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第5話「潮鳴りの宿」

惨劇の夜から八ヶ月。恭介は悪夢と罪に苛まれ、誰とも繋がれないまま息を潜めていた。

そんな彼の前に現れたのは、親友と――“始まりの孤島”へ続く新たな怪異。

調査する過程で、恭介は予想外の困難に直面する。

《「水神が人を喰った夜」――秋田・比留野村“集団水没儀式”の衝撃映像!》

《“大学講師”が惨劇の主犯!?因習村の血塗られた祭壇に立つ男の正体》

《「先生、助けて――」学生の絶叫とともに沈んだ“黒い女神像”の謎》


 八人致傷、四人殺害の惨事は日本を席巻した。

 比留野村事件はテレビ、週刊誌、SNSの全てを埋め尽くした。

 恭介は黙ってスマホを閉じる。報道は過熱し、飽和する。やがて海外で邦人旅行者射殺事件が起きると、世間の関心は一様にそちらへ向いた。かくして比留野事件は、一時の収束を見せた。



***



 二〇二五年九月下旬、山形県。

 恭介は事件報道から逃れるべく、米沢市に移住していた。大学講師は退職。白夜堂は休業した。

 転居にあたり、父方祖父の親戚を頼った。祖父は山形県出身だった。姪は「おじいちゃんに呼ばれたんだね」とからかった。島根半島沖の事故といい、どうも日本海側と謎の縁があるらしい。


 盆地の暑さは、過酷だった。ただ息しているだけで鼻腔が熱を持ち、汗が噴き出る。だが潜伏には好都合だった。「熱中症が怖いから」とは、引き篭もるに良い口実だ。だから隣人が事情を詮索することもなかった。


 潜伏生活は虚無そのものだった。常に人目に怯えていた。ゴミ出しの時でさえも記者がいて、インタビューしてくるのではと不安だった。精神科に掛かると睡眠薬を処方され、発達検査を勧められた。病気は認められなかった。が、逆に「彼」が人知の及ばぬ怪異という証明になり、余計に眠れない夜が増えた。


 ちゃぶ台に向かい、ノートへ己の記憶を記す。潜伏中、ひたすら内に潜む異形の正体を追究していた。

 海難事故で漂着した島を“始まりの孤島”と名付け、起きている時間のほぼ全てを勉学に費やした。来る日も来る日も文献を漁り、わかったことを書き留めた。


 恭介は確信している。

 暴力衝動も、人ならざる力も、何もかも島根半島沖事故の『後』に生じた。

 それ以前の自分は警察沙汰とは無縁だった。小学生の頃から優等生。中学、高校、大学と進学する過程でも。教授から卒論に盗用疑惑をふっかけられた時も、理性と対話をもって疑いを晴らした。他人を傷つけたい願望などなかった。平成初期に問題となった『キレる若者』にはなりたくないと常々感じていた。


 なのに、「彼」は勝手に暴力の快楽を植え付けた。恭介自身を『解放した』体で暴虐を働く。殴る、蹴る、破壊する、挙句に殺す。自分のあずかり知らぬところで、脳をドーパミン漬けにする。拳に血の味を染みつける。


 こんなことを繰り返したくない。

 もう一度“始まりの孤島”へ行きたい。

 苦しい。耐え難い。奴を消したい。

 だけど……。


 (やっぱり、水が怖い)


 溺水の冷たさを思い出すだけで指先が震える。これ以上ペンが進まなくなる。

 恭介の水恐怖症は深刻だった。船に乗る、プールで泳ぐなどもっての外。水面を見るだけで嫌な汗が滲むのだ。お陰で入浴も、氷点下の真冬日でもシャワーで済ませていた。


 そうして海への恐怖に囚われ、何も動けないまま八ヶ月が過ぎた。俊哉とは事件以降会っていない。彼は殺害現場を目撃したトラウマで、PTSDを発症したとワイドショーで報じられていた。そもそも誰とも連絡を取っていない。父とも、母とも。無論、亮や綾子とも。


