」
「帝国の城を吹き飛ばした方が奇跡かもな。あの力は扱いづらい。簡単に出せるものでもない」
「そうなんですか?」
「ああ、使い方がすこし特殊なんだ。きみは、あの時、たしか虫におどろいて使ったんだろう?」
フランスは、最初にイギリスの城を吹き飛ばした時のことを思い出した。
「ええ、苦手な蝶が寄ってきて、それを遠ざけるために風を起こそうと本を振ったんです」
「あれは、攻撃する意志がはっきりとしていないと使えない。きみは、あの後、わたしの身体でいるときは、なにもかもそうっと扱っていた。また、同じことが起きないように気をつけているようだったから、先んじて教える必要はないかと思っていた。だが、これから、鶴と亀を探しに行くなら知っておいた方がいい」
「また、同じように、意図せず何かを破壊してしまうかもしれないからですね」
「そうだ。あの力は、攻撃する意志と、もうひとつ必要なものがある」
何かしら。
腕を思いっきりふるとか?
「強い感情だ。怒りとか、恐れとか、そういった強い感情を持つ必要がある」
えっ。
感情……。
蝶が目の前まで来てくれれば、恐ろしいと思えるけれど……。
フランスは、眉間に皺をよせて言った。
「なんだか、難しいですね」
「そうだな。だからこそ、放っておけた」
フランスは、すこし考えてから言った。
「それは、どんな感情でもいいんですか? 喜びとか、悲しみ、楽しい気持ちとか、そういったものはダメなんです?」
「悲しみは、使える。喜びと楽しみは、試したことがないから、分からない」
なんだかそれって、つらいわ。
試してみるほどの喜びも楽しみも、彼になかったのだとしたら——。
もっと、たくさん、彼が笑えるといいのに。
イギリスが、いつもの無表情で言う。
「何か、強い感情を持った状態で、湖の水に向かって風を起こしてみろ」
フランスはうなずいて湖に向かい合った。
うーん。
感情?
そう言われても、難しいわね。
どうやって感情を高めるのかしら。
「ちょっと、難しいですね。陛下は、どういったことを、考えたりして感情を高めるんですか?」
「弟の結婚式」
「……」
フランスは、目を見開いて、イギリスの無表情な顔を見た。
淡々とした口調で迷いなく言うところがおそろしい。
イギリスの婚約者だった隣国のお姫様と結託して、イギリスのことを始末しようと赤い竜のもとに向かわせた、あの弟の結婚式……。
フランスは、下唇をかんで、身体をぎゅっとして耐えた。
つらいやつ。
あ、でも……。
「感情は分かりましたけど、風を起こすのはどうするんですか?」
「そうなる、と考えるだけでいい」
「手をふったりしなくて、いいんですね」
「ああ。だが、風を起こすイメージをしやすいなら、ふってもいい」
なるほどね。
フランスは、湖をじっと見つめた。
風もなく、湖面は凪いでいる。
ピュイ山脈と青空を、そのまま映していた。
あの日と同じ、突きぬけるような青空。
どうしても、今日は、あの日を思い出してしまう。
アキテーヌの城が、落ちた日。
フランスは、アキテーヌで過ごした最後の日を思い出した。
あの日も、青空があった。今日みたいな、風のない日だった。
お父様の、あの表情……。
フランスは最後に見た、父の姿を思い出した。
驚いたような、あの、顔……。
あのとき、たしかに目が合った。
まだ、生きていたわ。
冷えたような、ひどい苦みのような気持が広がる。フランスは、父の姿を打ち消そうと、風を起こすために手を振った。
轟音だった。
湖の水が、すごい勢いではじけるように、天にむかってのぼる。水しぶきで、あたりが白く煙るようになった。
高くまで上がった水が、まるで豪雨みたいに湖に落ちてもどる。
ざあっと、強い音が続いて、しばらくすると、おさまった。
小さな、虹ができる。
父の面影のあとに、美しい景色があった。
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おまけ 他意はない豆知識
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【ハンカチを贈る】
日本ではお別れの「涙を拭く」という意味合いで贈られることもありますが、これは場所や時代によって様々です。
古代ローマ時代には、祭りや競技の勝利者に、ハンカチが贈られました。
中世ヨーロッパでは、貴族間の贈答品として贈られ、中世後期になると、婚約の証や、男女の愛情表現として贈られるようにもなりました。




