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第7話「倉持屋敷」

『祓い屋』としての初仕事。恭介と亮が向かったのは、新潟の廃屋・倉持屋敷。

渦巻く廊下と井戸の奥で、双子の“かえりそこない”が目を覚ます。

守るべきは少女か、己の理性か――金の瞳が笑う。

 二〇二六年、四月下旬。

 日差しは早くも初夏の気配を帯び、不快な蒸し暑さが白夜堂に満ちていた。服の内側がじんわりと汗ばむ。恭介は長袖シャツをまくり、今年初めての冷房を点けた。

 温度設定を間違えて震えた後、ホルダーからいつかの名刺を取り出す。やがて息を吸い込み、スマートフォンを操作した。発信音は一度だけ――ワンコールで通話が繋がった。


『いやぁ久しぶり!丁度こちらから連絡しようと思ってたところでしてね!』


 電話先は河本輝政。スマホ越しでも脂ぎっている声色に面食らった。


「……ご無沙汰しています。少し、相談がありまして」


 自分からこの男を頼るという事実に、軽く意識が遠のいた。


『奇遇だねぇ!実は僕、今仙台に滞在しておるんですわ。折角ですし、お会いしましょう』

「つまり……面接ってことですか?」

『そう!話が早くて助かりますわ』


 いつの間にか河本のペースに呑まれ、打ち合わせの日程が勝手に決まった。


『では当日、大京ホテルにてお待ちしております』


 通話が切れると、急に周囲が静まり返った。スマホを握る掌がうっすら湿る。関西訛りの明るすぎる声が、延々と耳奥で反響した。


 ――ついに奴を頼ってしまった。


 自ら『祓い屋』を志願するとは敗北に等しい。だがいい加減、己に潜むものを直視せねばならない。恭介は黙って履歴書を書き始めた。



***



 数日後。

 仙台駅前、大京ホテルの応接室。

 河本は美人秘書を侍らせて構えていた。醜男に若い女性。昭和の安芝居じみた絵面に辟易する。


「ようこそ!ささ、くつろぎたまえ」


 雑談が長引く間、恭介は無意識にシャツの袖口をいじり続けていた。やがて話題が仕事に移ると、意を決して言葉を挟む。


「雇用契約書を、確認したいです」


 廃旅館での闇バイトは口頭のみの契約であった。使い捨てられるのは御免である。河本は待っていました、とばかりに書類を差し出した。文言は不気味なまでに整然としていた。

 祓い屋――正式名称を特異現象調査・封鎖技術員。一、業務内容は特異現象の調査、原因物の無力化、必要に応じた情報是正。二、安全確保義務。第三者の安全に配慮すること。ただし怪異の憑依・錯乱などにより攻撃を受けた場合、乙の防衛行為は正当防衛として責任を問わない。


 ……至ってまともな雇用契約だ。ぱっと読んだ限りでは粗がない。恭介は更に目を凝らす。


 三、再発モニタリング。封鎖後七十二時間の監視は大京グループ側の調査班が担当し、乙は現地から撤収してよい。四、守秘義務。本件に関する情報を外部へ漏らさないこと。五、報酬の発生条件。原因物の無力化または不存在証明、および再発生なしの確認後に同社が支払う。


 ……ようやく疑問点が見えた。眼鏡を直して顔を上げる。


「経過観測の透明性を証明してください」


 契約書では事後処理が全て大京側調査班の一存となっている。ただでさえ存在が不確かな『怪異』。大京側が証拠を有耶無耶にして、未払いが発生したら敵わなかった。


「ああ、心配はごもっともですなぁ」


 河本は胡散臭い笑みのまま説明を始めた。

 曰く、大京の調査班は封鎖後七十二時間にわたり、日時入りの動画記録、温湿度や電磁波の自動計測ログ、警備会社の入退室記録――そうした一切を第三者が検証可能な形式で残すという。「再発なし」という判断を恣意的に下せば、後に外部機関が大京グループへ責任を問いかねない。故に報告書には必ず生データを添付する。必要とあらば、祓い屋側が照合して構わないという。