 インターホンが鳴る。また報道陣か。自宅へ突撃されるのは久々である。呆れながらドア穴を覗くと、見知った顔があった。


「や、元気?」


 訪問者は村瀬亮だった。


「久しぶり!元気だよ!」


 恭介は笑顔で招き入れた。殺人犯となっても変わらず接してくれる。この上なく嬉しくて、涙が零れそうになった。亮は玄関を跨いだ途端、鞄からチラシを取り出す。


「三日で百万円!夜勤の監視バイトだって!」

「お前なぁ……犯罪者に罪を重ねさせる気かよ!」


 涙が引っ込んだ。どう見ても闇バイトだ。向こうとしては完全に善意そうなのが余計にタチ悪い。


「闇じゃねーよ!大京ホテルグループの社長が直で募集してんだ!」


 亮は必死でお問い合わせ欄を指さす。

 河本(こうもと)輝政(てるまさ)。名前を聞いてもピンと来ない。

 勤務地は廃旅館・鶴ノ屋。山形ローカルの心霊スポット。恭介も存在を小耳に挟んでいた。

 行きたくない。だが怪異の匂いがする。異常を制するのは異常しかない。どんなに小さなことでも、「彼」を消す手がかりが欲しい。

 しぶしぶ、首を縦に振った。


「オレが全部段取りしとく。恭ちゃんは頭使うの専門でいいからさ」



***



 山形県酒田市・吹浦海岸。

 鶴ノ屋は昭和二十三年に創業した旅館である。老舗旅館として長年観光客に愛されてきた。が、平成になって関東圏から大京ホテルグループが進出。彼らの圧力と買収工作により平成十九年に廃業した。

 その後「ニュー鶴ノ屋」へのリニューアル構想が発足した。グループのCEO・河本輝政は半ば強引に計画を押し進めたが、心霊現象の多発により平成二十七年に頓挫。だが河本はしぶとくプロジェクト再開を企てているという。

