其の肆 巫山の夢
夜半、ふとなにかの気配を感じて大樹公は目を覚ました。
自分の耳鳴りをうるさく感じるほど、静かな夜だ。
彼女がいるのは大奥の御小座敷で、男の大樹公ならば御台所か側室が同衾しているところだろう。むろん、成慶公にとってはまったくただの寝所にすぎない。次の間に不寝番が控えることになっているが、成慶公はこの者にも枕を持参させ、用のない時は寝ているよう言いつけてあった。
御小座敷の中に彼女以外の姿はなく、次の間で起き出している気配もない。
夢でも見たのかと思い、ふたたび目を閉じようとした時、彼女はそれに気づいた。
閉じられた障子の向こう、縁側でなにかが動いている。
雨戸の隙間を抜けてくるかすかな明かりだけでは、その正体まではわからなかった。一抱えもありそうな影が、天井よりも少し低いくらいの位置で行ったり来たりしている。
さてはこれが近頃大奥をさわがせている怪異の主かとすぐさま気づき、大樹公はそろりと夜具から抜け出した。
枕元の刀掛から刀を取り上げ、足音をしのばせて障子に近づく。影が逃げていないことをたしかめて、そっと彼女は障子を開けた。
驚いたように、影が天井ぎわまで逃げた。
暗くてよく見えない。生首だと女たちがさわいでいたが、本当にそうなのだろうか。
刀の柄に手をかけながら、大樹公は廊下に踏み出した。
その時、ふわりと青白い光が辺りを照らした。闇に沈んでいた屋内のたたずまいが、たちまちはっきり見えるようになる。
明かりの中、大樹公は自分が追うものの姿をしかとたしかめた。
それはおびえたように、くるりと向きを変えて飛び去っていく。長い髪をなびかせ、やがて明かりの届かないところへ消えていくまで、大樹公はじっと見送っていた。
「……見た?」
背後からひそかな声がかかる。大樹公は息をつき、柄から手を離してふり返った。
「ひな菊、かような刻限まで起きているでない」
「あの、そこが問題ですかお母さま」
いつからひそんでいたのか、一人娘が近づいてくる。ひな菊の周りには青白い光の玉がいくつも浮かんでいて、これが辺りを照らしているのだった。
鬼火を灯代わりに使うとは、なるほど妖姫と呼ばれるはずだ。
ひな菊は母親に寄り添って、ひそひそとささやいた。
「母上こそそんな刀持ち出して。それ形式的に置いてあるだけのやつでしょ。使えるの?」
「手入れはきちんとされているぞ」
「いや、そうじゃなく」
「ばかにするでない。刃の方を当てればよいのであろう。そのくらい知っておるわ」
「まあ、うん、そうね……間違って自分を斬らないようにね」
ひな菊は力なく笑い、影が逃げ去った闇へと目を移した。
「そちも、あれを見たのじゃな」
「うん……ちょっと、びっくりしたね」
「うむ。まさか本当に生首とはのう」
母娘はなんとも言えない顔で息をつく。明かりの中に姿を暴き出されたのは、まぎれもなく女の頭部だった。
うわさに聞くようなおそろしげな形相ではなかったが、ふたりを驚かせるには十分な姿だった。
「なにゆえ、あのような……」
「さあ……いちおう、話に聞いたことはあったけど」
さすがにひな菊も困惑して首をかしげるばかりだ。
「どうしたものかのう」
「あれがなにかすることはないと思うけどね」
「しかし放っておくわけにはいくまい。とはいえ、このような問題にはどう対処すべきか悩むの。幕閣や大名どもを相手にするのとはわけが違う」
そりゃあそうだ。
ひな菊は苦笑した。
「腹芸は母上におまかせするとして、こういうことはあたしの専門でしょ。まあ、ちょっと調べてみるわよ」
請け合うと、母はうなずいた。
「私にできることはあるか」
「今のところは知らん顔しててちょうだい。あまりさわがないよう、皆に釘を刺してくれるといいかも」
「うむ」
ひとまず確認すべきことはすんだので、ひな菊は踵を返した。
