表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/7

第4話「黒い玉依媛の村」

黒塗りの女神像が祀られた、雪深き因習の村。

不調和な潮の匂い、黒い玉依媛、花婿に選ばれた教え子――


全てが重なった月の夜、恭介はついに一線を超える。

 秋田県、雪深い山中。

 正月明けの気怠い空気を裂くように、高速バスが進んでいた。

 分厚い雪雲のせいで、真昼なのに外は薄暗い。

 仙台駅前を出発して三時間あまり。恭介は窓辺に肘をつき、鈍色の景色を眺めていた。

 隣席の青年が申し訳なさそうに身を縮めている。気遣い無用、と向き直り、微笑みを作った。


 ――数日前の夜。

 北条恭介はファミレスで、青年こと佐久間(さくま)俊哉(としや)に泣きつかれていた。


「先生!フィールドワークに同行してください!」


 俊哉は二十歳。地方の私立大学で人類文化学を専攻している。恭介とはかつて、予備校講師と生徒だった間柄だ。懇願の声はひどく怯えていた。


「ボク怖いんです!課題とはいえ、比留野(ひるの)村に行くのが!」


 スマホの地図アプリには、秋田・宮城県境の集落が映っている。手元には週刊誌。数年前に起きた村での行方不明事件を派手に報じていた。


「でも、私も忙しくてちょっと……」


 恭介は軽薄に笑う。

 嘘だった。白夜堂は暇そのものだ。真実は「彼」を出したくないからである。

 吸血団地の事件以来、裏人格を呼べば破滅するという予感に満ちていた。


「そこをどうにか!数々の怪奇事件を解決した先生がいれば百人力!いや五億人力です!」


 かように小一時間拝み倒され、断り切れず同行を承諾した。


 ――そして今に至る。

 車窓の外、秋田道の雪壁が流れてゆく。錦秋湖を越えたあたりから、景色が一段と白みを増した。やがて車内アナウンスが終点の大曲バスターミナルを告げる。


「話を聞く限り、比留野村はいかにもな因習村じゃないか。私も少し怖いよ」

「あっ、因習って言い方は良くないですよ!」


 俊哉は身を乗り出した。


「どんな習慣も、生まれる背景が必ずあるはずなんです。ボクはそれを調べたくて人文学部に進んだんですからね」

「佐久間くん、君は立派だね」


 俊哉の真心があれば、きっと己に眠る衝動を克服できる。そんな淡い期待を抱いての承諾だった。

 乗り継ぎのローカルバスが山道を登る。窓外には灰色の山並みが連なっていた。電線に積もる雪が崩れ落ちる。


 ――ふと、微かな潮の匂いが鼻を掠めた。


 (おかしいな。山奥なのに、どうして海の匂いが……?)


 胸がざわつく。

 脳裏では既に「彼」が色めき立っていた。


 車両は峠を越え、集落の影が見え始めた。

 白い屋根が点在し、雪煙の向こうに黒い鳥居が浮かぶ。村人の姿はないのに、絶えず視線を感じる。

 やがて木造平屋の比留野村・公民館前バス停に到着した。

 恭介は雪が積もる地面を踏みしめる。遅れて、俊哉も降車した。


「遠路はるばるご苦労様です。ささ、お上がりください」


 出迎えたのは村長の志村(しむら)源蔵(げんぞう)だった。

 白髭を蓄えた初老の男。恰幅が良く、上等なスーツに身を包んでいる。志村は恭介と握手を交わした。そして俊哉ともども公民館内に招き入れ、茶を振る舞った。

 湯は温かく染み渡るのに、心は落ち着かない。神棚に飾ってある像が異様だからだ。不審な目線を、志村は察知していた。


「珍しいでしょう?我が村の守護神像です」


 彼は誇らしげに胸を張った。木像は全長三十センチほど。しかし顔が真っ黒に塗りつぶされ、双眸だけが金箔で輝いていた。


「すごい。もっと近くで見てもいいですか?」


 俊哉は爛々とした目で立ち上がる。だが志村はやんわりと制した。


「おおっと、お手は触れぬよう。さもなくば“水難”に遭いますよ」


 ――水難。

 その一言で恭介は総毛立った。

 島根半島沖の冷たさが一気に蘇る。指先から感覚が失せ、湯呑みを落としそうになった。


 (潮の匂い……気のせいじゃなかった……!)


