《二》
ふーい、ふーいとそれは飛ぶ。
行灯のぼやけた明かりに照らされて、壁で影が踊っている。
女中は夜具を引き被り、震えながらそれが消えるのを待った。
何かを求めるように、影はさまよっている。低く下まで降りてきて、夜具の中を覗き込もうとした。
女中が悲鳴を上げて、ついに気絶する。
しばし、とまどうように見下ろしていたそれは、やがてまた闇の中へと消えていった。
* * * * * * *
竿の両端に下げた桶に水を満たし、大柄な女は風呂場へ運び入れる。男手のない大奥では、力仕事もすべて女の役割だ。
奥女中といっても御目見得以下の末端、御末の彼女は、大樹公の御前に出ることなどない。部屋の主たる御中臈のために、雑用をこなすのが務めだった。
水を移し、空になった桶をかついでまた井戸へ向かう。いかに大柄で力持ちとはいっても、何度も水を運ぶ作業はきつかった。
「大変ね、手伝いましょうか」
何度目かに桶を満たし、かつぎ上げようとした時、かたわらから声がかかった。見れば可愛らしい少女が立っている。まだ幼いのか髪は適当に束ねただけで、奇妙な短い袴をつけ、脚をむき出しにしていた。
見覚えのない娘だから、どこかの部屋方だろう。御犬子供あたりか。
美女三千人というのは誇張でも、大奥には千人近い女が起居している。全員と顔見知りになれるはずもない。知らない顔があっても女は気にとめなかった。
「手伝うだって? そんな細い身体して、無理を言うんじゃない」
女は笑った。
「お前には持てないよ」
「そんなことないわよ」
娘はひょいと手を伸ばしてきて、女から竿を奪い取った。さほど荒れていない、下働きにしてはきれいな手だ。
慣れたようすで娘は竿の下に肩を入れ、えいやとかつぎ上げた。
「あれまあ」
女は目を丸くする。娘はふらつくこともなく、ひょいひょいと水桶を運んだ。
「見かけによらず、力があるねえ」
「ふふん、鍛えてるからね」
水を移す作業も楽々こなす。湯船がようやく満杯になって、女は息をついた。
「ありがとうよ、おかげで助かった」
「どういたしまして。ところでねえ、ちょっと聞きたいんだけど、昨夜また怪異があったって本当?」
「なんだい、今頃」
女は呆れた。
「とうにそのうわさでもちきりだろ。例の生首だよ。今度は二の側に出たんだ」
手拭いで額の汗をぬぐい、女は言った。
「御右筆の片瀬様のお部屋に出たんだと。天井を飛び回ってたかと思うと下へ降りてきて、蒲団の中の片瀬様を覗き込んだんだってさ。お気の毒に、片瀬様は熱を出して臥せってしまわれたそうな」
「ふうん……生首ねえ」
娘は何やら考えながら、首をひねる。
「どんな顔だったのかしら」
「さあね。あたしが見たわけじゃないが、なんでもおどろに髪をふり乱して、おそろしいうらみの形相をしていたそうだよ。おお、いやだ、くわばらくわばら」
女は首をすくめる。一瞬震えが走ったのは、汗をかいた身体が冷えたせいだけではない。
「聞けばさ、怪異は西の丸にいらしたお姫様のせいだって言うじゃないか。西の丸じゃもっとすごい怪異が毎日起きているそうな。生首も怖いけど、あたしはまだこの本丸勤めでよかったよ」
「はは……そうね」
なぜか気が抜けたように娘は笑う。そこで女は話を切り上げた。まだまだ仕事は残っていて、のんびり油を売っていたら上役に怒鳴られる。
「さ、あんたも自分の部屋へお戻り。勝手にうろついてると叱られるよ。ああ、これをあげよう。手伝ってくれたお礼だよ」
懐から小さな紙包みを取り出し、娘に渡す。女が立ち去った後、娘は包みを開いて湿気た揚げ菓子をつまみ上げた。
「……あたしのせいじゃないもん」
口に放り込んだ揚げ菓子は、噛むと奥歯にこびりついた。
「ただいまー。おなかすいた七枝ごはんー」
どこからともなく庭に現れたひな菊は、草履を脱ぎ捨てて縁側から上がってきた。
「お帰りなさいませ。で、どちらにお出かけでしたか」
「うお、海棠っ」
まっさきに出迎えたのは守役で、その向こうで七枝と御中臈が呆れた目をしていた。
「私の目を盗んで抜け出されるとはお見事です。もちろん、お覚悟はおありでしょうね? みっちり手習いをしていただきますよ」
にっこり微笑む顔が不気味だ。いくら美形でも、ながめていたいとは思わない。
「手習いね、あーまー、てきとーに……その前にごはんちょうだい、おなかすいた」
ひな菊は海棠の前を通りすぎて部屋へ入った。七枝が世話を焼き、御膳を用意すべく御中臈が出ていく。海棠も入ってきてひな菊の前に座った。
「朝からどちらへお出かけだったんです?」
「ないしょ」
子供っぽく言って、ひな菊はそっぽを向く。海棠は少し息をついたが、今はまだ昼だ。一日中出歩いていた以前と比べれば、これでもましになったのだろう。
昼の御膳はすぐに運ばれてきた。腹が減れば帰ってくるはずだと七枝が言ったので、いつでも出せるように用意されていたのだ。
ひな菊はさっそく箸を取り上げ、食事を始めた。一汁三菜と品数は少なめだが、内容は豪勢だし量もたっぷりだ。尾頭つきの魚を箸さばきもあざやかに、頭から丸かじりして周囲に頭痛をもたらした。
「ん」
汁物のふたを取って、一瞬ひな菊の動きが止まる。
「いかがなさいましたか」
見守っていた海棠が訊ねる。さりげなくふたを戻し、ひな菊は煮物をつついた。
「別に」
特に表情も変えず、そのままひな菊は食事を続ける。海棠はわずかに不審そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。
食べ終え箸を置くなり、ひな菊はまた立ち上がった。
「さー、手習いの前に手合わせよっ。海棠、庭へ出なさい」
「食べたばかりでしょう。急に暴れては、おなかが痛くなりますよ」
「平気平気、いつもこんなだもん。ほら、早くしてよっ」
海棠の袖を引っ張り無理やり立たせる。彼を庭へ連れ出しながら、ひな菊はそっと七枝に目配せした。
心得た七枝は御膳を下げようとする御中臈に断って、自分で御膳を取った。御小姓の彼女が率先して働くのは当然なので、そのことじたいには誰も疑問を抱かなかった。
吸い物の椀に、ひな菊がいちども口をつけなかったことは、誰もが気づいていたが。
「蛤はお嫌いですか」
庭に下りた海棠は、準備運動をするひな菊に訊ねた。姫君の顔がいやそうにしかめられた。
「あの一瞬で見るかな。めざとい男ね」
「好き嫌いはいけませんよ。貝は身体によいのですから」
「じゃあ次に出た時はあんたにあげるわ」
「明日の姫のお食事は、貝づくしにしていただきましょうか。貝ご飯に、貝の佃煮、貝の汁物に貝の……」
顔面に飛んできた拳を、ひょいと海棠はかわす。ひな菊はむきになって攻撃をくり出した。
「言い忘れてたかもしんないけど、あたしはあんたが大っ嫌いよっ」
「すでに申し上げたかと存じますが、私は姫をお慕いしておりますよ」
「いらんわーっ」
今日も、どちらに軍配が上がるかは明白だ。
確認することもなく、七枝はさっさと部屋を後にした。




