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晴れて候  作者: 桃 春花
9/17

 《二》




 大きな声を出して駆け寄ってきたのは、若い女だった。

 海棠と同じか少し年上くらいだろう。藍縞の地味な着物と、かんざしに巻き付けてまとめただけの髪。粋で伝法な、ひな菊とはまた違った個性を見せるいでたちである。


「やっぱり旦那だ。まあ、なんだか目立つのが歩いてると思ったらさ」


 黒塗りの下駄をカラカラ鳴らして、女はうれしそうにやってきた。寒いのに足袋をはかないのは、素足の美しさを見せる華南津かなつ女の「粋」だ。

 ちなみにひな菊の場合は、跳んだり走ったり屋根に登ったりしやすいようにである。


「お蝶さん」


 海棠は彼女に向かって笑顔を見せた。


「お久しぶり。相変わらずいい男だねえ。なんだい、ここんとこすっかりお見限りだったじゃないか。なにやってたのさ」


 お蝶なる女は親しげに海棠のそばに立つ。色黒で美人という顔立ちでもなかったが、大きな目には愛嬌があった。なかなか色気もある。

 お蝶はさらに話しかけようとして、そこでようやくひな菊の存在に気づいた。あら、と大きな目をさらに大きくして、二人を交互に見た。


「お連れがいたんだね。こりゃ、お邪魔しちまったかしらね」

「いえ……」


 少し困ったように海棠はあいまいな答えを返す。ははん、とひな菊は勘づいた。


「海棠の(とっても親しい)お友達ね?」

「ええ、まあ」

「こっちは勘違いじゃないわよね?」

「いや、あのね……」

「あら、やだよ」


 お蝶はけらけらとあけすけに笑った。


「心配しなさんな。あたしゃただの知り合いさ。そりゃ、このとおりの男ぶりだけどねえ。あたしの手に負えるお人じゃあないからね」


 どうかしら? ひな菊はさぐる目で海棠を窺い見る。海棠は上を仰いで息をついた。


「すみません、お蝶さん。見てのとおりなんで今日はちょっと……」

「そりゃないよ旦那。こんな近くまで来て顔も出さずに素通りかい? みんなが聞いたら怒るよ。ちょっとだけでも寄ってっとくれよ」

「今度寄りますから」

「あら、いいじゃない」


 あくまで断ろうとする海棠をさえぎって、ひな菊は口をはさんだ。


「別に急ぐ用があるわけでなし。よければあたしも一緒にお邪魔したいわ。かまわないかしら?」

「そりゃもちろん。旦那のお連れならみんなも歓迎するさ」

「まあ、うれしい。海棠のお友達に会えるなんて楽しみね」

「あのね、姫――ひな菊どの」

「もちろん海棠も、かまわないわよね?」


 にっこり笑いながら、声に力を込めて反論を封じる。海棠の困った顔が面白かった。

 いつもと立場が逆だ。なんと小気味よいことか。


「名乗るのが遅れたわね。あたしはひな菊というの。よろしくね、お蝶さん」

「どうも……えらく上品な名前だね。もしかしてお武家の娘さんかい?」

「あら、そんなふうに見えるかしら?」

「いや、見えないけど」


 そうは言いながらもお蝶はなにか勘づいたようで、意味ありげな視線をちらと海棠に流す。しかしそれ以上は追求せず、店に案内すると言って歩き出した。まだ渋る海棠を引っ張りひな菊はついていった。

 ほどなくたどり着いたのは、「わかば屋」と看板の出た居酒屋だった。戸は開いているがまだ昼間のことなので、のれんはかかっていない。


「皆って、どんな『みんな』なのかしらねえ。この海棠のお友達でしょう。じつに興味あるわ」


 わくわくするひな菊に、お蝶が苦笑した。


「お嬢さんにゃ、ちょいと刺激が強いかもね。こわもてだけど気のいい連中だから気にしないどくれよ」


 先に立って店に入る。その後ろからひな菊は店内を覗き込んだ。


「お(けえ)りなせえ、お蝶さん――おぉっ?」


 若い男がまっさきに声をかけてきて、ひな菊の姿に目を留めた。かと思ったら、あっという間にすっ飛んできた。


「こりゃまた可愛い嬢ちゃんじゃねえかっ。初めて見る顔だね、どこの()だい? 名は? 年は? いやーべっぴんだねえ、可愛いねえっ」

「は……?」


 のっけからまくしたてられて、ひな菊は面食らった。間近で見ると、そばかすのある顔だ。まだ十代ではなかろうか。お蝶が言ったようなこわもてではなく、普通の若者だった。


「恋人はいるのかい。よかったらおいらとつきあわねえ? こう見えてもおいら、あっちは上手いんだぜ」

「あっち?」


 ――どっち?

