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第1話「呪われた日記」

海難事故の唯一の生還者・北条恭介。

祟りを記す古い日記を開いた時、彼の日常は静かに軋み始める。

やがて内なる“声”が、現実に滲み出す。

 二〇二二年、十二月。島根半島沖。

 冬型の気圧配置が波濤を荒れ立てた。予報外の突発的な嵐。旅行者達のクルーズを高波が容赦なくあおる。

 潮が甲板に打ち付ける。大波が二人の男を海へ投げ出した。東北からの旅行客――倉持(くらもち)大輔(だいすけ)北条(ほうじょう)恭介(きょうすけ)だ。救命道具の投下も虚しく、怒涛が大輔を攫う。逞しい姿がどんどん遠ざかってゆく。


「恭介っ、恭介!」


 助けを求める声はあまりに悲痛だった。自分も浮き輪へ捕まるのに必死で、とても手など差し伸べられない。冬の海水温が肌を刺し、体力を無慈悲に奪う。


「なぜ俺を救わない!」


 恨みの叫びが胸を貫く。大輔が腕を掴みかけた。直後、知らない誰かが反論する。


 ――渡すものか。恭介は私の器だ。


 背後で低い唸り。双つの金の光が瞬いた。景色が早送りになる。荒んだ孤島。古い祠。映像が恭介の視界に殺到する。事故の悪夢は、決まって祠の光景で途切れていた。


 (……夢、か……)


 恭介は軽く瞼を擦る。デスクで、売上帳簿の上に突っ伏していた。

 どうやら転寝していたらしい。シャツに古紙の匂いが染みつき、セミロングの黒髪には寝ぐせがついていた。目の奥は、居眠りを経てもまだ重い。息をついて銀縁眼鏡をかけなおし、閉店作業を再開した。


 ここは宮城県仙台市の古書店『白夜堂(びゃくやどう)』。

 北条恭介は大学非常勤講師にして、店の店主である。大卒で大手書店に勤務した後、三十歳で退社。マーブルロードおおまちの裏に店舗を構える。恭介は大好きな古書と、通な客に囲まれて充実した日々を送る――はずだった。


 独立前最後の旅行で海難事故に遭った。境港から隠岐航路のクルーズが転覆。乗客乗員合わせて二百名が死亡。生存者は恭介ただ一人であった。


 事故からずっと、虚ろに過ごしていた。

 店では接客スマイル。大学では生徒に愛想笑い。心の底から笑った日など一度もない。

 なぜ、自分だけが生き残ったのか。そればかり考えて日々を過ごしていた。家族や友人に問いかけても「理由なんてない」と軽薄に慰めるばかり。恭介には理由が欲しかった。理屈に生きる自分にとって、理由がないのは耐え難かった。

 倉持大輔は行方不明扱い。だが、いずれ死亡へ転じるのはわかりきっていた。事故後の捜索で、当時の行方不明者が何人も遺体で発見されたのだから。


 命を絶つことも常々考えた。

 大輔の元へ逝きたい。そう考えて駅のホームを見つめた日は数知れなかった。だけどその一歩を踏み出せず、今日までズルズルと生きてきた。

 死ぬのは、怖い。

 苦しみが釣り合わない気がする。大輔や乗客の命が軽いのか、死が重すぎるのか、恭介にはわかりかねた。


 自殺願望の代わりに渦巻いたのは、不吉な衝動だった。

 事故以来、身体の奥に“何か”が潜んでいる。そいつは毎度、悪夢の終わりに所有を口にする。名前が分からないので勝手に「彼」と呼んでいた。祠の光景と共に現れるから、祟り神なのだろうか。