 亮が運転するヴィッツ内。恭介はスマホで概要を調べ、ため息をついた。完全に悪事へ加担している。気が重い。


「それにしてもなぜ、令和になって再始動を考えたんだろうね?」

「知らねー。エラい人なりの思惑があんだろ」


 二人は他愛もない会話を交わす。やがて海岸が視界に入った。けれど、水平線は見ない。眼鏡越しの目線はずっと端末へ逃げていた。


 北前船の寄港地、周縁部。

 「鶴ノ屋」は沈むように建っていた。

 潮風がひゅうと吹き抜けるたび、外壁がかすかに揺れる。

 恭介は玄関の鍵を外し、重たい引き戸を押し開けた。中は真昼でも薄暗く、涼しい。


 館内は、昭和の雰囲気をそのまま留めていた。

 カウンターの上には古びた宿帳。最終記録は平成十九年の夏で途切れていた。廊下の壁には「海上安全」「航海守護」の札が無数に貼ってある。

 もとは漁師たちが信仰する海神の宿、と考えるのが自然だ。が、それにしても不気味である。物々しい空気は、とても観光客で賑わった旅館とは思えない。

 ――と、棚の下からもう一冊の帳面が出てきた。表題は霞んで読めない。だが、僅かに『隠岐』の字が判読できた。

 表紙を捲った瞬間、名状しがたき震えが走る。自分の期待は“当たり”だった。


「お祓い旅館ってか?でも電源は全部生きてる。配線系、オレが見るよ」


 業務内容は館内を監視すること。異常を発見したら記録すること。報酬は三日間、完遂した場合のみ河本が支払う契約であった。


「助かる。私は記録整理に専念しよう」


 亮はテキパキと動いた。延長コードを引き、モニターを並べ、通路の角に赤外線カメラを取り付けていく。機械を扱う手つきは、もはや職人の域だ。

 恭介は作業記録をつけながら彼の背を見守る。こんな有能な男が、なぜフリーターに留まっているのか不思議だった。

 玄関、廊下、客室、大広間、脱衣所、大浴場と計六機の撮影機材を設置する。


 午後十時。監視網が完成。

 映像を確認しながら、亮がコーヒー缶を開ける。


「しかし、百万円かぁ……。命懸けのバイトにしちゃあショボくね?」

「“安い仕事”には、大抵理由があるものだよ」


 むくれる彼を宥めながら、ノートにペンを走らせる。部屋の温度、湿度、ノイズの振幅。観察するほどに、この建物全体が“生きている”ような錯覚を覚えた。


 ふと、人の気配がした。だがカメラの画面には何も映っていない。なのに、闇がどろりと淀んでいる。廃材の軋みと区別がつかない音が、波の拍動と重なった。


「恭ちゃん、これ見ろよ」


 亮が指したモニターでは、非常口ランプが点滅していた。間隔は一定で、どこか生気を感じる。


「照度センサーの誤作動か?」

「いや……周期が正確すぎる」


 すぐさま波形解析ソフトを立ち上げた。振動パターンが電源の周波数とは異なる。まるで鼓動のように膨らんでいた。


「なあ、こういうの、どう説明すんの?」

「……解き明かせない現象は、まず記録するんだよ」


 言いながらも、声が少し震えていた。理屈の世界に生きる自分は、理論外の事象に弱い。


 零時を回ると、潮の匂いが強くなった。

 屋外の海鳴りが遠のき、代わりに建物の内側で低鳴が響く。

 ぐう、と腹の底を這うような共鳴。

 亮が慌ててヘッドホンを外した。


「何これ……音、逆流してる。海岸からじゃなくて、床下から来てる!」


 恭介は懐中電灯を手に、ロビーの畳を照らした。

 黒い縁がわずかに浮いている。そこから泡が滲み、ぱちりと弾けた。


 海水だった。

 板張りの底から、闇が滲出している。

 島根半島沖の冷たさが蘇りかけた。


「……波じゃない。鼓動だ」


 ざわつく胸を押さえつつ言った。亮は顔をしかめる。


「まさか地下に海が?」

「それより、圧力変化が速すぎる。地盤が吸い込んでる……?」


 言葉を切る間にも、気圧が変わる。

 ガラス戸がかすかに膨らんだ。


 非常灯の光がまた脈を打つ。

 明滅に合わせて、映像に一斉にノイズが走った。

 客室で一際目を引いていた日本人形のケース。

 中身が、空になっていた。


「恭ちゃん、三番カメラの画面乱れてる!」

「待て、それは配線じゃない……」


 二人の声が重なった。

 理屈と勘が、同じ一点を指す。

 刹那――廊下の奥で、ちゃぷん、と音がした。