「透明性ってのは“疑われない体制”を作っておくことなんですわ。安心してください。君の仕事が踏み躙られる心配は無用ですよ」


 彼の提示する仕組みは、実に理に適っていた。気に喰わないのは下卑た語り口だけだ。


「そうそう、怪異が出たら遠慮なく戦うんだよ。例え元が人でも、我々に牙を剥いたら“敵”なんだからね」


 完全には納得できない。しかし、業務なら飲み込まざるを得なかった。


「……鶴ノ屋での友人を同行させてもいいでしょうか」

「勿論!亮くんも良い働きぶりだったからね。僕としても大歓迎ですわ」


 軽々しい肯定。太っ腹なのか、駒を増やしたいだけなのか判断がつかない。

 一件あたりの報酬は二百万円。魅魔坂事件の罰金を補填して有り余る額だ。新車購入の目処も立つ。そして金額以上に、惹かれるものがある。


 ――祓い屋になれば、満たされるのだろうか。


 今までは無法の大暴れだった。“彼”が顕れるたびに罪を犯し、深い後悔に沈んでいた。だが今後は職務として、正当に力を行使する。自分も、内なる祟り神も鎮まってくれるのだろうか。


 答えが見つからないまま、面接は終わる。ホテルを出ると夏じみた陽気が恭介を刺した。熱を帯びたのは、肌だけではなかった。



***



 翌週、恭介は亮と共に現場に向かった。亮も祓い屋面接をパスしていた。

 新潟県・村上市の廃屋、通称『倉持(くらもち)屋敷』。地元の名家だが、今やYouTuberたちの肝試し会場となっていた。河本曰く、屋敷の真下に温泉が湧いており、良い温泉旅館に改築できそうだという。

 名を聞いた瞬間に身体が跳ねたのを覚えている。倉持は亡き親友・大輔とその姉・綾子の姓であった。珍しい苗字だし、とても無縁とは思えない。


 現地ガイドは倉持こだま。十六歳の女子高生、倉持屋敷元所持者の孫である。病床の祖父母と仕事で忙しい両親に代わり、急遽やってきた。


「あたしに任せて!こう見えても霊感あるから!」


 こだまは薄い胸を張る。ショートカットと潮風に焼けた肌色がいかにも快活であった。


「すげー!じゃあオバケが出たら教えてね!」


 傍らの亮がすかさず囃し立てる。恭介はそんな二人を微笑ましく眺めていた。……霊感などただの感覚過敏、もしくは思春期の幻想なのだから。


 三人は屋敷内に入る。

 内部は増築の継ぎ接ぎばかりだった。窓の上に階段の手摺りが置かれ、廊下は中心へ渦を巻くように収束していた。歩けば歩くほど天井が低くなり、光が痩せる。柱には古い禁じ書き。床はゴミだらけで、来訪者のマナーの悪さを痛烈に示していた。湿った木材とカビと潮の匂いが、鼻腔に薄い膜として付着する。母屋内なのに井戸もあった。


「大丈夫だよ恭ちゃん。もう塞がってるから」


 亮に言われて初めて井戸に近づく。本当にコンクリートで封鎖済みであった。灰色の面には雨だれの筋だけが残っている。恭介はほっと息を吐いた。

 調査の中でこだまは語る。倉持家は島根県より伝来した祭司の一族。神事を担う者たちは、嵐のたびに祈りを捧げ、死者の遺骨を海へ送っていたという。


「巫女になったらね、綾子おねーちゃんに舞を見せるんだ!」

「あ、綾子?君、綾子さんと顔見知りなのかい?」

「おねーちゃんは叔母さんだよ。子供の頃は、宮城から毎年こっちへお墓参りに来てたの。ていうか、おじさんこそおねーちゃんと知り合い?」

「……まぁね」


 やはり倉持姉弟と関係があった。かつて大輔らがこの屋敷で過ごした日もあったのだろうか。奇妙な興奮で浮足立つ。海難事故には触れないでおいた。

 

