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二時限目の英語の授業を受けている最中に右ポケットに入れたスマートフォンがブルっと振動した。
いつもなら間違いなくスルーして、授業が終わった後に確認するだろう。しかし、そうはいかない事情があった。それは先週の土曜日に受けた恋愛診断に起因している。
母や修二が診断を受けた後、2、3日くらい経ってから結果の通知が届いていたのを覚えているのだ。ところが今日は既に水曜日、つまりもう弘人の結果がいつ送られてきてもおかしくない時期なのだ。
弘人の席は教室の一番後ろ、中央の位置にある。少しぐらい不自然な動作をしていても誰にも気づかれないだろう。そう考えてポケットから恐る恐るスマートフォンを引き抜き、机の下で画面をつけてホーム画面の通知情報を盗み見た。
(やっときたか!)
そこに表示された通知は恋AIアプリからのもので「お知らせが2件届きました」とあった。期待と不安で心臓がの音がヤケに大きく聞こえる。通知の一つは「診断結果のご連絡」、そしてもう一つは「お見合い日時指定」だ。つまり、弘人の1回目のお見合いが今この瞬間決まったということだ。
目線を上に上げて教卓の方を見る。英語の授業は弘人のクラスの担任である新田目美玲先生だ。今はこちらに背を向け、黒板に例文を書いているところだった。ピンと伸びた背筋、そして文字を書くたび長く艶のある黒髪が優雅に揺れる。その後ろ姿ですら美しい。
美人で男子生徒から非常に人気のある一方で指導が厳しい先生であることでも有名だ。涼やかな瞳で睨まれたいという一部の困った性癖を持った連中以外は、彼女の前では大人しくするのが吉と学んでいる。
弘人だって同じだ。目をつけられたら面倒な先生の前ではいい子ぶっているくらいが丁度良いとすら考えている。だが、今は高まった好奇心が正常な判断を阻害してしまっているのだ。時計を見ると時刻は10時40分、あと10分待てば授業は終わりだ。少し待てば落ち着いて見られる。それは分かっている。しかし、この好奇心は抑えられそうもない。
弘人は細心の注意を払いつつ、机の下の携帯へ目線を移し、通知をタップしてアプリを立ち上げた。すると3つのメインメニューが表示された。一つは「自己分析」、これは診断結果から自分の恋愛観やタイプなどの情報がAIによって分析された情報が記載されるという。二つ目は「恋愛サプリ」、このメニューは恋愛の相談や悩みごとを入力するとAIがアドバイスを返してくれるというものだ。そして三つ目、これこそが弘人がすぐにでも確認したくなった元凶だ。それは「お見合い」、タップすると1組目と表示された。それをさらにタップすると「お見合い日時」「コンタクト」「相手情報」というメニューが表示された。ただし、「コンタクト」と「相手情報」は現在は選択できないようでグレーになっている。お見合いが終わるまでこのメニューは使えないらしい。つまり、会ってみるまで相手がどんな人物なのかはわからないのだ。
知らないうちにかいていた手汗をズボンで拭ってから「お見合い日時」をタップすると「お見合いが可能な日程を入れてください」と表示された。そして出てきたカレンダーに可能な日、時間を入力していく。これは、自分の予定と相手の予定の入力が完成するとお見合いの日程が設定されるシステムになっているのだ。
入力が終わり、深呼吸をしてから確定ボタンを押す。「受付が完了しました」と画面に表示される。すると妙な達成感が湧いてきた。
「よしっ」
弘人は思わず呟いてしまった。誰に言うでもなく、自分に向けて放った特に意味のない言葉。本来この言葉に対して返すものはいないはずだった。
「何がよしっなのかしら? 相崎君?」
その声はとても美しい響きを持って、そしてすぐ隣という近い距離から放たれた。まるで弘人の心臓に冷たいナイフを突き刺すかのように。
「え?」
間抜けにも弘人の口から出たのはそれだけだった。それでも強張った体を無理矢理動かして顔を左に向けると、こちらを見下ろす雪女の姿があった。それ以上は無理だった。脳が動作を停止し、それに従って体も停止してしまったのだ。
(いい匂いがする)
再起動した頭は現実逃避を始めてしまった。先生から香る柑橘系の匂いに脳は麻痺している。
「取り敢えずこれは没収ね」
言うが早いかいつの間にか手にあったはずの弘人のスマホは先生の手の内にあった。
「あ…」
「放課後、職員室に取りに来なさい」
その言葉とともに授業終了のチャイムが鳴った。