 熱烈に手を握り、さらに男は迫ってくる。反射的にひな菊はのけぞった。


「ちょっと……」

「あ、もしかして初めてなのかい? だーいじょうぶ、おいら優しいからさ。うんといい夢見せてやる……」


 しゃべり続けながら近付いてくる男の顔を、ひな菊の背後から伸びた手が押しとどめた。そのまま海棠は男を突き飛ばす。すてんとひっくり返り、かと思うとまた元気にはね起きた。まるで起き上がり小法師(こぼし)だ。


「ってぇなっ、誰でい!」

「すみませんね、僕の連れですので」


 ひな菊を追い越して海棠が前に出てくる。あっと男が声を上げた。


「海棠の旦那!」

「手を出したら殺しますよ」


 海棠はうっすらと微笑んで男を見下ろす。上機嫌だった顔を一気に青くして、尻もちをついたまま男は後ずさった。


「そそそそんなっ、旦那のお連れに手を出すなんてっ。こっ、こりゃ失礼しやした。知らなかったもんで、へえ」


 愛想笑いをしながらへこへこ頭を下げ、次にお蝶の方を向いて抗議する。


「なんで黙ってんだよっ。先に教えてくれよっ」

「ばか」


 お蝶はにべもない。


「教える暇もなく飛びついたんだろ。っとに、女と見ると見境がないんだから。ごめんよ、お嬢さん。こいつ三平(さんぺい)っていうのさ。見てのとおりのアホだけど、根は悪くないから許してやっとくれ」

「はあ」


 許すも許さないも、すべてがあっと言う間の出来事だったので、ひな菊としては反応する暇もない。

 それよりも今なにか、海棠がさらりと物騒なことを口にしなかったか?


「よう、海棠じゃねえか。ずいぶん久しぶりだな」

「なんだてめえ、ちぃとも(つら)を見せねえから、とうとうどっかでくたばったかと思ったぜ」


 店の中にはあと二人男がいて、口々に声をかけてきた。一人は浪人風で髪は後ろで束ねただけ、左頬に大きな傷跡がある。もう一人は禿頭で、顔の下半分が(こわ)いひげに覆われていた。

 どちらも三十歳から四十歳といったところか。大柄でがっしりとたくましい。

 なるほど、こわもてというのはこの連中のことだろう。気の弱い者なら回れ右して逃げ出しそうな迫力だ。こういう「お友達」がいる海棠とは、本当にどういう男なのだろう。れっきとした旗本の子息のくせに。


 海棠が彼らに返事をしているかたわらで、ひな菊は店内を見回した。中にいる人間はともかく、店じたいは普通の構えだ。十四畳くらいの広めの土間に長床几(ながしょうぎ)がいくつか置かれている。天井に近い壁には神棚、奥に厨房。さらに奥に階段が見えて、二階が店主の自宅になっているのだろう。

 こんなものかと検分するひな菊を見て、面白そうに頬傷の男が言った。


「ずいぶん毛色の違ったのを連れてるじゃねえか。素人や小娘(こども)には手を出さねえ主義だったんじゃねえのかよ」

「本命のお姫様なんですよ。粗相のないようにお願いしますね」

「は、それはそれは」


 男たちはどっと笑った。海棠の言葉がじつは冗談でもなんでもなく、文字通りのお姫様だとは思いもよらないことだろう。


「適当に座ってとくれ。なにか甘いものでも持ってくるからね」


 お蝶が言って厨房へ向かった。


「僕はけっこうですよ」

「わかってるよ。旦那に甘いものは天敵だからね」


 くすくす笑いながら答える彼女は、本当に親しげだ。ひな菊の知らない海棠をたくさん知っているのだろう。

 三平も他の二人も、身内のように海棠とうちとけて話していた。海棠もいつもよりずっと自然に楽しそうだ。あの嘘くさい、とってつけたような笑顔ではない。どれくらい長い付き合いなのかは知らないが、少なくともひな菊を含む城の誰よりも、彼らが海棠に近しいのはたしかだった。


