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第3話「吸血団地」

壁を這う赤い筋、夜ごと倒れる住民たち。

団地で起きた“吸血”事件を追う恭介は、封じられた地下へ赴く。

その先に待つのは理性か破壊か――怪異を征服する快感が、臨界を越える。

 団地に、何かが巣食っている。

 壁のひび割れから、赤い線が血管のように這い出ていた。住民たちが寝静まった夜。“それ”の尖端がコンクリート面から伸びる。男は布団の上で身を捩ろうとした。が、動けない。まるで金縛りだ。


 (吸われる――)


 男の絶叫は喉で潰れた。ついに“それ”が首筋を刺す。吸引音。頬が青ざめ、唇が紫に沈む。瞳孔だけが小刻みに震える。

 ……やがて呼吸が途切れた。室内の時計が、虚しく秒針を刻んだ。



***



 年末の朝。

 白夜堂の軒先では、金木犀のドライフラワーがほのかに香っていた。

 恭介は淹れたてのコーヒーを啜り、新聞を広げる。


 『T団地で集団体調不良 心霊現象か』


 一面にしては軽薄な見出しだ。ぼんやりと流し読みしながら、バタートーストを齧る。


 (明光新聞はもう少し、骨のある社風だったはずだが)


 紙のざらつきが、なんとなく不快だった。向日葵事件の負傷は、完治したはずなのに。内耳もちりちりと疼く。さっさと身支度を整え、店を開いた。新しい空気が店内を抜け、書物の匂いがゆっくりと立ちのぼる。


 戸口の鈴が来客を告げた。


「いらっしゃいませ。本日は早いですね」


 笑みを作って迎えると、倉持綾子が手を振った。


「ええ。今日は仕事が休みで」


 冬の日差しが、ベージュのコートの繊維を淡く照らす。出会った頃から、綾子は夜にばかり来店していた。聞けば、昼間は役所勤めで忙しいという。

 彼女は鞄から一枚の地図を広げた。


「訪ねてほしい場所があるんです」


 白い指が示す赤丸の地点に、恭介は眉を寄せる。T団地――今朝の記事の現場だった。


「朝の新聞で見ました。吸血鬼が出ると話題みたいですね」

「そうなんです。入院した方もいて……私の友達も住んでて、心配なんです」


 声色は、細く震えていた。

 恭介はセミロングの黒髪を掻く。


 (参ったな。すっかり怪奇専門の駆け込み寺扱いだ)


 自分はただの古書店主に過ぎないのに。だが、頭の中で低い声が嗤う。


 ――行こうぜ。面白そうじゃねえか。


 また「彼」だ。背筋がひくりと粟立つ。笑うべき場面ではないのに、唇の端が上がった。


「……了解です。調べてみましょう」

「ありがとうございます。……お願いします」


 綾子は深々と礼をした。

 シャッターを半分降ろし、臨時休業の札を掛ける恭介。


 午後、白い息を吐きながら愛車のレガシィB4のドアを閉めた。

 冬空に雲がかかる。エンジンが唸り、街が遠のく。金木犀の香りが、しばらく恭介の髪に残っていた。



***



 T団地は、コンクリートの五階建が六棟ある。昭和四十年代の建築で、あちこちが痛んでいた。白い外壁は煤け、柵は惨めに錆びている。

 階段室に入ると、壁面を這う赤い線が目に飛び込んだ。糸状のものがびっしりと伸び、手摺の影に消えている。


 ((かび)……だよな?)


 恭介は眉を寄せた。黴にしては艶めきが強すぎる。乾いていない。酸味を帯びた異臭すらする。靴底が濡れた床に吸いつき、粘った。


 最初の聞き取りは、綾子の友人・(つじ)美里(みさと)の部屋だった。扉が開き、柔軟剤と油の香りが広がる。


「あら〜!イケメンじゃない!」


 応対したのはギャル風の派手な女だった。リビングでは幼児の兄弟が転げ回っている。


「もしかして新しい彼氏?綾子、再婚するの?」

「違います!そういう関係じゃありません!」


 恭介は己の耳を疑った。


 (再婚だって……!?)