「それでね、百年前に海へ“かえりそこなった”子がいたんだって。あたしが巫女になったら還してあげたいな~って」


 胸が締め付けられる。遥か昔の他者を供養するなんて、あまりにも純粋で、眩しかった。

 こだまの協力で調査は進むが、一つ疑問が湧く。


「なぜ乗り気なんだい。我々は君の実家を取り壊そうとしているのに」

「だってボロくて怖いんだもん!夜になると床の下からずるずる~って音が聞こえるの。だから小さい頃、お泊りするのが嫌だった」


 口で擬音を伸ばしながら、こだまは足先で畳をこつこつ叩いた。動画やSNSも同様の証言で溢れている。どうやら、この家に“何か”が潜んでいるのは確実だ。

 だが、何度踏んでも返るのは板の反響のみであった。いくら調査をしても“ずるずる”音の発信源が見つからない。井戸も床下も空振りで、亮共々お手上げ状態になる。


「こだまさん、何か手がかりは?」


 恭介が問うと、彼女は「あっ」と小さく声を上げた。


「おばあちゃんが昔、“なぎさちゃん”の部屋があるって言ってた。でも戦争で塞いだんだって」

「……どの辺にあると?」

「井戸から、海と反対側の角。あたしも降りたことないんだけど」


 恭介と亮は指示された方角へ移動し、廊下や座敷の床を軽く踏み鳴らして回る。乾いた反響、詰まった物音。その合間に、ぽん、と薄い響きが混じる箇所があった。

 畳をめくると、四角く切り取られた木の蓋が現れる。錆びた持ち手を亮が力任せに引くと、固まっていた釘が悲鳴を上げて浮いた。

 ぽっかり開いた穴から、冷えた潮の匂いが立ち上る。暗闇の底で、見えない海風が通り抜けていた。

 スマホのライトを点け、狭い梯子を覗き込む。三人は一列になって地下へ降りた。赤錆に覆われた段を踏むたびに、金属の軋みが足裏へ伝わる。


 最下部に着くと、背伸びすれば天井に手が届くほど低い通路が伸びていた。奥には鉄格子で仕切られた小部屋。畳四枚分ほどの狭さで、内側から爪で引っ掻いたような傷跡がびっしりと残っている。“なぎさちゃん”の部屋とは、ここを指していたのか。だが恭介が想起したのは別の光景であった。


 ――なんか、あの牢に似てないか?


 魅魔坂事件で幻視した牢屋が脳裏に蘇る。四畳半、鉄格子。閉じ込められた自分と、“彼”の金色の瞳。鳥肌が立った。


 ――まさか、『座敷牢』はこの部屋なのか?


 ひとり怯えながら戸を開ける。内部は大分広かった。床は剥き出しの土間で、あちらの牢のような畳はない。格子の造りも違う。天井の低さも、圧迫の方向も異なっていた。

 冷えた鉄に触れ、錆のざらつきを確かめるうちに、これは別物だと身体が理解していく。背筋の強張りが、ほんの少しだけ緩んだ。恭介は調査を終え、亮らと合流する。何か見落としてないだろうか。背骨に絡み付く不安から目を背けて……。


 夜。

 こだまを家に帰し、祓い屋ペアは調査記録を纏めた。

 屋敷の居間にて、ちゃぶ台代わりの古い座卓の上にランタンを置き、ノートとボイスレコーダーを並べる。橙色の灯りだけが淡く紙面を照らす。


 休憩を決めた途端、床下から音が聞こえた。


 ずる、びちゃ、ずるずるっ……。


 滴る水音。ひどく有機的で、粘着質な。畳から黒い水が染み出した。冷えた湿気が足首に這い寄り、紙上のインクがじわりと揺れる。


「恭ちゃん……この音、こだまちゃんが言ってたやつだよ!」


 亮は血相を変えて立ち上がる。

 釣られて腰を上げた瞬間――

 視界が大いなるものへ飲み込まれた。


 屋敷全体が汚れ、歪み、壊れて見える錯覚に埋めつくされた。



***



 廊下側できしり、と新たな音が響き、恭介は身構えた。現れたのは、帰宅したはずのこだまであった。

 時刻は二十一時。成人男性が女子高生を連れ歩くには危険な時間だ。安全確保義務違反にも繋がる。廊下の窓ガラスには夜の海がねばつき、異臭が昇り始めていた。


「君、帰りなさい。怒られるのは我々なんだよ」

「でも!まだ『ずるずる』の正体がわかってないもん!」


 こだまの頬肌は紅潮し、瞳は妙に冴えていた。怖いのか楽しいのか、若い呼吸は落ち着きなく上下している。

 彼女と口論になりかけたその時、井戸が粉々に割れた。

 湯水が沸騰するがごとく、真っ黒な異形が溢れ出す。

 現れた怪物は“海”を凝縮し、腐臭を放っていた。見上げる程の巨躯。鱗に、蠢く鰓。吸盤を備えた無数の触手。ぬめる皮膚の間から泡が破裂し、冷たい飛沫が頬を刺す。人智の及ばぬ深海の悪夢が、そのまま這い出てきたような悍ましさだった。