「おい海棠、ここで会ったが百年目だ。こないだの勝負はまだ決着(ケリ)がついてねえからな。今度こそ、きっちり終わらせようや」

「申しわけありませんが、今日は多忙でしてね。謹んで辞退いたしますよ」

「てやんでぇ、誰が逃がすかよ。おう三平、ひとっ走りして他の連中も呼んでこい。このくそったれをみんなでフクロだ」

「三平くん、僕のうらみを買おうなんて命知らずな真似はしませんよね?」

「勘弁してくれよう。どっちに従ってもおいらの命がねえよう」


 こんな乱暴なやりとりが楽しそうな笑顔で交わされる。

 彼らの中に入っていくことができず、ひな菊は一人で離れた長床几に腰を下ろした。

 まだ営業時間でないからか、ずいぶん散らかっている。長床几の上にばらまかれた小さな絵札を一枚、拾い上げた。


「おう、嬢ちゃんも花札やるかい?」


 ひな菊を仲間外れにしては悪いと思ったのか、禿頭の男が声をかけてくれた。


「花札っていうの、これ。きれいね。かるたとは違うのね」


 名前のとおり花の絵が描かれている。かるたのような文字はない。


「花札は初めてかい」

「ええ。どんなふうに使うの」

「お、よしよし。教えてやるよ」

「やめてください」


 いそいそと寄ってくる男を、海棠が制した。


「なんだよ、心配すんな。お前の連れからむしったりしねえよ」

「品のない遊びを教えないでほしいんです」

「けっ、気取ってんじゃねえよ。この俺から死ぬほど勝ちやがったくせに」

「僕はともかく、その人は……」


 海棠がうるさいので、ひな菊はとっととその場を離れた。もう一人の、頬傷の男の方へ行ってみる。意外と陽気なまなざしで迎えられた。

 ひな菊は、彼のそばにある酒瓶に目を留めた。


「昼間から(ささ)を飲んでるの」

「このくらいは茶のかわりだ。酔うほど呑みゃしねえよ。あんたもやるかい」


 さし出されたのは、猪口(ちょこ)などという可愛いしろものではなかった。どう見ても湯呑ゆのみだ。


「正月の屠蘇(とそ)酒くらいしか飲んだことないわ」

「試してみな、美味いぞ。酒は愁いの玉箒(たまばはき)ってな」


 なんとなく受け取ってしまった湯呑になみなみと酒が注がれる。お茶のように両手で持って口をつけようとしたら、また海棠が来て横から取り上げた。


「いい加減にしてください」


 頬傷の男をにらみつける。らしくもなく苛立っているようだ。

 男の方はそんな彼のようすを面白がって揶揄した。


「ずいぶん神経質になるじゃねえか。まさか本気で本命だってのか」


 海棠は答えず、取り上げた酒を一気に飲み干した。


「……ああ、うっかり美味しい」

「やけにしみじみしてるな」

「このところ、ちょっと思うように飲めなかったもので」


 湯呑みを置いてふとかたわらを見れば、ひな菊の姿がない。すっかり調子に乗ったひな菊は、今度は放り出された本を見つけていた。


「絵草子?」

「あ、それは」


 三平のものらしい。適当に開くと、いきなりからみ合う男女の絵が現れた。


「……春亭(しゅんてい)艶々(えんえん)の新作で」


 てへへ、と三平は照れ笑いをした。


「いやぁ、この大胆な構図と臨場感あふれる表情がもう、たまんなくてっ」

「……つまり春画ね」


 他の場所を開いてみれば、ここでもやはり肌もあらわな男女が激しくとっくみ合っている。


「こういうの、海棠も読むの」

「そりゃあ――けど旦那の場合は生の女とヤる方が多……」


 後ろから無言で海棠が殴り倒したので、それ以上の下品な言葉がひな菊の耳に入ることはなかった。

 もっともひな菊は手元の本に気を取られていたので、ろくに聞いてもいなかった。

 たしかに写実的で臨場感のある絵だ。なるほど、男と女はこうして睦み合うのか。なんだかしんどそうな体勢だ。


「いつまで見てるんです。捨てなさい、そんなもの!」


 苛々と海棠が叱りつける。ひな菊はゆっくりとふり返った。

 にたぁり。あやかしのごとき顔で、眉間にしわを寄せた守役を見上げる。


「ふうううぅん。海棠って、こういうところで遊んでたんだ」

「…………」

「でもって、こういうのを読んでたんだ。へえええぇ」


 うふふ、と笑う。海棠のいまいましげな顔がじつに痛快だった。

 やはり来てよかった。大収穫だ。


「いやあねえ、澄ました顔して上品ぶってたくせに、じつはとんだ不良だったわけね。人には偉そうに説教しときながら、自分の方がよっぽど乱れてるじゃない。あら、それともこんなの全然普通で、どうってことないのかしら。だったらあたしだって服装やなにかでいちいち叱られる筋合いないわよねえ」


