第4話「黒い玉依媛の村」
黒塗りの女神像が祀られた、雪深き因習の村。
不調和な潮の匂い、黒い玉依媛、花婿に選ばれた教え子――
全てが重なった月の夜、恭介はついに一線を超える。
秋田県、雪深い山中。
正月明けの気怠い空気を裂くように、高速バスが進んでいた。
分厚い雪雲のせいで、真昼なのに外は薄暗い。
仙台駅前を出発して三時間あまり。恭介は窓辺に肘をつき、鈍色の景色を眺めていた。
隣席の青年が申し訳なさそうに身を縮めている。気遣い無用、と向き直り、微笑みを作った。
――数日前の夜。
北条恭介はファミレスで、青年こと佐久間俊哉に泣きつかれていた。
「先生!フィールドワークに同行してください!」
俊哉は二十歳。地方の私立大学で人類文化学を専攻している。恭介とはかつて、予備校講師と生徒だった間柄だ。懇願の声はひどく怯えていた。
「ボク怖いんです!課題とはいえ、比留野村に行くのが!」
スマホの地図アプリには、秋田・宮城県境の集落が映っている。手元には週刊誌。数年前に起きた村での行方不明事件を派手に報じていた。
「でも、私も忙しくてちょっと……」
恭介は軽薄に笑う。
嘘だった。白夜堂は暇そのものだ。真実は「彼」を出したくないからである。
吸血団地の事件以来、裏人格を呼べば破滅するという予感に満ちていた。
「そこをどうにか!数々の怪奇事件を解決した先生がいれば百人力!いや五億人力です!」
かように小一時間拝み倒され、断り切れず同行を承諾した。
――そして今に至る。
車窓の外、秋田道の雪壁が流れてゆく。錦秋湖を越えたあたりから、景色が一段と白みを増した。やがて車内アナウンスが終点の大曲バスターミナルを告げる。
「話を聞く限り、比留野村はいかにもな因習村じゃないか。私も少し怖いよ」
「あっ、因習って言い方は良くないですよ!」
俊哉は身を乗り出した。
「どんな習慣も、生まれる背景が必ずあるはずなんです。ボクはそれを調べたくて人文学部に進んだんですからね」
「佐久間くん、君は立派だね」
俊哉の真心があれば、きっと己に眠る衝動を克服できる。そんな淡い期待を抱いての承諾だった。
乗り継ぎのローカルバスが山道を登る。窓外には灰色の山並みが連なっていた。電線に積もる雪が崩れ落ちる。
――ふと、微かな潮の匂いが鼻を掠めた。
(おかしいな。山奥なのに、どうして海の匂いが……?)
胸がざわつく。
脳裏では既に「彼」が色めき立っていた。
車両は峠を越え、集落の影が見え始めた。
白い屋根が点在し、雪煙の向こうに黒い鳥居が浮かぶ。村人の姿はないのに、絶えず視線を感じる。
やがて木造平屋の比留野村・公民館前バス停に到着した。
恭介は雪が積もる地面を踏みしめる。遅れて、俊哉も降車した。
「遠路はるばるご苦労様です。ささ、お上がりください」
出迎えたのは村長の志村源蔵だった。
白髭を蓄えた初老の男。恰幅が良く、上等なスーツに身を包んでいる。志村は恭介と握手を交わした。そして俊哉ともども公民館内に招き入れ、茶を振る舞った。
湯は温かく染み渡るのに、心は落ち着かない。神棚に飾ってある像が異様だからだ。不審な目線を、志村は察知していた。
「珍しいでしょう?我が村の守護神像です」
彼は誇らしげに胸を張った。木像は全長三十センチほど。しかし顔が真っ黒に塗りつぶされ、双眸だけが金箔で輝いていた。
「すごい。もっと近くで見てもいいですか?」
俊哉は爛々とした目で立ち上がる。だが志村はやんわりと制した。
「おおっと、お手は触れぬよう。さもなくば“水難”に遭いますよ」
――水難。
その一言で恭介は総毛立った。
島根半島沖の冷たさが一気に蘇る。指先から感覚が失せ、湯呑みを落としそうになった。
(潮の匂い……気のせいじゃなかった……!)
