其の弐 口に蜜あり、腹に剣あり
「海棠は、姫様と上手くやっているのでしょうか」
線香につけた火をそっと手で扇ぎ、恵泉院はつぶやいた。ゆらぐ炎が消え、細い煙の筋が立ちのぼる。
そばに控えた年配の女が彼女に答えた。
「慣例を破っての大奥出入り自由に、多少の混乱はあったようですが、おおむね問題なく対処しているとの由にございます。海棠どののおかげで、姫君の連日の脱走にも歯止めがかかったと聞きおよびました。ですが、姫君は相変わらず反抗的で、はしたなくさわがれてばかりとか」
「そう……姫様は本当にお元気なのですね」
数珠を持つ白い手が合わされる。繊細で美しい面には、寂しげな蔭がひそんでいた。
「うらやましいこと……この子のそうした姿は、ただの一度も見ることがかないませんでした」
はかなげな背中を、女は黙って見つめる。亡き若君は生まれつき病弱で、子供らしくはしゃぐこともできなかった。
わが子の体調を常に案じ、不安げにしていた彼女の姿をよく覚えている。
「……そろそろ、廿日でございますね」
「ええ。いつものように、お願いしますね」
「かしこまりました」
恵泉院に礼をして、女はその場を下がる。若い女中たちが頭を下げて見送った。
悲しみに沈むばかりの恵泉院とは違い、齢を重ねてなお彼女は忙しい。大奥の諸方を采配すべく、御年寄田島は詰所へと戻っていった。
* * * * * * *
顔面を狙った突きがかわされた直後、右の脚がうなりを上げて襲いかかる。それもすいとかわされたが、着地すると同時に今度は左の脚が地を離れた。くるりと回転しながら再び蹴りを見舞う。海棠は片手で軽く払うように受け流し、かと思うとひざ裏をとんと叩き上げてひな菊の体勢を崩した。
「わっ」
さして勢いよく打たれたようにも思えないのに、ひな菊の身体が宙に浮く。
「はい、ここまで」
気づけばまたも海棠の腕の中だ。通算十回目の完敗に、ひな菊はうめきながら歯ぎしりした。
「さ、お部屋に戻りましょうか。お約束しましたね? 私の勝ちですから、おとなしく茶の湯の稽古をしていただきますよ」
「くう……」
ひな菊はふるえる拳をにぎりしめる。何度勝負を挑んでも、相変わらずかすることすらできないのが口惜しかった。
「……って、あんたいつまで抱いてんのよ」
海棠の顔が近いので、ひな菊は身をよじる。海棠はふと笑うと、ひな菊を抱いたまま立ち上がった。
「ちょっと!」
「姫君に、はだしのまま庭を歩かせるわけにはまいりませんから」
暴れるひな菊をものともせず、そのまま彼はすたすたと縁側へ向かう。縁側では七枝以下、奥女中たちが盥と手拭いを用意して待っていた。
「もとからはだしで下りたんだから、別にかまやしないわよ!」
「そうはまいりません。姫がよいと仰せでも、周りの者の怠慢になります」
「む……」
そう言われると、ひな菊も逆らいづらい。自分が勝手にはだしで庭へ飛び下りたのに、それで他の者がとがめられたのでは困る。
むくれながら口を閉じたひな菊を、海棠はうやうやしく縁側に下ろした。
離れぎわ、するりと彼の手が足裏をなでていく。
「……っ」
ひな菊は身を固くし、海棠をにらみ上げた。素知らぬ顔で彼は離れ、ひざをつく。作為など感じられないさりげない動きだったが、今のは絶対にわざとだ。そうに違いない。間違いなく、わざとさわったのだと、ひな菊は確信していた。
(この、むっつり助平……!)