***



 一日目はなんとか無事に業務を終えた。

 二日目。「鶴ノ屋」は昼間でも不穏な湿度に満ちていた。亮は懐中電灯を歯に挟み、古びた配電盤を覗き込む。


「ここまで錆びてると逆に清々しいな……。恭ちゃん、電圧の波形もう一回見せて」


 恭介はノートPCを抱え、大広間の隅で映像ログを巻き戻していた。心電図のように上下する信号グラフ。しかし周波数が電気のパターンと全く噛み合わない。


「……やっぱりこれは“圧”が乱れてる。空間そのものが脈動していたんだ」

「恭ちゃん、もうバックレようぜ。ガチの心霊案件だよ!」

「でも!もう少しだけ調べたいんだ。あの島のことを」


 玄関から持ち出した記録帳の一頁。古びた航海図を、恭介は指でなぞる。

 当該の史料は江戸時代の交易記録であった。港から伸びる線は日本海へ、そして島根半島沖の一点へ収束していた。


 《隠岐の禍澗島(まがみじま)より、海神の供物を運び奉る》


 禍澗島。それが“始まりの孤島”の名。胸の奥で、恐怖と同じ強さの高揚が弾ける。鶴ノ屋へ残り、もっと手がかりを探したかった。


「……しょうがねぇな、現場主任さんよ」


 亮は頬を掻き、にやりと笑う。

 ごちりながらも、その目はどこか楽しそうだった。


 そして――三日目。


 館が呻いた。

 床板の隙間で泡が潰れる音がする。零時を回る頃には、畳の縁からもじわじわ潮水が滲み出す。


「おいおい、浸水ってレベルじゃねぇぞ……」


 床下から海水が噴き上がった。廊下の隅の木箱が浮き、ぱたりと横倒しになる。カメラの死角から、濡れた足音がいくつも重なって響く。


 ――大広間の映像に、それは“いた”。

 男。女。老人。子供。誰も彼も、顔が渦巻いて歪んでいる。眼窩も口も同じ一点に凹み、空洞だけが黒く開いていた。


「ひ、ぃっ!」


 影は二人の傍らからも湧き出た。猛烈な吐き気に襲われる。水。潮の匂い。忌まわしい海。自ら危地へ飛び込んだのに怖くてたまらない。足から力が抜けてしまう。


「……立って!オレが支える!」


 亮に身体を預けてなんとか廊下を歩いた。


「やべぇ!沈む!」


 海水がせり上がる。

 道中、視界の端で鏡が光った。

 ひびの入った姿見。そこに金の瞳をした“もう一人の自分”が写っていた。

 思わず目が潤む。


「……君。助けて……」


 情けない。沢山の人間を殺めてなお「彼」に縋るなんて。でも人の力ではもうどうしようもない。超常の加護がないと生き残れそうになかった。


『悪いけど、今回は出ねぇよ』


 冷たく吐き捨てる「彼」。その表情はひどく不貞腐れて、拗ねているようにすら見える。ガラス越しの貌は、軽く顎で亮の方を示した。


『そこに頼れる相棒がいるだろ。守ってもらえよ』


 鏡が割れた。

 見捨てられた。

 今までどんな時でも守ってくれた「彼」が。

 目の前が真っ暗になりかけた。

 どうしよう。どうしよう。どうしよう。

 自分は無力だ。

 頭だけ良くて、何もできない存在なのだ。


「恭ちゃん!海がここまで上がってきてる!」


 でも。このままでは亮ともども死んでしまう。

 勇気を奮い立たせて叫んだ。


「非常灯のバッテリーを抜け!電源ごと落とすんだ!」


 奴らは光を頼りに集まっている。

 ならば、奪えばいい。


「……!?ああ!」


 亮は一瞬呆けたが、すぐ頷いた。

 階段下の配電盤まで、水を蹴って走る。

 恭介は記録帳の図と館内の構造を必死で重ね合わせた。

 配電盤の上にスプリンクラーの制御。消火用の配管は天井全体にある。


 潮の怪異は、濡れたものに形を取る。

 それなら、もっと濃い霧で輪郭を溶かしてしまえばいい。


「制御盤をショートさせろ!一気に噴かせる!」

「言われなくても、そう思ってたとこ!」


 二人で工具箱をひっくり返し、ペンチとドライバーを掴む。

 パネルをこじ開け、剥き出しになった配線に手を伸ばす。瞬間、冷水が腰まで達した。それでも、歯を食いしばる。


「……今だ!」


 工具を叩き込む。

 火線が散った。白い閃光が一瞬、視界を焼く。その刹那、天井のノズルから冷たい飛沫が迸った。


 館全体が雨に沈んだ。

 それだけでは終わらない。ショートした配線から熱が上がる。即席ボイラーのように配管を駆け昇り、瞬時に水を蒸気へ変えてゆく。