「それじゃ、おやすみ。風邪ひくから早く蒲団に戻ってね」
「待て、ひな菊。城の暮らしはどうじゃ。まだ居心地が悪いか」
「…………」
足を止めてひな菊はふり返る。母親の顔で大樹公は娘を見つめていた。
「そちを迎えるまでに十五年もかかってしもうたが、いまだ私の足元は定まらぬ。不甲斐のない母ですまぬな」
しんみりと言う。ひな菊は微笑んだ。
女の身、しかも二十歳の若さで即位した母が、名実ともに大樹公としての実権を手に入れるのは並大抵の苦労ではなかったろう。今でこそ妖怪などと言われているが、彼女とて始めから海千山千の大狸たちと渡り合えるつわものではなかったのだ。
ひな菊は知っている。里子に出せと命じたのは先代でも、即位後も山吹家に止め置かれたのは、ひな菊自身のためだ。
母にもひな菊にも抵抗する力のないうちに城に引き取られていたら、さっさと暗殺されるか嫁に出されていただろう。
「大丈夫、それなりにやってるわよ」
里子に出しても娘のことを忘れず、どんなに忙しくても時間を作り、こっそり会いにきてくれた母をうらんだことなどない。
「周りの者とも仲良くするのじゃぞ。七枝だけがそちの味方ではない」
「……うん」
小さくうなずいて、ひな菊は母に背を向けた。毒のことを言おうかと一瞬考えたのだが、結局それは黙ったまま西の丸へと帰っていった。
そして次の日、ひな菊は久しぶりに城を抜け出した。
せっかくだから晴れていればよかったのに、天気はいまひとつだ。頭の上はどんよりと重たげな雲に覆われて、そのうち降り出すかもしれなかった。
「……雪になるかも」
じんわりとした寒さにそう思う。以前町に下りたのは霜月のはじめだったか――そう、海棠と出会う直前だ。あの頃はまだそれほど寒くもなかったのに、二月たらずですっかり真冬になってしまった。
曇り空にも負けず、町は活気に満ちていた。師走も廿日となれば、どこも年越しの準備に忙しい。華南津城でも煤払いだ畳替えだとにぎやかだったが、町の風景を見た方が年の瀬を実感できた。
なにかとうるさいお目付役が今日は用事とやらでいない。となれば羽を伸ばして一日町歩きを楽しみたいところだが、そうもいかなかった。ひな菊が外出したのには目的があった。町人区からさらに西へ進み、神谷の延行寺へと向かった。
延行寺は華南津城とともに建立された紫田家の菩提寺だ。ここに今日、恵泉院が参詣するという情報を聞き、やってきたのだった。
門からこっそり覗き込むと、恵泉院の供をしてきた女中や警護の武士たちが駕籠の周りに待機しているのが見えた。恵泉院はまだ本堂内だろうか。田島という御年寄も同行しているはずで、きっと恵泉院のそばにいるのだろう。
ひな菊は表からは入らず、長い塀づたいにぐるりと回って裏へ向かった。
姫君にあるまじき特技でもってこっそり忍び込んだ敷地内を歩く。貴人たちの姿を探していたひな菊は、はっと足を止めた。
素早く植木の陰に身を隠す。二十間ばかり向こうに、寺には不釣り合いな女物の着物が見えた。
外歩きのために裾を上げ、上衣に被布を重ねて恵泉院がたたずんでいる。もう法要は終わったのだろうか。それにしても誰もそばにつけず一人でいるのかと思ったら、近づいてくる人影がある。はじめ、町人だと思った。しかしよく見ると、それはなんと海棠であった。
「なんでここに……」
見つからないよう、ひな菊はさらに身を低くしてようすをうかがう。彼が来ることはわかっていたのか、恵泉院に驚くようすはなかった。
二人は庭に立って、しばらく話をしていた。なにを話しているのか、さすがにこの距離で声は聞こえない。それにしても海棠のあの格好はなにごとだと、自分のことを棚に上げてひな菊は思った。
異国風の簡素ないでたちだ。細い袖に高い襟、下穿きも細身で野袴よりもさらにぴたりと脚に沿っている。おまけに帯刀していない。腰になにか差してはいるが、脇差しにも見えなかった。