 二人がかりの弁明でようやく誤解が解け、本題が始まった。


「倒れた人の首にね、傷があるの。吸血鬼が噛んだみたいに!」


 美里は子供の弟の方をあやしながら、自らの首筋を指さした。


「不審者は誰も見てない。隣のおじいちゃんが救急で運ばれた夜も、すごく静かだったの。出入りしてるのは本当に住民と宅配くらいよ」


 恭介は淡々とメモを書く。日付、時間帯、症状、傷の位置を余すところなく記録する。冷蔵庫のモーターが唸り、窓の外でカラスが鳴いた。


「ウチの子も同じ目に遭いそうで不安なの!北条さん、助けてくれるわよね?」

「……手は尽くします」


 聞き取りを終えて玄関を出ると、粉雪が舞っていた。踊り場の赤はさっきより太い。


「……少し伺っても?」

「はい」

「ご結婚、なさってたんですか?」

「ええ……。実は、バツイチです……」


 恭介は驚いた。彼女はとても清純な印象だった。仕事一筋に見え、男性の影を感じない。顔立ちも若々しい。大輔の妹、といわれた方が腑に落ちるほどだった。


「そうですか……。すみません、余計な詮索をして」

「ううん。いずれ話さなければと思ってましたから」


 綾子は仄かに苦い微笑みを作る。会話の最中、彼女のスマホが鳴った。すぐに慌ただしく対応し、ため息をついて通話を切った。


「ごめんなさい。急用ができたので、お先に失礼します」

「本当にお忙しいんですね……、では」


 恭介は小さく手を振った。綾子は深々と頭を下げ、団地を後にする。ふいに耳鳴りがした。この地に潜む何かが、身を捩った気配がした。



***



 恭介はT団地管理人の許可を得て、調査を始めた。


 ――論理調査。

 赤い線は北面で太く、南面で薄い。全て下方へと落ちている。住民が倒れる時間帯は夜に集中していた。主な症状は悪寒と悪夢。共通の訴えは「吸われる」「部屋が呼ぶ」だった。

 ――仮説。

 紅の筋は団地全体を繋ぐ“経路”。吸うのは酸素ではない。生気だ。


 (住宅棟の全てに、生命力を奪う現象が広がっている?)


 ――更なる仮説。

 老朽化した配管や床下の空洞が共鳴腔である。夢や痛覚を侵す低い振動を発している。赤い線はそれを媒介する道。呼び声は、人を“根源”へ誘導する。

 ――検証。

 風が止むのを見計らって音を採取した。方位磁針と簡易振動計、筋の走向をトレースする。中心核は、立ち入り禁止の地下にあると推測した。夕刻、恭介は白夜堂に帰り、中途記録をまとめる。

 夜、スマホに着信が入った。昼に番号を交換していた美里からだった。


『隣のおじいちゃんが危篤なの。お願い、早く来て』


 恭介は車を走らせた。だが渋滞に巻き込まれ、二十分以上かかってしまう。

 ようやく辿り着いた団地は凍り、空気が奇妙に凪いでいた。棟の裏で、人影が崩れ落ちる。


「っ、うぅ……」


 それは美里だった。頬は青白く、唇は紫。脈がか細く弱っていた。


「大丈夫ですか!?」


 彼女の首筋には、小さな赤い傷ができていた。


「吸われる……、あの部屋が、呼ん、で……」


 うわ言のように呟く美里。肌が冷たすぎる。恭介は急いで救急車を呼び、廊下を駆けた。血のごとき線はさらに太く力強さを増す。光を反射し、生々しく脈動していた。


 (あの部屋って……地下か!)


 立ち入り禁止の警告を越え、長い階段を駆け下りる。手摺がひやりとする。湿気は濃くなる一方だ。地下室の鉄扉の隙間から、白い霜気が吹き出ていた。


 床を蹴るたびに赤が震える。耳の奥で音が増幅し、やがて「呼吸」へと変じる。

 恭介は直感した。


 (この団地は、生きている)


 額の汗を拭う。天井から落ちる水滴の響きにすら、過剰に反応してしまった。


 (おそらく中に、異変の核心がある――)


 扉の向こうで、吸気が一段と深くなった。

 血管めいた糸が収縮する。


 恭介は手を伸ばした。

 ドアノブに触れて、感覚が凍った。

 なのに背中を押す空気は生温い。

 団地が、呼吸している。


 鍵はかかっていなかった。


 ……静かに、ドアを引いた。


 室内は、まるで臓腑だった。充満する鉄の匂いが鼻を鈍らせる。錆びた鉄管が呼吸し、赤黒い筋が壁を覆う。壁全体が脈打つ様は、心室だ。思わず目を見開いた。


「本当に、生きてる……」


 古びた配電盤には、褪せた御札が幾重にも貼ってあった。札から太い動脈が発生している。“血管”は団地全体を喰らいながら、構造を侵食していた。


 怪異なる命は住民を養分にしていた。眠る人々の命気を啜り、さらに逞しく育つ。符紙の端がぴくりと震え、赤い線が枝分かれした。


 (また、吸う気だ……!)


 このままでは新たな犠牲者が生まれる。恭介は駆け出した――が、足が止まる。闇から数十人の影が湧き上がり、通路を塞いだのだ。

 彼らには顔も、声も、ない。ただの怨憎だけで質量を形成していた。


 (くそっ、進めない!)


 歯を噛みしめる。上階から女の悲鳴が落ちてきた。鉄骨が鳴動する。壁から何十本もの糸が吹き出し、群れを成して恭介へ伸びた。


 (来る……!)