 以後の話は入らなかった。

 心の奥では、もう「彼」が騒いでいた。



***



 フィールドワークの日程は十日間。

 目的は、比留野村に残る古い信仰を調査することだ。


 翌朝、恭介と俊哉は本格的な聞き取りを開始。集落の中央にある修験院跡を訪れた。院内は静謐さに満ち、土間には供物の米が散らばっている。二人は神職の案内で広間に正座した。


 語り部を務めるのは村の巫女・蓮珠(れんじゅ)。肉感的な体型を巫女装束で包み、黒髪を膝下まで伸ばしている。彼女は榊の香煙を指で払った。


「かつて秋田の沿岸に、一人の祭祀女(さいしめ)がおりました。名を比留子ひること申します。その身に神を降ろし、人々に光を授けました」


 声音は柔らかいが、底に艶を孕んでいた。

 信仰はやがて迫害に変わり、比留子は山へ逃れる。流浪の果てに辿り着いたのが、この比留野村の原型と語った。


「比留子様が奇跡を起こす時、瞳が満月のように輝いた。像の金粉は、その煌めきを写したものと伝わっております」


 蓮珠の目が、灯に照らされてほのかに揺れた。俊哉は夢中でノートを走らせる。


「わぁ……はるばる来た甲斐がありました!」


 対して、恭介の心中は落ち着かない。息を吸うたび、言いようのない焦燥感に駆られた。

 なぜだろう。こんなにもざわつくのは。

 胸を掻きむしりたい衝動を抑え、手帳を閉じる。言語化できない違和感。理屈に生きる彼にとって、最も不快なものだった。


 (私も、この村の信仰を学ぶべきだな)


 しぶしぶ同行したフィールドワークに、ようやく心が乗り始めた。



***



 三日目。

 恭介は古文書を解析。比留子への信仰がやがて玉依媛(たまよりひめ)へと転化した経緯を知った。

 村人たちは女神を、海原より流れ着いた「嫁神」と見なした。文献は、水を司り豊穣を与える存在と記していた。


 集落の古老は語る。


「山に海の神を祀るようになってから、雨が絶えなくなったんじゃよ」


 崇拝の交雑。外部の神を取り込み、村は独自の形を作った。


「そして水に感謝を絶やしてはいけない。恵みを蔑ろにした者は、ひとりずつ底へ引かれていってのう……」


 身震いがした。恭介は記録を写しながら、小さく呟く。


「信心は土壌に根を張る。だが根の深さは、ときに血に及ぶ……なんてね」


 少し詩的すぎたかもしれない。ぽりぽりと頬を掻く。幸い、独り言は誰も聞いてなかった。


 村はずれの泉には、行かなかった。

 ……他に調べるべき場所は、いくらでもあるはずだから。



***



 四日目。

 行方不明事件の年の資料を探したが、どこにも存在しなかった。村役場にも、寺の過去帳にも。

 手がかりはただ一つ。役場の古倉庫で見つけた錆びたカメラだけであった。


 廃診療所の暗室跡でフィルムを現像する。

 写真には、祭礼の夜が映っていた。

 黒布の列、揺れる灯。

 その中央に――見知った顔があった。

 週刊誌が散々報じた、行方不明の研究者だ。


 (この村は……やはり何かがおかしい)