以後の話は入らなかった。
心の奥では、もう「彼」が騒いでいた。
***
フィールドワークの日程は十日間。
目的は、比留野村に残る古い信仰を調査することだ。
翌朝、恭介と俊哉は本格的な聞き取りを開始。集落の中央にある修験院跡を訪れた。院内は静謐さに満ち、土間には供物の米が散らばっている。二人は神職の案内で広間に正座した。
語り部を務めるのは村の巫女・蓮珠。肉感的な体型を巫女装束で包み、黒髪を膝下まで伸ばしている。彼女は榊の香煙を指で払った。
「かつて秋田の沿岸に、一人の祭祀女がおりました。名を比留子と申します。その身に神を降ろし、人々に光を授けました」
声音は柔らかいが、底に艶を孕んでいた。
信仰はやがて迫害に変わり、比留子は山へ逃れる。流浪の果てに辿り着いたのが、この比留野村の原型と語った。
「比留子様が奇跡を起こす時、瞳が満月のように輝いた。像の金粉は、その煌めきを写したものと伝わっております」
蓮珠の目が、灯に照らされてほのかに揺れた。俊哉は夢中でノートを走らせる。
「わぁ……はるばる来た甲斐がありました!」
対して、恭介の心中は落ち着かない。息を吸うたび、言いようのない焦燥感に駆られた。
なぜだろう。こんなにもざわつくのは。
胸を掻きむしりたい衝動を抑え、手帳を閉じる。言語化できない違和感。理屈に生きる彼にとって、最も不快なものだった。
(私も、この村の信仰を学ぶべきだな)
しぶしぶ同行したフィールドワークに、ようやく心が乗り始めた。
***
三日目。
恭介は古文書を解析。比留子への信仰がやがて玉依媛へと転化した経緯を知った。
村人たちは女神を、海原より流れ着いた「嫁神」と見なした。文献は、水を司り豊穣を与える存在と記していた。
集落の古老は語る。
「山に海の神を祀るようになってから、雨が絶えなくなったんじゃよ」
崇拝の交雑。外部の神を取り込み、村は独自の形を作った。
「そして水に感謝を絶やしてはいけない。恵みを蔑ろにした者は、ひとりずつ底へ引かれていってのう……」
身震いがした。恭介は記録を写しながら、小さく呟く。
「信心は土壌に根を張る。だが根の深さは、ときに血に及ぶ……なんてね」
少し詩的すぎたかもしれない。ぽりぽりと頬を掻く。幸い、独り言は誰も聞いてなかった。
村はずれの泉には、行かなかった。
……他に調べるべき場所は、いくらでもあるはずだから。
***
四日目。
行方不明事件の年の資料を探したが、どこにも存在しなかった。村役場にも、寺の過去帳にも。
手がかりはただ一つ。役場の古倉庫で見つけた錆びたカメラだけであった。
廃診療所の暗室跡でフィルムを現像する。
写真には、祭礼の夜が映っていた。
黒布の列、揺れる灯。
その中央に――見知った顔があった。
週刊誌が散々報じた、行方不明の研究者だ。
(この村は……やはり何かがおかしい)
背筋が粟立つ。恭介は俊哉の宿へ走った。
***
同時刻。俊哉は入浴していた。
湯けむりの中、更衣室の床が軋む音がする。すると、蓮珠が浴室へ入ってきた。
「うわあっ、ビックリした!」
彼女の薄衣は湯気で肌に貼りついている。ただでさえ強い色香が、咽るほど匂い立つ。口紅の端が上がった。
「なんと初な反応。あなたこそ、神の婿に相応しい」
湯面が波打った。
「比留子様は、新しき血を求めておられます。我らと共に繁栄を――」
囁きが背骨を撫でた。俊哉は顔を真っ赤にし、湯舟を飛び出した。
「す、すみません!失礼します!」
タオル一枚を掴み、更衣室へ駆け込んだ。廊下を走り抜け、角を曲がった先で恭介とぶつかる。
「先生っ!助けてください!蓮珠さんに襲われかけました!」
「大丈夫!?どこ殴られた?怪我は――」
「風呂に押し入ってきたんですよ!もう目線がすっごいスケベで!」
(……なんだ。そっちの“襲われた”か)
思わず息を緩める。
「どうしよう、ボク、彼女いるのに!」
意外な告白に目を瞬かせた。恭介の中で彼は、無垢な少年という印象ができあがっていた。
「……こほん。とにかく、長居は危険だ。フィールドワークは切り上げよう」
「無理ですよ。さっきニュースで聞いたんです。村の入り口、土砂崩れで通行止めだって」
慌てて携帯ラジオを取り出す。ノイズの向こうで、パーソナリティが国道の封鎖を告げていた。
喉が乾く。再び鼓動が早まる。
耳の奥で「彼」が笑う。
――大丈夫だよ。お前だけは守ってやるからさ。
(うるさい、黙れ!)