あれで髷がないのだから、知らなければ誰も武士だとは思わないだろう。
「人にはあーだこーだ言うくせに……」
今度会ったらつっ込んでやろうか。しかしそれでは覗き見していたことがばれてしまう。
むくれながらも、ひな菊は海棠の登場じたいにはさほど驚かなかった。
予想外であったが納得はいく。今日の用事とやらは、これのことだったのだ。それに以前、恵泉院が言っていたではないか。海棠が幼い頃から親しくし、わが子のように成長を楽しみにしていたと。
あとで、なんとなく妙な話だと思っていたのだ。
彼女の息子が亡くなった時、海棠は八歳だった。それ以前にも会ってはいただろうが、実の息子がいるのにたまにしか会わない甥をそんなに気にかけるだろうか。息子を失ったあと、かわりに海棠を可愛がったのだとしても、男子が大奥へ入れるのは九歳まで。たったの一年間でしかない。
その後はずっと会っていなかったはずで、彼がどんなふうに成長したのか直接見ることはかなわなかっただろう。しかし恵泉院の口ぶりからは、もっとごく最近にも会っていたように感じられたのだ。
――その答がこれだ。
息子の月命日にはかならず延行寺へ参詣するという恵泉院は、その際に海棠とも会っていたのだ。
「でもこれ、まずいんじゃ……」
ひな菊は眉を寄せた。
側室の座にまで上った彼女は、生涯宿下がりも許されず外出は参詣だけに限られる。その途中で遊興することはもちろん、男と個人的に会うなどもってのほかだ。
いくら実の甥とはいえ、こんなことをしていると知られたらどちらもただではすまない。
思わずひな菊は周囲を見回した。誰にも見られていないだろうか。ちゃんと人払いはしてあるのか。
田島が同行しているのはこのためかもしれない。多分、下っぱのお供たちはそこまで知らないだろう。
他人ごとながらはらはらして見守っていたひな菊は、さらに驚かされることになった。一体なにを話しているのやら、やけに深刻そうだと思ったら、うなだれる恵泉院に海棠が歩み寄り、なんと彼女を抱き寄せたのだ。
すがるように海棠の胸に顔を寄せる恵泉院は、もしかして泣いているのだろうか。そのようすはまさしく、苦しい恋に悩む男女の姿であった。
あの二人、そういう関係――?
ひな菊はあぜんとなった。歳の差はともかく、実の叔母と甥で――つまり、道ならぬ恋というわけか?
そりゃあたしかに恵泉院様は美人で優しい人だけども。海棠も美男でお似合いかもしれないけど。でもこれってどうなのありえるの。
大人の世界はひな菊にはわからなかった。悲しいかな初恋の経験もない。目の前の光景に、ただどうしよう――どうしようって、自分が気にすることじゃないかもしれないが、でもどうしようと、一人ひそかにうろたえていた。
夢中になって覗いていると、後ろから袖を引っぱられた。払いのけようとして、はっとふり返る。七、八歳の幼い小坊主がいる。見つかった――と思ったら、小坊主のつぶらな瞳はひとつきりだった。
一つ目小僧。妖だ。
「もう、おどかさないでよ。今忙しいの、あっち行って」
ほっと息をつき、手を振って追い払う。一つ目小僧は首をかしげたが、にかっと笑ってひな菊にまとわりついてきた。
「こら、忙しいって言ってんでしょ。仲間と遊んでなさいよ。やーめーなさいってばっ」
背中にのしかかられて、つい声を高くしてしまう。あわてて口を押さえたが遅かった。声を聞きつけたのか、それとも物音と気配に気づいたか、海棠がこちらを見ていた。
「やばっ」
ひな菊はくるりと身をひるがえした。背中に一つ目小僧をくっつけたまま一目散にその場を逃げ出す。すると辺りの物陰から、狐だの狸だの河童だの、なぜだか妖がわらわら出てきて、みんな一緒に走るのだった。