 背筋が粟立つ。恭介は俊哉の宿へ走った。



***



 同時刻。俊哉は入浴していた。

 湯けむりの中、更衣室の床が軋む音がする。すると、蓮珠が浴室へ入ってきた。


「うわあっ、ビックリした!」


 彼女の薄衣は湯気で肌に貼りついている。ただでさえ強い色香が、咽るほど匂い立つ。口紅の端が上がった。


「なんと初な反応。あなたこそ、神の婿に相応しい」


 湯面が波打った。


「比留子様は、新しき血を求めておられます。我らと共に繁栄を――」


 囁きが背骨を撫でた。俊哉は顔を真っ赤にし、湯舟を飛び出した。


「す、すみません!失礼します!」


 タオル一枚を掴み、更衣室へ駆け込んだ。廊下を走り抜け、角を曲がった先で恭介とぶつかる。


「先生っ!助けてください!蓮珠さんに襲われかけました!」

「大丈夫!?どこ殴られた?怪我は――」

「風呂に押し入ってきたんですよ!もう目線がすっごいスケベで!」


 (……なんだ。そっちの“襲われた”か)


 思わず息を緩める。


「どうしよう、ボク、彼女いるのに!」


 意外な告白に目を瞬かせた。恭介の中で彼は、無垢な少年という印象ができあがっていた。


「……こほん。とにかく、長居は危険だ。フィールドワークは切り上げよう」

「無理ですよ。さっきニュースで聞いたんです。村の入り口、土砂崩れで通行止めだって」


 慌てて携帯ラジオを取り出す。ノイズの向こうで、パーソナリティが国道の封鎖を告げていた。


 喉が乾く。再び鼓動が早まる。

 耳の奥で「彼」が笑う。


 ――大丈夫だよ。お前だけは守ってやるからさ。


 (うるさい、黙れ!)


 セミロングの黒髪を掻きむしる。

 爪の下に汗が滲む。

 俊哉は怯えた目でその様子を見つめていた。

 窓の外では、ひっそりと雪が降り始めた。



***



 ワーク五日目、六日目。

 集落は祭礼の支度で日に日に熱気を帯びていく。道のそこかしこで太鼓の囃子が鳴る。

 土砂崩れの復旧は遅れていた。仕方なく恭介と俊哉は村に滞在し続けた。焦燥は静かに、だが確かに二人を蝕む。


「恭介様。我々は常に客人を歓迎しております。どうかこの地に、腰を落ち着けていただけないでしょうか」


 蓮珠の誘惑は激しくなる一方だった。夕刻の修験院跡、しなやかな手が恭介の肩に触れる。甘い香が濃く鼻を刺した。


「すみませんが、私たちには私たちの生活があるので」

「ふふ、そう遠慮なさらずに……」


 逃す視線に、彼女がしつこく追いすがる。つい、軽く目の焦点を外して呟いた。


「……失せろ。噛み殺すぞ」


 空気が凍る。


「っ、失礼いたしました」


 蓮珠は作り笑いを貼りつけ、退散した。


「先生、めっちゃ凄みましたね」


 俊哉の一言で我に返る。

 ほんの一瞬、意識が飛んでいた。さっきのは、自分の声だったのか。背筋がゾッとする。

 兎角、このままでは埒が開かない。恭介は、行方不明事件の真相を追求しようと思い立った。


「佐久間くん。村長の家を調べよう」

「えっ、志村さん家を?」


 師として頷く。


「大学の文化財調査として記録を閲覧したいと申し出る。形式を整えれば、応じてくれるさ」


 夕刻、二人は学術調査の名目で志村源蔵の屋敷を訪れた。

 玄関の灯りが老主人の白髭を照らす。恭介が身分証と依頼書を見せると、やがて渋面のまま顎を引いた。


「ふむ……。学問のためなら、やぶさかではありませんな」


 邸内に上がる。閲覧室には帳簿や祭礼記録の棚が並んでいた。恭介は巻物をめくり、俊哉と目配せする。

 志村が席を外した隙に、両名は奥の資料室へ忍び込んだ。

 そこには失踪事件の年の書架が残っていた。埃をかぶった簿冊を開く。件の不明者は、水責めの儀式で死亡したとの旨が書かれていた。


「本物の因習だ……どうしよう、先生!」


 陰惨な記録は昭和の頁まで遡る。殺人の儀礼は脈々と受け継がれていたのだ。


 (この村に留まれば、殺される――)