周りの女中たちがなにも気づかず、うっとりと彼に見とれているのも腹立たしい。
湯を張った盥に乱暴に足を突っ込み、やつあたり気味にひな菊は洗った。
「姫様、わたくしがいたしますから」
「いいのっ。足くらい自分で洗うわよ」
土だけでなく海棠の手の感触も洗い落とそうと、ひな菊はごしごし足をこする。七枝から手拭いをひったくり、赤くなるほど強くぬぐった。
それを、端然と控えた海棠が見守っている。
むき出しの太ももからつま先まで、視線でなでられているような気がして、ひな菊はぞわぞわと鳥肌立った。
これまでも男にじろじろ見られたり冷やかされたりしたことはあったが、これほど落ち着かない気持ちになったのは初めてだ。海棠もよもや首をかけてまで不埒なふるまいにはおよぶまいと思うのに、見られているとなにやら身の危険を感じてしまう。
水気をふき取ったひな菊は、立ち上がって部屋へ戻り、放り出していた打掛を拾い上げた。
このまま見られているのと、おとなしく打掛を着るのと、どちらがよいだろうか。
わずかな逡巡の後、ひな菊はもそもそと打掛を羽織った。まああ、と七枝が感嘆の声を上げた。
「姫様が、ご自分から打掛をお召しに……!」
「そういう気分の時もあるわよ」
「まあまあ、お猿にようやく芸を仕込めた心持ちにございます」
「サル言うな!」
七枝はいそいそとそばへやってきた。
「せっかくですから、下も全部お召し替えになりません?」
「それはいや」
ぷいとひな菊は横を向く。七枝はため息をついた。
若い男が、それもこんな美男が毎日通ってくるのだから、少しは娘らしい気持ちが芽生えてもよさそうなものなのに。人としてどこか一本足りないのではなかろうか。
それでも、毎日のように一人で姿を消していたのが、どこへも行かずおとなしくしているようになったのは、進歩と言えるかもしれなかった。たとえそれが手合わせ目当ての、姫以前に女としてどうよという理由であったとしても。
勝負に負けた後は、いさぎよく約束を守るひな菊だった。今も自主的に茶道具の前に腰を下ろしている。きかん坊のくせに、こういうところは律儀なのだ。
外側だけほんの少し姫らしくなって、ひな菊は茶道具に手を伸ばす。取り上げようとした茶碗が、ころりと転がって彼女の手から逃れた。
「――ん?」
ころり、ころり。茶筅もひとりでに転がった。茶杓も棗も、てんで勝手に動きだす。ケラケラと小さな笑い声が聞こえた。
「こらっ」
ひな菊は小声で叱りつける。そこへ海棠がやってきた。
「なにか、おっしゃいましたか?」
「いえ、なにも」
あわててひな菊は袖で茶道具を隠す。が、その下をかいくぐって、茶碗が座した海棠のひざ元へ転がっていった。
「あ……っ」
自分の前に転がってきた茶碗を、海棠はひな菊の粗相と思って拾い上げようとした。すると茶碗が、ひょいと立ち上がって逃げた。
「…………」
「…………」
人間のものとそっくりな脚が、茶碗からにょっきり生えている。とてとて走って畳の上を移動する。
「……おや」
海棠が小さくつぶやいた瞬間、甲高い悲鳴が上がった。
「きゃああああっ!」
「ちゃ、茶碗がっ!」
「いやあっ!」
女中たちが青くなって、ばたばたと逃げていく。あちゃあとひな菊は額を押さえた。
「これは……付喪神、ですか」
海棠は物珍しげに、走り回る茶道具たちをながめていた。
「ええと、まあ、そうかも」
「おもしろいものをお持ちですね」
「いや、別にあたしの持ち物ってわけじゃ……」
さわぐ茶道具を、七枝が叱りつけた。
「これっ、しっ。いつのまに入れ代わったのかしら。姫様はこれからお稽古なのだから、お邪魔をするのではありません。しっ、しっ、あっちへお行き」
手で追い払うと、茶道具がわらわら逃げていく。海棠は笑った。
「七枝どのは怖がらないんですね」
「慣れていますもの」
ひな菊と同い年の少女は、主よりもよほど優雅に腰を下ろした。
「物心つく前から、このようなものが周りにおりました。わが家はちょっとした化け物屋敷でしたの」
「山吹家が化け物屋敷ですか。それは初耳です」
「違うわ。妖は、あたしの周りに現れるのよ」
あきらめてひな菊は口を開いた。気づかわしげな視線をよこす七枝に、微笑で返す。
