第97話『咎人は月下にて裁かれ⑥』
家に帰ってきてすぐ、夫は深刻な顔で報告してきた。
「……すまん。久しぶりに発破の仕事を頼まれてな。結構な大仕事になるから、しばらく留守にしなきゃならねえ」
「まあ、それは嬉しいことですねぇ」
わたしがぱちんと手を叩いて喜ぶと、夫は驚愕したような表情になった。まるで鳩が豆鉄砲を喰らったような。
「どうなさいました?」
「いや……その……嬉しい……のか?」
「だって、大仕事を任されるくらいネッドさんが頼られているということでしょう? 妻として誇らしいです」
「そ、そうか。そういう意味か。俺がいなくなって嬉しいって意味じゃないんだな、うん」
夫は一転してほっとしたような顔になった。
わたしはくすくすと笑って返す。
「そんな酷いことを言う鬼嫁ではありませんよ。ちゃんと、安全第一で帰ってきてくださいね?」
「おう、安全第一」
「では夕飯にしましょう。実家で貰ってきたやつですけど」
そう言ってわたしはキッチンに向かい、竈で温めていた鍋の蓋を開く。
この家から徒歩五分の場所にある大衆食堂――わたしの実家の看板メニュー、肉団子の黒ソース煮だ。
結婚して実家を出た今でも、週に何度かは洗い場や配膳を手伝って、そのたびに現物支給の報酬として料理を分けてもらっている。
食器棚から二人分の皿を取り出しながら、夫がこちらに相談を投げてくる。
「なあリコ。俺が留守にしている間は実家の方に帰っておくのはどうだ? 一人だと何かと心細いだろ?」
「大丈夫ですよ、すぐ近くなんですから。それに、いざ何かあったらすぐ聖騎士さんたちに助けてもらいます」
わたしたちの住んでいる地区は聖都の中でも労働者向けの居住区で、他の地区に比べればほんの少しだけ治安がよくない印象はある。
だが、なんと我が家の目の前には聖騎士の常駐する詰所があるのだ。
通りを挟んで真向かい。今もカーテン越しに、詰所の明かりが透けて窺えるくらいである。
おかげで、日常生活の中で身の危険を感じることはほとんどない。
「まあ……そうだな。ここほど安全なとこもそうそうねえか」
「そうですよ。本当に心配性ですねえ」
夫が持ってきた皿に手早く肉団子を盛り付け、わたしたちは揃って食卓の席に着く。
すぐに夫はテーブル上のパン籠に手を伸ばしたが、わたしは「こほん」とわざとらしく咳払いをする。
「ネッドさん。まずは食前のお祈りですよ」
「すまん、つい」
「すぐ忘れちゃうんですから」
わたしたちは目を瞑り、手指を組んで今日の糧への感謝を捧げる。
庶民のわたしに神様というのは正直あまりピンとこないが、食べ物への感謝は日ごろから大事にしている。なんせ食堂の娘なのだから。
沈黙の祈りを数秒挟んでから、
「今回の仕事なんだけどな」
再びパンに手を伸ばしつつ、夫が話を切り出した。
「正直、過去一番で面倒な現場かもしれねえ。硬い岩盤のすぐ近くに、水分を含んだ軟弱な層があって……一歩間違えたら大事故だ」
「でも、そうならないように気を付けるのでしょう?」
「ああ。今日、打ち合わせしてきたよ。現場で危険だって判断したら中止にするってな」
「それなら安心です」
夫は土地開発の公社に勤める発破の技師である。
わたしには専門的なことはよく分からないが、かなり腕前がいいらしく、独身時代は一年中あちこちの現場に駆り出されていた。
「いい加減にそろそろ現場仕事も勘弁してもらいてえんだがな……」
「結婚してからはずいぶん減らしてもらったじゃありませんか。たまには大活躍しませんと罰が当たりますよ」
「まあ、そうかもしれんが……」
実際、夫はすごく厚遇されていると思う。
まだ若いのに結構なお給料をもらっているし、結婚してからは仕事も聖都での内勤中心にしてもらえた。
ただ、今の夫が仕事に乗り気でない理由はよく分かる。
「わたしのことなら心配無用です。安心して行ってきてください」
わたしは明るく笑って――大きく膨らんだお腹を軽く撫でてみせた。
かかりつけの医者の見立てでは、あと一か月と少しで生まれる予定だ。
とはいえ、予定はあくまで予定。不測の事態が起きる可能性だってゼロではない。夫もそこが気がかりなのだろう。
――しかし、わたしには無根拠ながら不思議な自信があった。
「最近とっても体調がいいんです。なんだか羽が生えたみたいに身体が軽くって。だから、絶対に大丈夫です」
――――――――――……
「じゃあ、行ってくる」
「はい。どうかお気をつけて、ネッドさん」
仕事に赴くべく、ネッドは朝早くに家を出た。
雑踏に紛れ、歩を向けるのは聖都を流れるリール運河だ。
海からの大型船も通行可能な大規模運河で、聖都の水上交通を一手に担っている。
多くの汽船や帆船が行き交い、荷揚げの男衆たちが威勢よく仕事に励んでいる。荷下ろしした品をその場で売り捌く露店市の呼び込みもあちこちに響く。
喧噪の中を抜け、ネッドが辿り着いたのは寂れた船の格納場だ。
錆び付いた扉の前で立ち止まり、ネッドは背広のポケットから一巻きの包帯を取り出した。
親指で弾いて宙に放ると、包帯はまるで生きた蛇のようにうねり、たちまちネッドの顔を覆い隠す。
「……悪い。待たせたな」
扉を開く。
気配で分かる。他の連中はとっくに中にいる。
「何。私たちもたった今着いたところさ」
強者特有の余裕とともに、静かな存在感を放つ男――レギオム。
そしてもう一人。
「教導官さん。おはようございます」
朗らかな笑顔でお辞儀してくる少女――メリル・クライン。
力のセーブがずいぶん上手いらしく、気配だけでいえば一般人と区別が付かない。
しかし、その背後に控えているのは、
「貴様らは不本意かもしれんが、我もこの娘に同行させてもらうぞ」
巨大な牙を覗かせる、異形の白い狼だ。
噂に聞く、メリル・クラインが隷属させたという悪魔だろう。
一目でかなり強力な悪魔と察せられる。ネッドなら勝てぬ相手ではないが、状況次第ではそれなりに苦戦を強いられるかもしれない。
これだけの悪魔を容易に従えている時点で、この少女の実力の程がよく窺えた。
「私は狼さんと一緒に、全力でバックアップに務めさせていただきますね」
執筆難航して更新遅くなってしまいました……申し訳ありません