 「彼」が命じるのは死ではない。寧ろ逆だ。自分を生かして、何かをさせたがっている。

 が、恭介には知覚できなかった。きっと、ロクでもないことだ。例え「彼」が直接命じてきたとて、従うつもりはなかった。


 それでも日々の仕事はこなさねばならない。黙って帳簿記入のペンを進める。と、店のチャイムが来客を告げた。


「弟の遺品を、見てもらいたいのですけど」


 戸を開けたのは凛とした女性だった。歳の頃は三十歳前後。黒髪のボブカットにベージュのトレンチ。清潔感のある出で立ちだ。


「お名前を伺ってもよろしいですか?」


 店主として対応する。だが続く彼女の言葉で絶句した。


「倉持。倉持綾子(あやこ)です」


 大輔の姉が、自分の店に訪れた。

 何をしにきたんだ。

 私を責めにきたのか、罵りにきたのか。

 二年も経ったのに、なぜ。

 罪悪感が真新しく蘇り、鼓動が早まる。

 だが愛想笑いに慣れ過ぎた顔筋は、自動で微笑みを作っていた。


「詳しい話をお聞かせください」


 速やかに応接卓へ招く。彼女はコートを脱ぎ、ジャケットとスタンドカラーシャツの佇まいを晒した。


「弟の遺品を整理していたら、これが出てきたんです」


 綾子は鞄から一冊の本を取り出した。古い日記帳。紙面の痛み方から察するに、製本から百年は経過している。

 墨痕は滲み、紙は波打っている。素材は和紙らしく、ところどころに黄ばみが浮く。紙面は湿気を吸ってざらついていた。


「発見してから、変なことが続いてるんです。荷物を一緒に片づけてた伯父が、足を滑らせて骨折したんです。従姉は急に高熱を出して入院しました。偶然にしては出来すぎてて……」


 事情を聞きながらページを捲る。筆跡は一定せず、ぱっと見でも三種以上の特徴が混在する。最初の方は穏やかな農作や祭礼の記録だった。しかし途中から字が乱れ、墨の線が紙を裂く勢いで荒ぶる。後半部の数頁は血じみた赤茶色が染み、判読不能だった。文字の隙間からは、不吉な言葉だけが浮かび上がる。

 溺死。病死。失踪。

 更に日付が現代に近づくにつれ、誰かが後から筆を入れた痕跡が混じった。


「まるで……“予言”だ」


 思わず呟く。しかし沈痛な表情で、すぐに失言だと恥じた。


「弟の名前も記されているんです。だから私、怖くて……」


 綾子は顔を覆った。読み進めると本当に“倉持大輔”の名があった。応接卓を挟み、沈黙が落ちる。必死で謝罪と慰めの言葉を探した。だが脳裏に潮騒がざわめき、悪夢が蘇る。大輔の腕が、波間に沈んでゆく――。


「大丈夫です。ただの古記録ですよ。弟さんの事故と重なっただけです」


 自分でも驚くほど軽薄な嘘だった。


「本当に……?」


 彼女の瞳には、真実を知りたい願いと、否定してほしい恐怖が混在していた。恭介は小さく頷き、日記を閉じた。


「詳しく調べてみましょう」


 今度は慎重に言葉を選んだ。


「店内に古文献の索引があります。大学の図書館にも照らせば、同じ風習や儀式に行き当たるかもしれません」

「……お願いします。私一人では、どうしていいのか分からなくて」


 頭を垂れる綾子。恭介は茶を淹れに立った。

 外では木枯らしが吹く。書棚の影に、あるはずのない視線を感じた。

 ……この日記は、おそらく“何か”が憑いている。

 だが口にはしなかった。勝手な推測は綾子を更なる不安に陥れるだけだ。代わりに笑顔を作り、茶を差し出す。


「温かいうちにどうぞ」


 二人で淹れたてを啜りながら、やんわりと切り出した。


「今夜は冷え込むそうです。無理をせず、そろそろお休みになった方がいいですよ。もしお帰りが難しければ、近くに宿を手配します」


 綾子は一瞬驚いたが、やがてゆっくりと微笑んだ。


「何から何まで……ありがとうございます」


 彼女が退店すると、どっと身体の力が抜けた。

 ……責めにきた訳では、なかった。

 客として、友人の姉として相談に来た。

 ならば精一杯応じるのが、せめてもの償いではないのか?