「なんでだかね、昔から妖に好かれるのよ。いろんなのが寄ってくるわ。そのせいで七枝たちにはずいぶん迷惑かけちゃったけど」
「姫様がお悪いのではありませんわ。妖どもが勝手に集まってくるのです。それに悪事を働くわけでなし、多少いたずらをする程度ですもの。見慣れれば可愛いものです。父もおもしろがっておりました」
「使用人がなかなか居つかなくて困ってたじゃない」
「そのかわり、よく妖が手伝ってくれました。給金もいらぬと母などは重宝がっておりましたわ」
「夜中に驚かされて、泣いたこともあったでしょ」
「そのあと姫様がお仕置きなさっていましたわね。妖の方がもっと泣いておりました」
少女たちの気やすいやりとりを、海棠は黙って聞いている。ふと見回せば、先程の付喪神はどこかへ消えていた。違い棚の下を開けると、無造作に放り込まれた茶道具が転がっている。手に取っても逃げださない。色も形も違うから、こちらは本物の茶道具なのだろう。
茶釜から湯をすくい、海棠は静かに茶を点て始めた。
「……あんたも、全然驚かないのね」
「多少は上様からうかがいました」
あざやかな手つきで茶筅を動かす姿は、まさに端正としか言いようがない。なにをしていてもさまになる男だ。
「どこまで信じたものかと思っておりましたが、かけ値なしの実話でしたか。世の中には驚かされることが多いですね」
「だから、驚いてないじゃない」
静かに茶筅を置き、海棠が茶碗を差し出してくる。ひな菊は取り上げ、口をつけようとした。
「やり直し」
「…………」
口元へ運びかけた体勢のまま、しばしひな菊は固まった。
「なによ、どうしてよ」
「作法がまるでなっていませんね。まず礼をしてからでしょう。それに、そんなにかっこよく取り上げるのではありません。女性なのですから、もっとなよやかに、愛らしく」
「わかるか、そんなの!」
「さしあたって七枝どのを真似られればよろしいのでは?」
「…………」
七枝と目が合えば、勝ち誇ったように笑われる。ひな菊はむくれながら茶碗を下ろした。
その時、廊下に衣ずれの音がした。顔を上げると松尾が現れるところだった。
「失礼いたします。若い者たちが粗相をいたしましたようで」
入り口に正座し、松尾は手をついた。
いつもながらの厳めしさだが、作法は完璧だ。こういうのも、なよやかというのだろうか。
「躾がゆきとどきませず、申しわけございません」
「ああ、いや、いいの。大したことじゃないから、とがめないでやって」
ひな菊がとりなすと、顔を上げてざっと室内を見回す。七枝が残っていることを確認すると、小さくうなずいた。
「……まあ、このとおり、稽古はちゃんとやってるから」
「あまり大勢に見られていては、姫も緊張なさるでしょう。お世話は七枝どのがなさいますから、さきほどのお女中たちは休ませてあげてください」
海棠がやわらかく言い添える。年増にも効果を発揮する笑顔を向けられても、松尾の表情は変わらなかった。
「では七枝、よろしく頼みますよ」
「かしこまりました」
「あ、ちょっと寒いから、そこ閉めてってくれる?」
立ち上がる松尾にひな菊は頼む。返事はそっけなかった。
「今日はお天気がよろしゅうございますから、このままで。閉めきっていてはお部屋の空気がこもります」
「……はい」
さすがのひな菊も松尾の眼光の前では小さくなるしかない。彼女がいなくなってどっと息をつくと、海棠が笑った。
「どうも私は、信用されていないようですね」
「当たり前だって。女の園に若い男が入り込んで、懸念を抱かれずにはすまないでしょう。いくら母上の命令でも、よくあの松尾がなにも言わずに従ってると思うわよ」
「それだけ姫様には手を焼いておられるのですわ」
「御錠口を通ったあとは、どこにいても始終見張られていますからね。間違っても姫と二人きりになど、なれないようです」
「ええ、もちろん。あたしもなりたくないから、大丈夫よ」
意味ありげな流し目から、ひな菊はつんと顔をそむける。
「他の誰とも二人きりになんかなれないわよ。もし、そんなことがあったら、なにごともなくても、なにかしていたと思われるわ。せいぜい気をつけることね」
「心配してくださるのですね。ありがとうございます」
「あんたがどうなろうと知ったこっちゃないけど、相手の女が気の毒だからね」