どうしてここに、という疑問よりも、呆れるべきかいっそ感心するべきか。
遠目の後ろ姿だけでも一目で誰だかわかる。奇抜な衣装に奇抜なお供――獣頭の妖と、甲羅を背負ったあれは河童か。初めて見た。
走り去る一団を黙って見送っていると、恵泉院が気づいて顔を上げた。
「海棠?」
「なんでもありません」
微笑んで叔母に目を戻す。さりげなく身を離し、まつげに残っていた涙をそっとぬぐってやった。
「……ごめんなさいね」
寂しげに彼女は微笑う。翳りをまとう笑みが、今日はさらにやつれて見えた。
「あなたにはいつも、情けないところを見せてばかりね」
「気にしないでください。せめて、僕の前でくらい楽にしておられればいい」
優しい笑顔と優しい声で、悲しむ人をなぐさめる。まぶしそうに恵泉院は目を細めた。
「本当に、立派な大人になったこと」
海棠は苦笑しそうになるのをこらえた。大人になったなどと言われるあたり、子供扱いされている証拠だ。
彼女の瞳に自分は映っていない。いつも違う影を重ねて見ている。それでもよかった。彼女を、なぐさめてやれるのならば。
庭の端に女が姿を現した。田島だ。そろそろ時間らしい。
海棠はそっと恵泉院をうながした。
「だいぶお疲れのようですから、ゆっくり休んでくださいね。あまり気に病まず……姫のことは、僕が引き受けますから」
「ええ」
恵泉院も田島に気づいて、そちらへ足を向けた。
「お願いね、海棠。申しわけないけれど、あなたにしか頼めないの」
「大丈夫ですよ。かならず約束は果たしますから」
力強く言うと、やっと安心したように恵泉院はうなずいた。戻っていく彼女と入れ代わりに、今度は田島がこちらへやってくる。神経質そうな女の顔を海棠は見下ろした。
「海棠どの、いつになったらあの娘を始末できるのです」
口を開くなり田島は詰め寄った。
やれやれという内心を隠して、海棠はのんびり答えた。
「そう急かさないでください。そちらこそ少しあわてすぎですよ。あまりやりすぎると足がつく」
「もう年が明けます。新年になったらお披露目が行われてしまいます。それまでになんとか……」
「別にいいじゃないですか、お披露目のあとになったって」
のんきな口調で言うと、田島の細い眉がさらにきつく寄せられた。
元は美しかったはずだし、五十を越した今でもその名残はあるのだが、今の彼女から感じるのは神経質そうなかたくなさだけだ。
「あのような娘が紫田宗家の世嗣と世に認められるなど、許せませぬ」
「お披露目をしたからといって、そう簡単には認められませんよ。分家筋の方々は次代の座をあきらめてはおられないでしょうし、他の方々にしてもまだ態度は保留なんじゃないでしょうかね。幕府内にも女性の大樹公をよしとしない者は多いようですし」
「当然です」
田島は一言のもとに吐き捨てる。海棠はそっと冷笑した。
「そう、当然です。ですから、焦ってせっせと毒を盛るのはおやめなさい。姫には通用しませんからむだです。下手な真似は墓穴を掘るだけですよ」
「…………」
「あの方をなきものにするには、やはり直接刃で首を狙うしかないでしょうね」
それだけ言って、海棠は話を切り上げた。軽く手を上げて田島に背を向ける。ひな菊が走り去った方へと歩き出しながら、女にもいろいろいるものだと考えていた。
いろいろいる中でもきわめつけの変わり者は、寺を走り出て町人区へ戻る途中、いったん足を止めて息を整えた。ついでに妖たちを追い払う。くっつけたまま人目の多い町なかへは戻れない。大さわぎになってしまう。
後ろを見て誰も追いかけてきていないことをたしかめると、今度はゆっくり歩きながらあらためてさきほどの光景を思い出していた。
まだ胸がどきどきしているのは、走ったせいではないだろう。延行寺へ行ったのは恵泉院たちのようすをさぐるためだけれども、まさかあんな場面に出くわすとは思わなかった。