セミロングの黒髪を掻きむしる。
爪の下に汗が滲む。
俊哉は怯えた目でその様子を見つめていた。
窓の外では、ひっそりと雪が降り始めた。
***
ワーク五日目、六日目。
集落は祭礼の支度で日に日に熱気を帯びていく。道のそこかしこで太鼓の囃子が鳴る。
土砂崩れの復旧は遅れていた。仕方なく恭介と俊哉は村に滞在し続けた。焦燥は静かに、だが確かに二人を蝕む。
「恭介様。我々は常に客人を歓迎しております。どうかこの地に、腰を落ち着けていただけないでしょうか」
蓮珠の誘惑は激しくなる一方だった。夕刻の修験院跡、しなやかな手が恭介の肩に触れる。甘い香が濃く鼻を刺した。
「すみませんが、私たちには私たちの生活があるので」
「ふふ、そう遠慮なさらずに……」
逃す視線に、彼女がしつこく追いすがる。つい、軽く目の焦点を外して呟いた。
「……失せろ。噛み殺すぞ」
空気が凍る。
「っ、失礼いたしました」
蓮珠は作り笑いを貼りつけ、退散した。
「先生、めっちゃ凄みましたね」
俊哉の一言で我に返る。
ほんの一瞬、意識が飛んでいた。さっきのは、自分の声だったのか。背筋がゾッとする。
兎角、このままでは埒が開かない。恭介は、行方不明事件の真相を追求しようと思い立った。
「佐久間くん。村長の家を調べよう」
「えっ、志村さん家を?」
師として頷く。
「大学の文化財調査として記録を閲覧したいと申し出る。形式を整えれば、応じてくれるさ」
夕刻、二人は学術調査の名目で志村源蔵の屋敷を訪れた。
玄関の灯りが老主人の白髭を照らす。恭介が身分証と依頼書を見せると、やがて渋面のまま顎を引いた。
「ふむ……。学問のためなら、やぶさかではありませんな」
邸内に上がる。閲覧室には帳簿や祭礼記録の棚が並んでいた。恭介は巻物をめくり、俊哉と目配せする。
志村が席を外した隙に、両名は奥の資料室へ忍び込んだ。
そこには失踪事件の年の書架が残っていた。埃をかぶった簿冊を開く。件の不明者は、水責めの儀式で死亡したとの旨が書かれていた。
「本物の因習だ……どうしよう、先生!」
陰惨な記録は昭和の頁まで遡る。殺人の儀礼は脈々と受け継がれていたのだ。
(この村に留まれば、殺される――)
喉を冷や汗が伝った。
扉の向こうから足音がする。身を返した瞬間、志村が立っていた。
髭を湛えた顔は変わらず柔らかい。だがその奥に、凄まじい怒気が潜んでいた。
「おやおや。こりゃあいけませんな。“お清め”の必要がありそうだ」
背後には村人たち。
乱闘の末、彼らに布で口元を抑えられた。
強烈な薬草の匂いが鼻腔を刺す。
視界が歪み、床が遠のいた。
…………。
目を覚ますと、村はずれの泉だった。
霜風が吹きすさび、満月が水面を照らす。
民衆が輪を作り、祝詞を唱えていた。
「「「水より生まれし者、水に還れ……」」」
村人たちは俊哉を麻縄で縛り、聖なる池の中央へ引きずっていた。
その様を巨大な黒塗りの女神像が見下ろしている。
「助けて!先生、助けてっ!」
声が水面に呑まれてゆく。
恭介も磔刑のごとく柱と縄で拘束され、動けなかった。
(水は嫌だ!水は嫌だ!水は嫌だ!水は嫌だ!)
トラウマが吹き上がる。
黒い海。逆巻く空。友を掴めなかった手。
「外者よ。その身を神へ還し、流れを繋げ」
蓮珠は悠然と手を掲げる。
俊哉の足が水に沈む。沈んでゆく。
刑柱が運ばれ、恭介もまた湖面と対峙する。
「やめろっ、水は嫌だ!沈む、沈みたくない!」
髪を振り乱した。
潮鳴りがガンガンと頭蓋を叩く。
「助けて!!もう一人の私!!」
泣き叫ぶ声が天を裂いた。
――ああ、勿論だとも。
ニヤリと笑う「彼」。
次の瞬間、縄が弾け飛んだ。
無言で大地に降り立つ。
刑柱を持つ者の腕を掴み、肘からへし折った。
喚く喉を潰す。血が泉へ流れ落ちる。
壊すたびに増す、金の瞳の輝き。
「か、神憑きだ!」
逃げ惑う群衆がひとり、またひとりとひしゃげてゆく。
女神像に血が散り、黒い顔面が紅に染まる。
暴虐の渦中で、恭介はようやく己の呼吸を取り戻した。
(このまま委ねれば、きっと――)
月夜に狂笑が響き渡った。
「あーっはっはっはッ!あっはっはっはぁ!」
俊哉は声を失う。
眼前に広がる光景は、もはや現実ではない。
満月に照らされる「彼」は、神話の怪そのものだった。
「最ッ高の夜だ!お前もそう思うだろう!?少年ッ!」