 恭介は背筋を正す。古書店主ではなく、一人の人間として日記の調査を開始した。



***



 翌日。恭介は白夜堂を閉じ、大学の図書館に足を運ぶ。専門書の背表紙を指でなぞりながら、江戸から明治にかけての民俗誌を引き出した。


 黄ばんだ頁には「怨霊を筆に封じる」という記載が点在していた。村落で病死や水死が続いた際、災厄を日記や帳簿に書き写すことで霊を移し替えた。やがて帳面そのものが「封印の器」と化し、後世に伝わったという。記述は断片的だが、令和まで日付と人名を追記した例もあった。

 ……まさか三十二歳にもなって、妖怪日記を調べる羽目になるとは。

 思わず苦笑いが浮かんだ。

 それでもページを閉じられない自分が、いちばん奇妙である。


 更に地方史の文献を渉猟した。そして――日本海側の沿岸部で祟り神を祀る事実を見つけた。当該の村では、祟りを「記録に縛る」習俗が明治初期まで残っていた。骸骨じみた人間の挿絵が凄惨さを物語る。綾子の持ち込んだ帳面は、怨念の「器」だったのだ。


 書見台に突っ伏しながら、恭介は唇を結ぶ。本件は自分自身とも関係ある気がしてならない。誰もいない静寂の中、ページを繰る音が妙に大きく響いた。筆録の行間に潜むものが、今も息をしているかのようだ。


 白夜堂へ戻れば綾子が待っている。だが、何と伝えるべきか――。

 推理は整っても、寒気はますます強まっていた。


 夜。綾子は一昨日と同じ時間に来店した。蛍光灯が紙と埃で白く霞む。カウンター越し、彼女は膝上で指先を組み、おずおずと口を開いた。


「いかがです?進展……ありましたか?」

「中間報告でよろしければ」


 恭介は店主として、要点だけを述べる。和紙は嘉永末(かえいまつ)頃の製法らしく、繊維に古い(にかわ)の痕があった。墨の質は変色しており、後半にかけて色調が濃くなる。筆跡は少なくとも三人分ほど。末尾では筆圧が乱れ、書き手が追い詰められていた気配がある。


「江戸時代の日本海側に、祟りを筆で縫い留める習俗があった。日記は、その器ですね」

「弟が、村から持ち帰った……?」

「記事にはせず、裏資料として。あなたの家族に起きた事象と記載日は、偶然の符合とは言いがたい」


 綾子の喉が鳴った。自分の指先も落ち着かない。


「一つだけハッキリしているのは、この日記が危険だということです。明日外部機関と提携し、より高度な調査を――」


 説明を遮るように空気が冷えた。レジ横の卓上気温計がふっと数値を落とす。蛍光灯が激しく明滅し、施錠済みの小窓から“風”が吹いた。パァンという異音と共に陳列棚がガタガタと揺れ始める。


「きゃあっ、地震!?」


 綾子は怯えて机の下に隠れる。だが漂う腐臭が天災でないと告げていた。心臓の拍が一拍ごとに鈍く伸び、体内の血が“別の律動”で動き出す。

 頁が見えない指で捲れてゆく。店奥の棚がレジに向かって倒れ出した。空白の行へ紅が滲み、字を成す。


『二〇二四年 十二月十四日 北条恭介 圧死』


 視線が吸い寄せられる。背筋が硬直した。棚が唸りを上げる。木ねじがきしみ、列が、連鎖の角度でこちらへ傾いた。埃と熱臭が鼻腔を突く。商品を満載した総重量百キロ超の本棚が、質量の塊となって迫る。


 (殺される――)