「お気づかいくださるのはかたじけなく存じますが、大丈夫ですよ。私は、姫のことしか見ておりませんから」
「……見なくていいから」
「それはご無体というものです。美しくかぐわしい花から、どうして目をそむけられましょう。自然に引き寄せられるのは、いたしかたのないことですよ」
「…………」
ひな菊は三つ数えてこらえ、ふたたび茶碗を取り上げる。がっと口をつけ、中身を一気に飲み干した。
「……ぅえ」
苦い。
こっちの苦行にもこらえていると、海棠と七枝から小言が飛んだ。
「オヤジですか姫様。そんな飲み方って」
「もう一度、始めからですね」
「やあよ」
袖で口元を押さえ、茶碗を下ろす。
「お抹茶嫌いなのよ。苦いんだもん」
「何杯も飲みたくなくば、今度はちゃんと作法を守って上品に飲まれることですね」
「いやだっつってんでしょ」
空になった茶碗を放り投げる。受け止めた海棠は小さく息をつき、口直し用の干菓子を取った。
「指導のしがいがありますね」
近づいてきた指先が避ける間もなく唇にふれる。放り込まれた干菓子の甘味が口の中に広がった。
ぬくもりがかすかに唇をなでて、離れていく。
「…………」
これは作法に反しないのだろうか。
横で目を輝かせている七枝もうっとうしい。
「かつて皇の御世には、妖も人に混じって普通に暮らしていたという話ですが、真実なのでしょうかね」
なにくわぬ顔で茶碗をすすぎながら、海棠は言った。
「さあ。そんな時代には生まれてないし」
「皇の大王とともに去った妖たちが、今また現れるということは、人の世に戻ってこようとしているのでしょうか。だとしたら、大王も戻られるのでしょうか」
「……さあ」
何百年も昔の話など、どこまで真実が伝わっているのかわからない。皇の大王が神の末裔であったという言い伝えも、かなり眉唾ものだ。
ただ、妖という人外のものがこの世に存在することは、単なる言い伝えにとどまらない。ひな菊の周りに、常に現実としてあった。
「姫がいつも城を抜け出しておられたのは、妖のせいなのですか」
ものやわらかな口調ながら、海棠は遠慮なく訊ねてきた。
「この西の丸でも妖がいたずらをして、周りの人々を驚かせたりしないよう、離れておられたのですか。それとも知られて気味悪がられるのがおいやで、あまり人と関わらないようにしておられたのですか」
「……別に」
七枝がそっとひな菊をうかがい見る。
ひな菊は胸を張って、静かに海棠の動きを見つめていた。本人はまったく気づいていないが、そうしていると実に姫らしく、威厳すらそなわって見える。
やがてふたたび、海棠が茶筅を置く。姿勢を正してひな菊に目を戻した。
「妖が昼夜関係なく、さきほどのように好き勝手に現れるのなら、隠しきれないと存じますが」
「隠すつもりはないわよ。ことさらに吹聴する気もないけどね。ここに妖の親玉がいることは、とうに皆知ってるんだし」
「はて、妖の親玉とは」
「しらじらしい」
ひな菊はひんやりと笑った。
「半月も城に通えば、とうにうわさは耳に入っているでしょう。表でも奥でも、あたしは妖の子だと皆言っているはず」
「姫様」
「つまらぬことを言う者は、たしかにおりますが」
たしなめる七枝を制して、海棠はさらりと言った。
「こうしてじかにお目見得して、まこと姫を妖と思うほど節穴ではないつもりですよ。妖と言うには可愛らしすぎる」
「……それ、誉めてるんじゃなくて、ばかにしてるのよね」
「心からお誉めしておりますよ。まあ、男を惑わす美しい女妖もいると聞きますから、油断はできませんか。もっとも姫になら、魂を抜かれても本望ですが」
「あんたの魂ね。なんか黒そう」
惑わしているのはどっちだと、ひな菊は半眼でねめつけた。
「謹んで辞退するわ。中ったらやだもん」
「では、こちらをどうぞ」
ふたたび茶碗がさし出される。固まるひな菊に、海棠は優しい声で指導した。
「まず、礼からですよ」
「…………」
さきほどの会話などなかったかのように、輝かんばかりの笑顔がふりまかれる。大嫌いな緑色の液体をにらみつつ、ひな菊は思った。
どんなに顔がよくても。どんなに甘い言葉をささやいても。こいつは絶対、絶対に、根性悪に違いない!
口の上手い者ほど腹は黒いのだ。みんなだまされるなと、天守閣のてっぺんから大声で叫びたかった。