「あの二人、本当に恋仲なのかしら」
にわかには信じがたい話だが、少なくともひな菊にはそう見えた。あのただならぬ雰囲気は、叔母と甥が会っていただけにしては親密すぎやしなかったか。
「ただでさえ血縁が近すぎるってのに、そのうえ恵泉院様は恋人なんて持てない人。二重に許されない恋じゃあ、きっとつらいわよね。障害の多い恋なら、なおさら逢いたいと想いがつのるものよね。わかんないけど、多分そうなのよね。となると……うーん」
考えに没頭しながら歩いていたひな菊は、前からやってくる男たちが自分に注目していることに気づかなかった。存在そのものに気づいていなかったので、あやうくぶつかってひっくり返るところだった。
鼻先まで近づいたところでようやく気づき、ひな菊は足を止めた。どうにかぶつからずにすんだのは、すぐれた反射神経のたまものだ。
顔を上げると、町人体の男が数人、ひな菊の進路を阻むように立っていた。
不注意でぶつかりそうになっただけだと思ったひな菊は、道を譲ってすれ違おうとした。ところが男たちは、にやにや笑いながらまたひな菊の前へ回り込んでくる。遅まきながら相手の思惑を悟り、ひな菊は顔をしかめた。
「ようべっぴんさん、なに難しい顔して歩いてんだい。困ったことがあるなら助けてやるぜ」
なれなれしく話しかけてくる男にうんざりする。女の一人歩きと見ると、すぐこういうやからが近寄ってくるのだから。
「ご親切にどうも。それじゃ道を空けてくださるかしら。やらしい顔した連中にからまれて困ってるの」
ひな菊の反応をただの強がりと取ったのか、男たちは鼻でせせら笑った。まあ、こういう手合いには鉄拳制裁しかあるまい。思考と身体を臨戦態勢に切り換えようとしたひな菊だったが、彼女が動くより早く背後から突き出たものが、目の前の男の顔面にめり込んだ。
「ぐぁっ」
鼻血を吹きながら男がひっくり返る。拍子抜けするひな菊のすぐ後ろで、聞き慣れた声がした。
「おや失礼、当たりましたか」
引いていくものを追いかけて、ひな菊はふり返る。いつのまに来たのか海棠は、右手に持った棒を軽く肩にかつぐように構えた。
二尺ほどのまっすぐな棒だ。なえしだろうか? 刀の代わりに腰に差していたのは、これだったらしい。
「てめっ、なにしやがる!」
「そうですね、なにをしましょうか。ご希望があるなら承りますよ」
いつにもまして人を食った物言いだ。挑発していると言ってもいい。たちまち男たちがいきりたって海棠に襲いかかったが、なにせひな菊をして完敗を喫する男である。いたいけな町人がかなうわけもなかった。
数えるほどの暇もなく地面に伸びた男たちを、少しだけ哀れに思ってひな菊は見下ろす。自分なら棒で殴ったりせず、蹴る程度にしてやったのに。
「相変わらず脚をさらして。そんな格好でうろつくから、こういうのにからまれるんですよ」
ため息まじりの小言は右から左へ聞き流した。海棠が腰に戻そうとした棒を、ひな菊はがっしとつかんで引き止めた。
「ちょっと待って、それ見せて」
「……どうするんですか」
「見たいだけよ。見せてってば」
海棠の手から無理やり取り上げる。思った以上にずしりと重かった。大刀よりも重いくらいだ。それもそのはずで、太さ一寸余りもの、段鉄製の棒だった。刀の柄のように滑り止めと装飾を兼ねた糸が巻かれている。
「うっわ、えげつな。こんなのまともにくらったら骨が砕けるじゃない。なえしにしちゃ長いわね。しかもこの重さ、威力を増すためにわざと重くしてるでしょ。あら、なにか仕掛けがある?」
「どうしてこういうことにばかり興味を持つんでしょうね」
さらに調べようとしたひな菊の手から、海棠が棒を取り戻した。
「どうせならもっと違うことに興味を持ってくださいよ」