 敵も、「彼」も。

 意識と鼓動が裏返る。

 音が消え、視界がきらめいた。


「吸わせねぇよ」


 瞳が金色に変わる。

 身体が「彼」に交代した。

 全身を貫く脈動が、恐怖を焼き尽くす。

 拳を振り抜く。

 怨霊の実体じみた圧が、揺らいだ。

 最前列の影が弾け、通路に空白ができる。


「お前らが奪ったもん、返せよ」


 壁から鉄パイプを引き剥がす。

 襲い来る質量をひたすら殴打する。

 衝撃音が痛快に広がった。

 闇が裂けた。

 瞬間、腐臭が薄れる。

 上階で、誰かが息を吹き返した。

 ……そんな気がした。


 破砕したコンクリ片が顔をかすめる。

 唇に血が滲んだ。

 舌でそれを舐め取る「彼」。


「……甘ぇな」


 血も、自分に勝てるという思い込みも。

 まるで宴だ。

 祟り神たる「彼」。

 その覚醒を祝うための――。


「来いよ。お前も物足りねぇだろ。なぁ!」


 しぶとく糸が絡みつく。

 容赦なく掴み、芯を探り、引きずり出す。

 焦げた樹脂が弾け、火花が飛んだ。


「もっと泣け!叫べ!俺を気持ちよくさせろよッ!」


 悲鳴が千切れ、鉄が軋んだ。

 恍惚に息を吐き、最後の一撃を放つ。


「終わりだ」


 配電盤を全力で殴り抜く。

 御札が紙吹雪となって砕け散った。

 壁を覆う血管が一気に萎む。

 余波で団地全体が振動し、蛍光灯が破裂した。


「次の出番が、楽しみだぜ」


 破壊をやりきった「彼」は、陶酔の笑みを浮かべた。やがて金の光が消え、地下が静まり返った。拳がずきずきと痛み出す。恭介は我に返り、辺りを見渡した。


 (信じられない!これを私がやったのか!?)


 散乱する瓦礫、千切れた鉄パイプ。そしてひしゃげた配電盤。全てが理解を超えていた。頭がくらくらしてくる。足元からどっと力が抜ける。


「……はぁ、はぁ……」


 ふらつく身体に鞭打ちながら地上へと上がる。興奮が冷めやらない。呼気が、熱い。よろよろと壁に手を付く。清らかな外気が、徐々に火照った肌を鎮める。遠くから、見回りに来た管理人が駆け寄ってきた。


「北条さん……?」


 彼の声は聞こえなかった。

 恭介は、崩れるように倒れた。



***



 翌朝。

 団地の一角が無残に崩落していた。地下の損傷が躯体へ波及したのだ。灰色の粉塵が空を漂う中、警察と報道陣の声が入り混じる。立入禁止テープを囲む住民が、口々に憶測を交わしていた。


「夜中すごい音したのよ!地震かと思ったわ」

「ガス管が爆発したんじゃねえの?」

「地下に古い納骨室があったらしいぜ」


 恭介は管理人から真相を聞いていた。住宅棟の建設時に人柱の儀式があったらしい。配電盤の御札は、その慰霊として歴代管理人が貼り重ねていたとか。だが信用に足る記録はなく、やがて札の存在も忘れられたという。


 噂の一つひとつが風に流れ出す。恭介は後ろから野次馬を見つめていた。


 (とんでもない大ごとになってる……)


 唾が飲み込めない。自分が壊したと露見すれば英雄、もしくは犯罪者扱いだ。どの道、平穏はない。素早く身を翻し、群衆から離れようとした。


「お手柄ですね!すごいです!」


 明るい呼びかけが背後から飛ぶ。振り返ると、綾子がいた。頬を紅潮させ、両手を胸の前で合わせている。


「え、あ、……誰から聞いたんですか?」

「管理人さんですよ。お陰で美里もおじいさんも目を覚ましました。本当にありがとうございます!」


「いえ……」と応じる声が掠れた。冷えた風が顔先を撫で、汗を乾かしてゆく。恭介は曖昧に笑い、軽く会釈した。


「では、これで失礼しますっ」


 逃げるように背を向けた。舗装のひびに靴底が沈み、ざらついた砂音が尾を引く。駐車場に辿り着く頃には、吐く息が白く途切れていた。

 レガシィB4のドアを閉め、エンジンを駆ける。微かな振動が掌から肘まで伝わる。ミラーに映る自分の顔は青かった。瞳の奥には、まだ金の火が燻っている。


 (私は……人間をやめかけているのではないか?)


 指先が震えた。限界を超えた力で怪異を粉砕した興奮。唇を切った時の甘い血の味が忘れられない。自分はどこまで、人ならざるものへ染まってしまうのだろう。どこまで快感に飛んでしまうのだろう?

 深呼吸をし、ダッシュボードに置いた手帳を開いた。報告書の冒頭に、さらさらと文字を走らせる。


 《原因:地下構造の崩落事故》


 そう記した途端、胸の内で「彼」が笑った。

 ――崩れたのは地面か、理性か。

 息を吐き、眼鏡を押し上げる。


 (……この結末で、いい)


 車のギアを入れる。何度もハンドルを握り直した。指先に己の感覚が戻る。温かい。だが、体内に潜む別の脈は消えなかった。


 (どうか、皆に平穏を……)


 目を伏せる。

 フロントガラスに金色の残光が瞬く。

 暖房の風が、車内に満ちた。


 恭介は愛車を発進させる。

 団地は、安らかな眠りに就いていた。

誤字報告などはお気軽にどうぞ。


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