 四肢から力が抜けた。死を覚悟した瞬間、声が割って入る。


 ――身体を貸せ。退けてやろう。


 夢の底で聞きなれた低音。思わず身を委ねた。意識がぷつりと途切れる。瞬き一つ。次に開いた恭介の瞳は、金色に煌めいていた。


「ナメるな!!雑魚風情が!」


 恭介の姿をしたものが嗤う。

 足裏が床に踏みしめ、両掌が棚の側板を噛む。

 本の重みごと圧を受け止め、筋肉が弾んだ。

 押す。跳ね返す。

 倒壊の連鎖が逆流し、木柱が折れ、鉄製の支柱が鳴った。

 棚列がまとめて斜めに砕る。

 木屑が散った。ちりりと空気が焼ける。

 「彼」は棚を壁へ叩き付け、反撃した。

 背後で綾子が叫んでいた。

 狂笑は、彼女の怯えすら糧にする。


「器を害するなら、例え怨霊とて殺すッ!」


 日記を片手で引き裂く。

 和紙は肉の手応えだ。墨の湿りが爪に絡む。

 断面からボッと黒煙が立ち、熱気が渦巻いた。

 火なき炎が紙片を包む。

 絶叫。

 人のものではない。

 しかし意味を持つ断末魔。

 書物は塵も残さず燃え尽きた。


「大丈夫ですか!?北条さん!」


 綾子の声色が鋭く届く。肩の力が途切れた。膝で身体を支え、荒れた呼吸を整える。恭介が目を覚ますと、店は崩れた棚が散乱していた。大地震でも来た後のような惨状である。

 なんだこれは。私がやったのか。

 右手の指先が焦げている。黒く煤け、皮膚がちりちりと縮れ、触れれば油の匂いがした。掌を開閉し、痛みの形を確かめる。

 やはり、やったのは私なのか。

 握っているのはまぎれもなく自分の手。なのに感触は“借り物”のよう。呆然としている内に綾子が駆け寄ってきた。


「さっき、あなた……」


 今度こそ罵られる。身構えたその時。


「すごかったですね!いざとなれば、弟みたく腹を括る人なんだ」


 興奮を帯びた称賛が降った。綾子の瞳には怯えより無垢な憧れがあった。砕けた棚や本の山が店中に散乱しているのに、である。


「え?……いや、やったのは……」


 喉の奥に重いものが詰まる。

 違う。さっきの暴走は自分ではない。己の内の“何か”が目覚め、窮地を救った。そうとしか考えられない。

 だがあまりにも嘘臭い話だ。凄まじい力が覚醒し、敵を消し飛ばした――なんて、まるで稚拙な妄想ノートの一節だ。彼女に話せば失笑するに決まってる。なんなら自分自身が一番信じていない。

 仕方がないので、笑って誤魔化した。


「困ったなぁ。調査を続行できませんよ」


 大袈裟にセミロングの髪を掻く。燃え落ちた日記の欠片は、どこにも見当たらない。腐臭や熱臭もごっそり消えている。棚の下や畳の隙間を探しても、灰の一粒すら残っていない。おそらく現世から完全に消滅したのだ。「彼」の力によって。


「代金を頂くどころか弁償しなければなりません。いくらお支払いすれば……」

「いえ、いいんです。不幸が止まってくれるのなら……」


 綾子はまっすぐに言い放つ。弟を亡くし、異変に遭いながらも前を向いていた。

 凛とした姿にしばし見惚れた。同時に、胸中に温かいものが芽生える。生き残ってしまった自分が、誰かを救えた。あまりに深い闇、その底がようやく見えた気がした。


 呼吸を整え終えると、机の端から一枚の紙が滑った。拾い上げた指先に触れたのは、怪異の炎を免れた唯一の断片。大輔直筆のメモだった。


『この日記の正体を突き止める。もしもの時は恭介に託す』


 墨の線は急き立っている。ところどころが痛々しく掠れる。だが確かに、親友の筆跡だった。

 胸が締まる。彼の遺志が、二年越しで目の前に現れた。嵐に呑まれ、消息を絶ったはずの人間の声が、今も側で残響している。


「大輔……君はまだ、どこかで……」


 祈りめいた言葉は、誰にも聞かれずに消える。

 店内は騒乱が嘘のように静まり返っていた。恭介は指先の焦げ跡を凝視し、疼きを押し殺す。白夜堂の崩壊。その静寂の向こう側で、更なる怪異が手招いている――気がした。


「……今回は本当にありがとうございました」


 綾子は散乱した本を気にしながらも、深々と頭を下げた。トレンチコートを着込み、背筋を正す。恭介は入口まで彼女を送った。ガラス戸を開いた瞬間、一気に夜気が流れ、淀んだ空気を清めた。


「また、お願いします……」


 微笑みは、温かかった。

 恭介は綾子の再訪を心から願った。

 まだ「生きていい」と思うには足りないから。


 声の余韻もやがて途切れ、外界は沈黙した。

 シャッターを閉め、恭介は一人店内を見渡す。惨状を前に脳を支配したのは「片づけに何日かかる?」という極めて現実的な問題だった。この規模じゃお手伝いさんが必要である。早速募集チラシを作らねば。


 十二月の宵は深い。だが、明け方へ向かいつつあった。

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拝読いたしました! 冒頭の嵐の描写からすでにWeb小説の平均値を明確に上回っているのがわかります。 冷えた潮風や怒涛の音がまざまざと浮かび、読者を一瞬で非日常へ連れ出します。 そこから静かな古書店…
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