まだ棒に未練があったひな菊は、抗議しようとして我に返った。見下ろしてくる海棠の目が冷たかった。
「あ、あらぁ、奇遇ねえ。こんなところで会うなんてぇ」
「しらじらしい。さっきのお供はもういないんですか」
「ああ、あれは勝手にわいて出ただけだから、またどっか消えたわよ」
笑ってごまかしながら(なにもごまかせていないが)倒れた男たちをまたぎ越して、ひな菊は歩き出した。踏んづけなかったのはせめてもの慈悲だ。
当然の顔をして海棠もあとをついてきた。
「まったく、僕がいないとなったらさっそく脱走ですか。それとも、僕が来ることを知っててあの寺へ行ったんですか」
「いや、それは予想外だったけど」
「こそこそ覗いて情けない。姫君としての誇りはないんですかね。町娘だってもっと礼儀とたしなみをそなえていますよ」
「悪かったわねえっていうか、あんたも雰囲気違わない? 微妙に口調が乱暴だし、しかも『僕』って。いつも『私』なんて言ってとり澄ましてたくせに」
「……ああ、失礼。どうも、城の外だと気がゆるみますね」
「なるほど、そっちが本性なわけね」
ひな菊はにやりと笑ってふり返る。海棠も不敵な笑みで応じた。
「前々から、らしくないと疑問に思ってたんだけど、あんた本当に武士?」
「あなたが姫君であるよりは、よほどらしいと思いますよ。ええ、もちろん武士です。他のなんだと?」
「じゃあなんだって刀を持たないの。髷を結わないの」
「髪形に関して、あなたに言われる筋合いはありません。刀は性に合わないんですよ」
「人を斬るのがいやなの?」
「そういうことにしておきましょうか」
しらじらと海棠は言う。刀がどうのというより、そもそも武士のなりをすることがいやなんじゃないかとひな菊は思った。
刀は武士の魂だ。普通は、どんなに落ちぶれてもこれだけは守ろうとするものだ。金銭に困って質に入れてしまったとしても、竹光でごまかして体裁をとりつくろう。武士が刀を差していないなど、ありえないのだ。
なのに脇差しすら帯びず、髪を切り、衣装までも異国風にして。これではまるで町のかぶき者だ。けれど裃で正装して登城する時よりも、ずっとなじんでいるように見えた。
こちらが本来の彼なのだとしたら、武士であることをあえて避けているように思えてならない。
「……よくもまあ、今まで見事に猫かぶってたものよね」
なにが彼をそうさせるのか、気にならないといえば嘘になる。しかしひな菊は話をそらして、それ以上追求しなかった。なんとなく聞いてはいけないような気がしたのだ。
「場所に合わせていただけですよ。相手は女の子だし、甘い言葉で優しくしてあげればなついてくれるかなと思ってね」
「なつかせるというより口説こうとしてたでしょうが。あんた絶対間違えてるわよ」
「たいていはこの手で上手くいくんですけどねえ」
「残念だったわねえ、上手くいかなくて」
「まったくです。たしかに間違えていました。女の子をなつかせるんじゃなくて、猿を調教するんだと心得るべきでしたね」
ひな菊の笑顔がひきつった。甘い衣をまぶした言葉で皮肉られても腹が立ったが、率直にこきおろされてもやはり腹が立つ。
こいつとは、本当に気が合わない。きっと前世でよほどの因縁があったのだ。
「それで、もうまっすぐ城へ帰るんでしょうね」
「なわけないでしょ。まだお天道様は高いのに。当然、これから町へくり出して遊びます」
聞こえよがしに海棠が大きくため息をついた。
「その格好でですか」
「いつもこの格好よ。なんか文句ある?」
「言っていいんですか」
「そこの井戸にでも向かってお言い」
ひな菊はもうふり返らず、すたすたと早足で歩いた。橋を渡れば、町人区は目の前だ。
巫山の夢=男女の情愛、または密会
二十間=約36メートル
二尺=約60センチメートル
一寸=約3センチメートル