 ほほほほほ、と高笑い。ああ、気分がいい。


「来てよかったわ。あなたの本当の姿を知ることができて、うれしいわ。これからは仲良くできそうね。もちろん、仲良くしてくれるわよね? もう人を猿呼ばわりしないわよね」


 勝ち誇ってひな菊は笑い続ける。とうとう海棠の弱みを押さえたと有頂天になっていた。

 だから気づいていなかった。海棠の目が、だんだん冷やかになっていったことに。


「……仲良く? 今さらなにを」


 ささやくように海棠が答えた。なにかが違う。ひやりとしたものを感じて、ひな菊は笑いをおさめた。

 あらためて海棠の顔を見ると、彼は笑っていた。口元だけの酷薄な笑みだ。目は少しも笑っていない。

 ――なにか、しくじった?

 ひな菊の胸に動揺が走った。

 と、


「あっ」


 足払いをくらって、ひな菊は長床几の上に背中から倒れ込んだ。

 身についた技が無意識に出てどうにか受け身は取ったが、長床几の角に足をぶつけるし、手にした本も取り落としてしまった。


「つ……っ」


 痛みに顔をしかめながら身を起こそうとすれば、ぐいと長床几に押しつけられる。海棠が馬乗りになってひな菊を押さえ込んできた。


「ちょっ……なにするのよ、お放しこの無礼者!」

「仲良くするんでしょう?」


 あらがうひな菊の腕をつかまえて海棠は抵抗を封じ込める。細い両手首をたやすく片手でつかみ、痛いほどに強くねじ伏せた。


「僕の方はいつでもその気でしたよ。あなたが受け入れてくれなかったんじゃないですか。さんざん誘っておきながら、こちらが近寄ろうとすればつれなく突き放す。ひどかったですよねえ。生殺しですよ」

「誘う……? なんの話よ!」


 屈辱に顔を怒らせ、ひな菊は身をよじる。おかまいなしにのしかかってくる海棠の息づかいが間近に感じられた。ひな菊に唇を寄せながら彼はささやく。


「こんな、内腿までさらした格好で誘っていないとでも? 目の前で着物を脱いでくださったこともありましたよね。なまめかしい姿を見せつけられて、男がなにも感じないとでも?」


 唇に吐息がかかる。ほとんどふれんばかりだ。ひな菊は横を向いた。そうすれば今度は首筋をくすぐるように吐息がなでていく。


「まさか、まったく自覚していなかったなんてことはありませんよね。これまで何度も、警告はしてきたつもりですよ。あなたもなにかしら感じていたようなのに態度をあらためようとはしなかった。つまり、こうなることを期待していたんでしょう?」

「誰が……っ」


 たちの悪いいやがらせだ。またいつものようにからかっているのだ。

 そう思いたいのに、どうしようもなく身体が震えてしまう。密着してくる男の身体が気持ち悪くて、怖い。

 一体、なにが起こっているのか――懸命に顔をそむけながら、ひな菊は混乱をおさめられずにいた。


「ちょいと、旦那……」


 厨房から出てきたお蝶が見かねて止めようとする。それを頬傷の男が無言で制した。

 禿頭の男はにやにや笑いながら眺め、三平も驚きながらも好奇心に目を輝かせている。

 ――さらし者にされている。

 あまりの事態に吐き気すらこみ上げる。


「屋敷の奥で大事に育てられた箱入り娘というならともかく、あなたは町にもよく出入りしていたんでしょう。なら、わかってますよね。あの本のように、男はこうして女を抱きたいものなんですよ」

「……放しなさい」

「自分が男の目にどう映るか、少しも考えなかったんですか。いつまでも子供のつもりで、男女のことなど関係のない話だと思っていたんですか。中身はともかく、今のあなたを見て童子(わらし)だと思う者はいませんよ。もう、女だ」


 ひやりとしたものが、脚にふれた。

 海棠の指だ。ゆっくりと、ひざ裏から太ももへとなで上げてくる。はじめは冷たく感じたのが、次第にじわりと生暖かくなってくる。ひな菊の全身にぞっと鳥肌が立った。


「うひゃあ……旦那ってば色っぺえ。いよっ、にくいね、この女殺しっ」

「おいおい、あんまり見せつけんなよ。昼間っからその気になっちまわぁ」


 周りから下品な野次が飛んでくる。

 瞬間、ひな菊の中で恐怖と怒りが入れ代わった。

 組み敷かれなぶられる屈辱と、それを笑って眺める者たちへの怒り。なにより、自分を好きなように扱い、許しもなくふれてくる男への怒り。

 青ざめていた顔に朱がさしてくる。白い歯が唇を噛んだ。

 肌にふれる指先は、やがてももの内側へ忍び込んでくる。

 吐き気もめまいも、今はすべてが怒りゆえだ。

 みるみるふくれ上がった憤りは、とどまることなく一気に爆発した。


「……来やれ」


 詰めていた息とともに言葉を吐き出す。


「――入道(にゅうどう)!」


 (むち)のような声で、ひな菊は叫んだ。

 次の瞬間、どぉんと大きな音がして建物全体が揺れた。

 