 喉を冷や汗が伝った。

 扉の向こうから足音がする。身を返した瞬間、志村が立っていた。

 髭を湛えた顔は変わらず柔らかい。だがその奥に、凄まじい怒気が潜んでいた。


「おやおや。こりゃあいけませんな。“お清め”の必要がありそうだ」


 背後には村人たち。

 乱闘の末、彼らに布で口元を抑えられた。

 強烈な薬草の匂いが鼻腔を刺す。

 視界が歪み、床が遠のいた。


 …………。


 目を覚ますと、村はずれの泉だった。

 霜風が吹きすさび、満月が水面を照らす。

 民衆が輪を作り、祝詞を唱えていた。


「「「水より生まれし者、水に還れ……」」」


 村人たちは俊哉を麻縄で縛り、聖なる池の中央へ引きずっていた。

 その様を巨大な黒塗りの女神像が見下ろしている。


「助けて!先生、助けてっ!」


 声が水面に呑まれてゆく。

 恭介も磔刑のごとく柱と縄で拘束され、動けなかった。


 (水は嫌だ!水は嫌だ!水は嫌だ!水は嫌だ!)


 トラウマが吹き上がる。

 黒い海。逆巻く空。友を掴めなかった手。


「外者よ。その身を神へ還し、流れを繋げ」


 蓮珠は悠然と手を掲げる。

 俊哉の足が水に沈む。沈んでゆく。

 刑柱が運ばれ、恭介もまた湖面と対峙する。


「やめろっ、水は嫌だ!沈む、沈みたくない!」


 髪を振り乱した。

 潮鳴りがガンガンと頭蓋を叩く。


「助けて!!もう一人の私!!」


 泣き叫ぶ声が天を裂いた。


 ――ああ、勿論だとも。


 ニヤリと笑う「彼」。

 次の瞬間、縄が弾け飛んだ。


 無言で大地に降り立つ。

 刑柱を持つ者の腕を掴み、肘からへし折った。

 喚く喉を潰す。血が泉へ流れ落ちる。

 壊すたびに増す、金の瞳の輝き。


「か、神憑きだ!」


 逃げ惑う群衆がひとり、またひとりとひしゃげてゆく。

 女神像に血が散り、黒い顔面が紅に染まる。

 暴虐の渦中で、恭介はようやく己の呼吸を取り戻した。


 (このまま委ねれば、きっと――)


 月夜に狂笑が響き渡った。


「あーっはっはっはッ!あっはっはっはぁ!」


 俊哉は声を失う。

 眼前に広がる光景は、もはや現実ではない。

 満月に照らされる「彼」は、神話の怪そのものだった。


「最ッ高の夜だ!お前もそう思うだろう!?少年ッ!」


 金の瞳が真っすぐに射抜く。縄を破る勢いで若者の身体が跳ねた。


「いずれ全てを俺の好きにしてやる。この器も、この世界もッ!」


 返り血を浴び、天を仰ぐ怪物。

 俊哉の慕う先生は、今やどこにもいなかった。


「……もう、やめて。先生……」


 懇願が震える。

 「彼」は最後の一人――蓮珠を掴み上げ、首を叩き折った。

 吐息は熱で潤み、額には淡い汗が滲んでいた。


 ――静寂。

 風が凪ぐ。


 今や泉で息づくのは、恭介と俊哉だけだった。

 やがて動き出した空気が、血だまりの匂いを薄めてゆく。


「あ……あぁぁ……!」


 恭介は我に返った。

 両手が、血で濡れている。

 爪の裏まで赤黒く染まり、指が震えている。

 周囲に散らばる、村人たちの亡骸。

 自分は、取り返しのつかないことを、してしまった。


 (この手は、なんて汚いんだ)