 奴らの輪郭が崩れた。

 目も口も、ひとつの黒い穴だったはずの顔が、白い霧に呑まれぼろぼろと溶け落ちる。更に火花は灯油へ引火し、忌まわしき宿を浄化してゆく。


「早く、外へ!」


 亮は恭介を背負い、炎と白煙の中を突っ切った。

 崩れた玄関の戸を蹴破る。

 屋外の風が、一瞬で肺の空気を入れ替えた。


「……はぁ、はぁ……」


 二人で砂利の上に倒れ込む。

 背後で、鶴ノ屋が燃えている。

 まるで海へ沈みゆく巨大な箱舟だ。


 震えは、まだ止まらなかった。

 だが、身体のどこにも金の光は宿っていない。


 ――初めて、理性だけで生き残れた。


 罪悪感でも、恐怖でもない。絶海でようやく陸を見つけたような、静かな自信が芽生えた。



***



 翌朝。

 鶴ノ屋は半焼していた。

 黒焦げの柱が剥き出しとなり、残った御札が虚しく風に揺れる。原因は「老朽化した電気設備の事故」。床下配線の腐食や潮気による劣化を根拠に、恭介と亮は被害者として処理された。河本の根回しによって……。


 事情聴取は淡々と終わった。亮が「海が噴き上がったんだよ!」と大げさな手振りで語っても、刑事は苦笑するだけだった。

 それにしても……。

 あれは完全に放火だった。理性のまま生還できたのに、やるせない。


 二人は河本指定のホテルで待機した。海沿いのロビーに、猪八戒めいた肥満の初老男が現れる。彼こそが大京ホテルグループのCEO・河本輝政であった。


「いやぁ助かりましたわ!映像、全部使えます!はい、百万円!」

「わぁ!あざーっす!」


 封筒が机の上で重い音を立てる。亮は無邪気に喜んだ。恭介も受け取ったが、札束には焦げと鉄の匂いが染みていた。指先がかすかに震える。


「そういや社長、どうして令和にプロジェクトを再始動したんすか?」

「リニューアルってのは建前だよ。本当は“エージェント”の適性検査でしてね」

「「へ?」」


 聞き慣れない語に二人は固まった。


「エージェント……?」

「そう。心霊物件を潰して回る、我が社専属の“祓い屋”ですよ」

「は、祓い屋?」

「昔の地縛霊とか、祟りとか。いやぁ、ホテル建設に邪魔で邪魔で。だから体力と度胸のある若い衆に、お祓いに出向いてほしいんだよ」


 河本は笑顔でとんでもないことを喋り立てる。今回の鶴ノ屋のような、怪異があること前提だ。


「特に恭介くん、君は物凄い力を秘めているそうじゃないか!どうだい?報酬はたんまり弾むよ」


 名を呼ばれて跳び上がった。脂に埋もれかけた細い眼光は、裏人格を見抜いてる。そんな気がした。


「し、慎重に検討させていただきます!」


 頭を下げてロビーを後にした。この男に関わると、絶対ロクなことにならない。


「……まぁええでしょう。また連絡しますわ」


 ホテルを出ると潮風が胸を冷やす。実質お断りだとは、河本に伝わっていなかった。


 ――帰路。

 国道を走るヴィッツ。フロントガラス越しに、鶴ノ屋の黒い残骸が見える。真昼の陽光とは裏腹に、二人の顔は蒼白かった。


「な、タッグを組めば何とかなるもんだよ」


 運転しながら笑う亮。だが疲労の色は隠せておらず、手の擦り傷が赤くなっていた。


「ああ。君がいて、助かったよ」


 恭介は静かに微笑んだ。バックミラーに、一瞬だけ金の光が走る。陽の反射か、それとも……。胸の内に問いかけても、答えは返らない。


 (守ってもらえよ、か……)


 鏡にひびが入る直前、「彼」の残した言葉が忘れられない。

 あいつは自分を置いていったのか。

 見捨てられるのがここまで辛いと思わなかった。

 八ヶ月もの間、本気で憎み、消したいと願っていたのに。

 ハンドルを握る亮の横顔が、やけに遠く感じる。


 だが俯いてばかりはいられない。

 禍澗島――古文書に記されていた“始まりの孤島”。

 そこへ向かえば「彼」の正体に触れられる。なぜ自らに宿り、なぜ突き放したのか。全ては海の彼方に眠っている。


 いつか禍澗島へ渡り、真実を解く。

 ……そう決意して、ようやく顔を上げた。


 車窓から見る日本海は存外平坦で、穏やかだった。

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