金の瞳が真っすぐに射抜く。縄を破る勢いで若者の身体が跳ねた。
「いずれ全てを俺の好きにしてやる。この器も、この世界もッ!」
返り血を浴び、天を仰ぐ怪物。
俊哉の慕う先生は、今やどこにもいなかった。
「……もう、やめて。先生……」
懇願が震える。
「彼」は最後の一人――蓮珠を掴み上げ、首を叩き折った。
吐息は熱で潤み、額には淡い汗が滲んでいた。
――静寂。
風が凪ぐ。
今や泉で息づくのは、恭介と俊哉だけだった。
やがて動き出した空気が、血だまりの匂いを薄めてゆく。
「あ……あぁぁ……!」
恭介は我に返った。
両手が、血で濡れている。
爪の裏まで赤黒く染まり、指が震えている。
周囲に散らばる、村人たちの亡骸。
自分は、取り返しのつかないことを、してしまった。
(この手は、なんて汚いんだ)
膝をついた。喉の奥から嗚咽が溢れた。
傍らで俊哉が縛られたまま呆然としている。
遠くで、サイレンが鳴った。
パトカーが到着する。
懐中電灯の光が、泉を穢した赤を照らす。
警察は二人を連行した。手錠の冷たさが、なおも「彼」の指の感触に思えた。
***
警察車両の中。
赤色灯の明滅が、車内の顔を射した。
俊哉は俯き、か細く呟く。
「助かったのに、どうして気が重いんでしょうね」
恭介は答えられなかった。唇が乾き、震えが止まない。
だがたった一つだけ、断言できることがあった。
(「彼」は……私の守護者なんかじゃない)
理性を奪い、人を殺める災厄そのものだ。
夜の闇を過ぎる車窓に、わずかに月が滲む。
こうして比留野村でのフィールドワークは、七日目にして強制終了した。
北条恭介は八人を致傷。うち四人が死亡した。
***
取調室の灯は白すぎた。
卓上の時計が、刻む音を絶えず響かせている。
警部補は何度も同じ質問を繰り返す。
「君は故意でやったのか?ガイシャと面識は?」
恭介は唇を噛む。
「トラブルがあったのは蓮珠さんだけです。他の方とは泉で初めて会いました」
答えるたび、喉がひりつく。
隣室で、俊哉が事情聴取を受けていた。
途切れ途切れの声がこちらまで聞こえてくる。
「ボクたちは……彼女に殺されかけたんです。でも、先生が身を挺して助けてくれて……」
その一言で、空気が変わった。
警部補は腕を組み、沈黙のまま目を閉じる。
夜が明けた。
留置場の布団は薄くて眠れなかった。
金属の壁を背に、恭介は手を見つめ続ける。
何度も何度も洗ったのに、血がしつこく匂っていた。
***
三日後の朝、鉄扉の向こうで靴音が止まった。
「北条恭介、釈放だ」
鍵の音で顔を上げる。
刑事の口調に感情はない。
ただ机上のモニターには、泉の映像が流れていた。
村人たちが俊哉を縛り、水に沈める決定的場面。当然、その後の惨劇も――。
「……もう十分、証明になったはずだ」
警部補が呟き、書類に印を押した。
その瞬間、背筋からどっと力が抜ける。
どれだけ息を詰めていたのか、自分でもわからなかった。
撮影者は志村源蔵。彼は儀式の直前に泉へカメラを設置し、自宅でその顛末を見届けていた。
志村は殺人教唆の容疑で逮捕。行方不明研究者の殺害も主導したと発覚。更には行政からの補助金詐取も露見した。
***
交番前。
外気は冷たく、冬の陽が眩しかった。
自販機で買った缶コーヒーは、温かいのに味がしない。
隣に佇む俊哉は無言だ。ポケットに手を突っ込み、目を伏せている。
雪解けの水がアスファルトを流れ、靴の先を濡らしていく。
秋田駅を目前にして、彼はようやく薄い唇を開いた。
「……感謝はしてますよ。一応」
それから無言のまま駅まで歩く。
改札を抜ける手前で、俊哉は立ち止まった。
「先生。ボクは、普通の暮らしに戻ります」
声は穏やかだが、視線はどこにも向いていなかった。
恭介はただ、短く頷く。
「――ああ」
彼とは、もう会えない予感がした。
***
仙台に帰還し、白夜堂の窓から月を見上げた。
あの夜からずっと、両の手から血の匂いが消えない。
脳裏で、俊哉の叫びと、警部補の判決文が交互に反響した。
(私は……何を守れたんだ)
失ったものばかりが大きすぎる。
遠くで、車の音が過ぎ去った。
(「彼」を消す。どんな手段を使ってでも……)
例え、守られた恩があるとしても。
白い月光の下で、静かに拳を握り締めた。
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