 膝をついた。喉の奥から嗚咽が溢れた。

 傍らで俊哉が縛られたまま呆然としている。

 遠くで、サイレンが鳴った。


 パトカーが到着する。

 懐中電灯の光が、泉を穢した赤を照らす。

 警察は二人を連行した。手錠の冷たさが、なおも「彼」の指の感触に思えた。



***



 警察車両の中。

 赤色灯の明滅が、車内の顔を射した。

 俊哉は俯き、か細く呟く。


「助かったのに、どうして気が重いんでしょうね」


 恭介は答えられなかった。唇が乾き、震えが止まない。

 だがたった一つだけ、断言できることがあった。


 (「彼」は……私の守護者なんかじゃない)


 理性を奪い、人を殺める災厄そのものだ。


 夜の闇を過ぎる車窓に、わずかに月が滲む。

 こうして比留野村でのフィールドワークは、七日目にして強制終了した。

 北条恭介は八人を致傷。うち四人が死亡した。



***



 取調室の灯は白すぎた。

 卓上の時計が、刻む音を絶えず響かせている。

 警部補は何度も同じ質問を繰り返す。


「君は故意でやったのか?ガイシャと面識は?」


 恭介は唇を噛む。


「トラブルがあったのは蓮珠さんだけです。他の方とは泉で初めて会いました」


 答えるたび、喉がひりつく。

 隣室で、俊哉が事情聴取を受けていた。

 途切れ途切れの声がこちらまで聞こえてくる。


「ボクたちは……彼女に殺されかけたんです。でも、先生が身を挺して助けてくれて……」


 その一言で、空気が変わった。

 警部補は腕を組み、沈黙のまま目を閉じる。


 夜が明けた。

 留置場の布団は薄くて眠れなかった。

 金属の壁を背に、恭介は手を見つめ続ける。

 何度も何度も洗ったのに、血がしつこく匂っていた。



***



 三日後の朝、鉄扉の向こうで靴音が止まった。


「北条恭介、釈放だ」


 鍵の音で顔を上げる。

 刑事の口調に感情はない。

 ただ机上のモニターには、泉の映像が流れていた。

 村人たちが俊哉を縛り、水に沈める決定的場面。当然、その後の惨劇も――。


「……もう十分、証明になったはずだ」


 警部補が呟き、書類に印を押した。

 その瞬間、背筋からどっと力が抜ける。

 どれだけ息を詰めていたのか、自分でもわからなかった。


 撮影者は志村源蔵。彼は儀式の直前に泉へカメラを設置し、自宅でその顛末を見届けていた。

 志村は殺人教唆の容疑で逮捕。行方不明研究者の殺害も主導したと発覚。更には行政からの補助金詐取も露見した。



***



 交番前。

 外気は冷たく、冬の陽が眩しかった。

 自販機で買った缶コーヒーは、温かいのに味がしない。

 隣に佇む俊哉は無言だ。ポケットに手を突っ込み、目を伏せている。

 雪解けの水がアスファルトを流れ、靴の先を濡らしていく。

 秋田駅を目前にして、彼はようやく薄い唇を開いた。


「……感謝はしてますよ。一応」


 それから無言のまま駅まで歩く。

 改札を抜ける手前で、俊哉は立ち止まった。


「先生。ボクは、普通の暮らしに戻ります」


 声は穏やかだが、視線はどこにも向いていなかった。

 恭介はただ、短く頷く。


「――ああ」


 彼とは、もう会えない予感がした。



***



 仙台に帰還し、白夜堂の窓から月を見上げた。

 あの夜からずっと、両の手から血の匂いが消えない。

 脳裏で、俊哉の叫びと、警部補の判決文が交互に反響した。


 (私は……何を守れたんだ)


 失ったものばかりが大きすぎる。

 遠くで、車の音が過ぎ去った。


 (「彼」を消す。どんな手段を使ってでも……)


 例え、守られた恩があるとしても。

 白い月光の下で、静かに拳を握り締めた。

誤字報告などはお気軽にどうぞ。


感想・ブクマ励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
読ませていただきました! 開幕から正直驚きました。書店で小説を買って読み始めたと思えるほど文章力が他の小説と段違いです。 一見文が一つずつ長くて詰まるかと思いきや、 全然そんなことはなくすらすら読め…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