「わっ」

「なんだ、地震か?」


 座っていた男たちが驚いて腰を浮かせる。揺れが続くのかとようすをうかがう中、ふと天井を見上げた三平が甲高い悲鳴を上げた。


「ひぃ――っ」

「なんだ?」

「なに妙な声出してやがる」


 天井を見上げたまま、へたりと三平は腰を抜かした。


「かっ……かっ、かっ、かか……」

「か?」


 震える手で指さす方を追って、他の者も上を見る。そして全員がそろって絶句した。


「かかか……顔……」


 天井に、巨大な顔が現れていた。


 いかつくおそろしげな男の顔だ。天井がそのまま形を変えて目鼻を作り、高い頬骨にも大きな鼻にも木目が浮いている。太く荒い眉毛まで木のままだ。そんな顔が、天井一面を覆いつくして現れていた。

 飛び出すほどに大きい目玉が、ぎょろりと下の人間たちを見回した。


「ばっ……化け物っ」


 禿頭の男が懐から匕首(あいくち)を抜き放った。と、天井の顔がぐぐっと唇をとがらせた。

 ぶううう――

 ものすごい強さで息を吹きつける。

 いや、息などというものではなかった。突風と言ってもまだ足りない。風の(つち)が彼らをなぎ倒し、壁や床に叩きつけた。

 これにはさすがに海棠も驚いて、思わず身を起こしていた。ひな菊を押さえる腕から力が抜けた、その瞬間、はっとなって飛びずさる。強烈な蹴りが髪の先をかすめていった。

 ゆらりと、ひな菊が身を起こす。

 乱れた黒髪の間から、怒りに燃える目が海棠をにらみつけていた。


「…………」


 気押されて、海棠はさらに一歩退く。たやすくあしらえるはずの年下の少女相手に、次の動きがとれなかった。

 ひな菊は無言で立ち上がる。怒鳴りもしない。泣きもしない。ただ静かに、そして激しく、炎のような目でにらんでくる。

 ふと、その視線が足元へ移った。抜き身の匕首が、すぐそばに転がっていた。

 彼女が考えたことを、おそらく海棠は正しく悟ったのだと思う。だがひな菊は実行しなかった。匕首から目を離し、ふたたび海棠をにらみつける。

 そのままゆっくりと後退して、ひな菊は壁際まで動いた。なにもない板壁に手をついて、また鋭い命令を発する。


「来やれ、ハザマ!」


 呼びかけに応じて、背後の壁から青白い腕が生えてきた。


「ひいぃー」


 また三平の悲鳴が上がった。人の腕にそっくりな、けれど人よりずっと大きくて長いものが二の腕あたりまで現れる。そしてまるで人が襟をくつろげるように、両腕の中心あたりの壁に手をかけた。


 するりと、壁に隙間が開いていく。


 戸でもなんでもないのに、板のあいだに空間が生まれ、広がっていく。その向こうにあるものは見えない。暗いもやのような、よくわからないものがただよっていた。

 言葉もなく立ち尽くす海棠を最後までにらんでいたひな菊は、やがてふいと背を向け、奇怪な空間へ踏み込んでいった。彼女が完全に入ると同時に隙間は閉ざされる。奇怪な腕が壁の中へ吸い込まれ消えていった。


 平常はすぐに戻った。気づけば天井の顔も消えている。腰を抜かした三平と、身構える男たち、驚きにかたまっているお蝶――そして、ひな菊が消えた壁を茫然と見つめる海棠が、沈黙の中に残されていた。

 ひっくり返った長床几と散乱した小物が、今のできごとが夢ではないと主張している。


「今のは……一体……」


 ようやくわれを取り戻した皆の視線が、自然と海棠へ集まった。

 海棠は答えない。ふり向きもしない。

 日頃の冷静さを失った顔が、まだ消えた姿を追って一点を見据えていた。彼はつばを飲み込み、あえぐように呼吸した。


妖姫(あやかしひめ)……」


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