「なぎさ……ちゃん……」


 こだまが異形へ呼応する。虚ろな目で吸い寄せられ、触腕に捕まった。制服の裾がぶら下がり、足が床から浮く。


「こだまちゃんを離せ!!」


 亮が角材の破片を手に戦うが、全く歯が立たない。叩きつけるたびにぬるりとした肉が変形し、逆に武器を弾き飛ばす。


 恭介は“なぎさちゃん”の一言でひるんでいた。

 こいつは元人間だ。


 だから――倒せない。


 その結論に至った瞬間、別の論理が背後から突き刺さった。

 ならば、助けることもできないのか。

 触腕がこだまを抱え、地階へ運ぶ。スカートが宙で揺れ、足先が空を蹴った。

 恭介は悟る。

 迷いは、第三者を殺す。

 “敵”の定義を、ここで決めねばならない。

 人であった過去ではなく、今この場で加害する事実。


 ――それだけで十分だ。


 河本の言葉が倫理に線引きした。


『我々に牙を剥いたら“敵”なんだからね』


 恭介は線を踏み越え、封じていた名前を呼ぶ。


 ――出てこい!


 頭蓋に雷光が走った。零秒で肉体が“彼”へ乗り替わった。


「遅ぇよ。バカ」


 からかい半分で嗤う、内なる祟り神。異形へ飛びかかるなり、こだまを捕えた触腕を引き千切った。ぎちぎちと繊維が裂ける感触が掌に絡みつく。少女の身体が宙に浮いた。落下直前のところで亮が受け止める。


「“敵”なら……殺っていいんだよなぁッ!!」


 高揚のまま異形の鰭を掴み、梁へ叩きつけ、ふやけた骨をへし折る。家が悲鳴を上げて軋み、体液が天井にまで噴出した。足元を濡らす黒水は冷たいのに、握った拳は熱い。息継ぎの瞬間、目を覚ましたこだまが地面を見て叫んだ。


「待って!もう一人いる!」


 床の隙間から暗色の液体が溢れ出る。液は瞬く間に隆起し、怪物と全く同じ形を成した。亮が尻餅をつく。


「神は……二柱いた!」


 “なぎさちゃん”は双子だった。

 真に見捨てられた片割れが咆哮する。

 屋敷全体が波打ち、床板が沈み、柱が捻れる。障子紙が震え、塩辛い風が廊下を駆け抜けた。


「丁度いい。一人じゃ足りなかったところだぜ」


 異形の双子が同時に迫る。“彼”は全身の力で受け止め、触腕を抱え込んだ。吸盤が皮膚に食いつき、筋肉ごと引き剝がそうとする。


「うらあああぁぁっ!!」


 “彼”はジャイアントスイングの如く何度も巨体を柱へ打ち据えて、ついには天井高く放り投げた。

 異形の肉体が屋根を破る。外気が怨念を浄化し、巨躯が夥しい量の海水となって屋敷に降り注いだ。潮の匂いが膨張し、水飛沫が全身に叩きつける。


 ――これだ……ずっと欲しかったのは、この瞬間だ。


 暴れ、壊し、征服するための夜。

 法の名目で禁じられてきた衝動を、ようやく解放しきった。

 “彼”は両腕を大きく広げ、天を仰ぎながら潮水を浴びた。背に貼りついたシャツが冷え、火照った皮膚に心地よい。


「……恭ちゃん、もう大丈夫だよ……!」


 だが、愉悦に水を差す者がいた。

 亮だ。

 無邪気に肩へ触れ、揺さぶる。


「黙れよ」


 金の瞳がすうっと縮んだ。勝ったのに。“俺”は最初から無事だったのに。胸中で焦燥と烈怒が混濁する。高揚が、ざらついた憤りへ反転した。


「せっかく“沈めきった”んだ……この余韻を濁すなら……」


 亮は返答に窮する。その間に、“彼”は首根を捕まえて宙吊りにした。


「お前も“敵”だ」


 祟り神は容赦なく首を締め上げる。浮いた足先が床を探して虚空を蹴った。酸素が絶たれ、頬がみるみるうちに紅潮してゆく。


「あ、ぐ……、恭、ちゃん……」


 ひゅう、と漏れた声が――恭介と重なった。


 (ダメだ!そいつだけは殺さないでくれ!)


 意識の奥で、恭介は叫ぶ。

 切なる願いが殺意の指先へ走った。


 握力がわずかに緩んだ。

 亮の身体が、つ、と下がる。


「……チッ」


 “彼”は拘束を解き、赤い頬へ優しく触れる。

 冷えかけた肌の温度を確かめる内に――

 瞳が黒色に戻った。


 降り注ぐ潮水が、ようやく止んだ。



***



「よかっ、た……」


 恭介はぼろぼろと泣いた。”彼”が鎮まってくれた。亮も気を失っているだけであった。

 双子が変じた海水は畳と柱の根を洗い、静かに海の方角へ流れていく。


「海神さまだ……」


 一部始終を目撃していたこだまがぽつりと呟いた。


 ……自分を見て言ったのか?


