37. 第三王子の弟子入り
工房の扉が開く音がしたので、私は絵筆を持ったまま顔を上げる。
セウラスがそこにいた。
ここのところ彼はこちらに来ることがなかったので、忙しいのだろうとは思っていたのだが、急にどうしたのだろう。
ロイドが先に彼に声を掛けた。
「あれ、なにか用事? 先生に?」
「ああ、うん。用事ではないよ」
答えながら、工房を見渡している。
「えっと、私が使っていた画架は借りても?」
「ええ。倉庫にあるけど……」
「わかった」
私の返事を聞いて、セウラスは隣の倉庫に向かう。
私とロイドは顔を見合わせる。いったいなんだろう。
彼は画架と画材一式を抱えて工房に帰ってくると、以前そうしていたように、画架を立てた。
「えっと……? 描くの?」
「うん」
描く準備をしながら、セウラスは答える。
そしてこう続けた。
「延長だよ」
「延長?」
「正式に、マシュー先生の弟子になった」
「へ?」
「正式って? 期間限定じゃなくて? 王子さまが? そんなの無理じゃないのか?」
ロイドが驚きを滲ませて、矢継ぎ早にセウラスに問う。
彼は画架の高さの調節をしながら、答えた。
「無理じゃないよ。王族籍を抜けるから」
セウラスの言葉を聞いた私たち二人は、ぽかんと口を開けてしまった。
彼は大したことは発言していない、という風に、なにを気にするでもなく、黙々と準備を続けている。
「王族籍を抜けるぅ?」
まず、ロイドが素っ頓狂な声を上げた。
「そうだよ」
動きを止め、こちらに振り返ったセウラスがそう頷く。
私は思わず、ばっと立ち上がった。
「きっ、きっ、聞いてない!」
「言っていないからね」
飄々とそんな風に返してくる。
それはけっこう大変なことではないのだろうか。なのにどうしてそんなに落ち着いているのだろうか。
セウラスの態度を見ていると、なにか聞き間違いでもしているのだろうかと、自分の耳を疑ってしまう。
「え……、いったい、なにをしでかしたんだ……?」
ロイドの呆然としたような言葉に、セウラスは小さく噴き出した。
「失礼な。ただ、宮廷画家になりたいから離脱の許可を陛下に求めたら許可された、というだけの話だよ」
宮廷画家になるために? 王族籍を抜ける?
だめだ、まったく頭がついていかない。
とにかく整理をしていこう、と思う。
「王族籍を抜けたらどうなるの?」
「どうなるんだろうね」
セウラスはわざとらしく顎に手を当てて考え込んでいる。
この人はもしかしたら、私たちの驚きを楽しんでいるんじゃないかという気がした。
それに思い至ると、私はすとんと椅子に腰掛ける。
「今のところは、王籍離脱と同時に爵位を賜って、そのまま王城の仕事をすることになっているよ」
「そ、そう……なの?」
爵位を賜って、そのまま王城の仕事をする。
であるならば、いきなり城を追い出されるという話でもないのだろう。もしかしたら、さほど今と状況は変わらないのかもしれない。
絵のことしか勉強してこなかったから、いまひとつ理解が追いついていないのだろうか。
ロイドは私よりは落ち着いているのか、のんびりと訊いている。
「王位継承権は? 今は三位だろう?」
「もちろん返上だね。第四王子が三位になる」
「でも爵位を賜るってことは、無一文で放り出されるわけじゃないってことか」
「当面はね。でも、宮廷画家は貴族と同等の扱いになるから」
その言葉に、私たちは顔を上げる。
セウラスは私たち二人を見渡して、そして口を開いた。
「私は、そちらのほうを狙っている」
「言うねえ」
ロイドが喉の奥でくつくつと笑った。
私はまだ少し呆然としたままで、きっと間抜けな顔をしていたと思う。
セウラスはこちらを見てにっこり笑うと、宣言した。
「つまり、私も宮廷画家を目指す競争相手になるということだね」
「な、なるほど……?」
とにかく彼は、絵を描くことを選択したのだ。
では私は?
私は彼の傍にいることと、絵を描き続けること、どちらも選択したつもりだったのだが、この場合、私から王子妃になるという選択肢が消えたということなのだろうか。
まさか。
まさか私の存在が、彼にその決断をさせたのか。
すっと足元に血が下りたような感覚がする。
「言っておくけれど、発表はまだ先だからね。これは極秘事項だよ」
私の思いを知ってか知らずか、セウラスはにこにことしながら、なんでもないことのように話を続けている。
「なんで言ったんだよ、そんな重要機密。聞かなきゃよかった」
ロイドは大げさに頭を抱えてみせた。
ははは、とセウラスは声に出して笑っている。
私はなにも言葉にすることができずに、ただその様子を眺めるだけだった。
すると工房の扉がまた開いて、私たちはそちらに振り向いた。父だった。
「おや、殿下。来られましたな」
「はい」
セウラスは椅子から立ち上がると、頭を下げる。
「よろしくお願いします」
「わかりました、セウラス。期待していますよ」
父はそう応えて目を細め、それから今度はロイドに振り返った。
「ロイド、バーンズ伯爵のところに行きますよ」
「あー……はい」
その返事を聞くと父はさっさと立ち去ってしまう。
ロイドが渋々、という感じで立ち上がった。
「どうかしたの?」
「え? なにが?」
「えっと、バーンズ伯爵のところに行くの……嫌なの?」
「ああ……嫌ってわけじゃ」
そう答えて深くため息をついた。
そしてこちらに振り返る。
「ごめんね、お嬢さん」
「え?」
「お嬢さんのことを猛獣って言っていたけれど、そうでもないってわかった」
それだけ話して、ロイドはふらふらと工房を出て行く。
私はその背中を呆然と見送っていたが、セウラスは笑いを必死でこらえているのか、肩を震わせていた。
「えーと?」
「ああ、バーンズ伯爵のところの孫娘は三姉妹で姦しいからね。姉妹喧嘩に巻き込まれているんじゃないかな。伯爵は三姉妹に甘いから、強くは窘めないだろうし」
「なるほど……」
「先生は、最初からそのお守役としてロイドを連れて行ったのかもしれないね」
お守役。宮廷画家の仕事というものには、そういうことも含まれるのか。
絵を描くことにはまったく関係ない気もするけれど、モデルとの信頼関係を築くためにも、そういうことも大切なんだろう。
私はあまり人付き合いが得意ではないから、ちゃんと考えないと、とも思った。
ふと視線を感じて、顔を上げる。
セウラスがこちらを見つめて、柔らかな笑みを浮かべていた。