 恭介は困惑する。濡れた眼鏡で、少女に黒い瞳の焦点を合わせた。


「ねぇ、おじさんは海神さまだったの!?」


 やはり自分――いや、”彼”を指していた。戸惑いを、喉がうまく飲み込めない。


「教えてくれ!僕の力は海神のものなのか!?」


 鼓動が早まる。思わず眼前の少女へまくしたててしまった。こだまは目を丸くしつつも、確かな口調で語り出す。


「……古い言い伝えがあるの。『潮の主を宿す者、神性を発現せし時、瞳が金色に輝く』って。そして力は、奇跡にも災いにも転ずるって……」


 身体からどっと力が抜けた。かつて比留子村で聞いた伝説に酷似している。“彼”の正体は海神だったのか?

 想像以上に大きな名前で震える。喉が乾き、指先が冷えていく。更にこだまを問い詰めた。


「もっと教えてくれ!海神の、この地域の伝承のことを……!」

「ごめん!あたしもこれ以上は知らないんだ。詳しくはま……まがみじま?に行けばわかるんじゃないかな」


 また禍澗島の名が浮上した。

 確信は、渡航する決意に変わる。

 ……冷静になると、怒りが込み上げてきた。


「こだまさん!なぜ屋敷に戻ってきたんだ!」


 思わず声を荒げた。こだまの肩がびくりと跳ねる。


「ごめんなさい、ごめんなさい……!」

「僕らがいたから助かったけど、あのままなら君は死んでたぞ!」


 崩れた廊下を振り返る。海底のような暗がりに、まだ冷たい気配が張り付いていた。説教に熱が入る。こだまは何度も頭を下げ、ショートヘアから雫を落とした。泣き出しそうになる彼女を見て、ようやく舌の力を抜く。


「……もういい。これから大人が沢山来る。騒ぎになる前に帰るんだ。いいね?」

「……はい……」


 こだまは袖で顔を拭く。最後に井戸跡を一瞥し、今度こそ屋敷を去った。


 数十分後、恭介の連絡を受け、大京ホテルグループのモニタリング調査班が到着した。夜の敷地へ、作業着の男たちがワンボックスカーと計測機器を運び込む。作業員は梁や焦げ跡を淡々と撮影し、やがて瓦礫から骨壷を発見する。壺に刻まれた名は『倉持渚』。隣にはもう一人書かれるべき空欄があった。

 その空白が、片割れの不在をいつまでも告発していた。


 業務を完遂、事件は解決。目覚めた亮は、恭介に殺されかけたことを黙秘した。“彼”の飢えも満たしたはずだ。

 ……なのに、やるせないのは何故だろう。


 現場検証を終えると、河本が現れ、恭介と亮に休養を命じた。半ば強引に傘下のビジネスホテルへ押し込み、風呂の鍵を渡してきた。

 シャワーを浴びると、血と潮の匂いがみるみる肌から剥がれ落ちた。だが、新鮮な湯に浸かっても、胸中の靄は消えない。


 撤収の車中、大京の人間が運転する後部座席。

 窓の外で、薄明の海岸線が後方へと退いていた。屋敷に溢れていた潮水が、あるべき場所へ還ってゆく。


「……帰れなかっただけ、か」


 自嘲とも溜息ともつかない声が零れる。百年前の双子は海へ至れなかった。それだけで、祟りと扱われた。


 隣に座る亮がそっと肩に触れる。


「亮。どうして私を赦すんだ。君を殺しかけたんだぞ」

「だって“戦ってた”のは……恭ちゃんじゃないから」


 弱かった指先の力が、わずかに強まる。

 眼の奥がじゅんと潤んだ。視界が滲み、車窓の景色と夜明けの光が溶け合う。


 悪夢の残滓も、罪の匂いも、海原に眠る大いなるものが拭ってゆく。


 だが、内なる昂ぶりは収まらない。


 ――もっと、もっと、更なる戦いを寄越せ。


 拳に残る異形の感触。

 手応えを反芻して、再び鼓動が高鳴る。

 その渇望は“彼”のものか、恭介自身のものか。

 境界が静かに崩れ出していた。

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