35. 母
その日のうちに、母が私の部屋に飛び込んで来た。
「本気なの?」
ドレスの裾を思い切り持ち上げ、いつもの母からは想像もつかないような荒々しい足取りでやってきて、私の正面に立った。
追ってきた侍女たちが、息せき切らして母の隣に控えている。
「ええ、本気です」
私がそう答えると母は、はあ、とこれみよがしに息を吐いた。
「人払いをしてちょうだい」
母は私に向かって指示したが、室内の人間は私の了承を得る前に、慌てたように退室していった。
「まあ、座ってください」
来客用のソファを指し示すと、母は自分を落ち着かせるためなのか何度か深呼吸をして、それから腰を下ろした。
「いったいなにがどうして王族籍を抜けるだなんて」
額に手を当て、深く深くため息をつく。
「理由は陛下に申し上げましたが。聞かれませんでしたか?」
「聞きました。けれど本当にそれだけ?」
「それだけですよ。宮廷画家になりたいので。それ以上の理由が要りますか?」
「それだけではないでしょう。あのお嬢さんのためでしょう」
やはり女性ならではなのか。
できれば今回の王族籍離脱の話には、アメリアを登場させたくなかったのだが、そこに思い至ったようだった。
極力彼女を、責められるかもしれない立場には置きたくない。
「いいえ? そもそもアメリアには今回のことを伝えてもいませんし」
「そう。ではあなたの勇み足なのね?」
「いえ、ですから彼女は関係ありません」
「嘘。母の目を見ておっしゃい」
そう言われたので、じっと母の目を見る。
母もこちらを見返してきた。
根負けしたのは、母のほうだった。目を逸らして、また額に手を当てる。
「ああ、もしかしてわたくし、余計なことをしたのかしら?」
「余計なこと?」
「ドレスを着させたこと」
アメリアは関係ないと主張しているのだが、母の中ではアメリアのために離脱するというのは決定事項のようだ。
というかそんなことを言い出すということは、アメリアと恋愛関係にあるということを確信しているのだ。打ち明けていないのに。
どこをどう否定すればいいのだろう、と思いながら話を続ける。
「それは喜んでいましたよ」
「そうかもしれないけれど、重圧にもなったかもしれないわ。着慣れていない風だったものね。というより、着慣れていない風だったから、今からいろいろと接したほうがいいのかしらと思ったのよ」
「ドレスが重圧なんて」
「あなたのような殿方にはわからないかもしれないけれど、女にとってドレスは戦闘服なのよ。彼女だって、それを感じたのよ」
「いや、そんなことは」
「そうね、重圧に感じたとしたら、王子妃にはなりたくないと思うでしょうね」
否定しているのに、真相に近づいてきているのはどういうわけか。
だんだん恐ろしくなってきた。
「母上? ですから、私が王族籍から抜けるのは、アメリアには関係ないことです」
母はぱっと顔を上げると、勢い込んで口を開く。
「まだ離脱のことは、お嬢さんには言っていないのでしょう? わからないわよ」
「なにがです」
「王族のままでいたほうがよくはなくて? 王子妃という立場に憧れる女性は多くてよ。彼女がそうでないとどうして言えましょう。最初は戸惑うでしょうけれど、着飾ることが嫌いな女性などいないわ。わたくしが舞踏会や晩餐会に招待して差し上げてよ。それを取っ掛かりにして、王族の風習や貴族の方々とのお付き合いにも慣れていけばいいのよ」
いいことを思いついたとばかりに、ぽんと手を叩く。
だがそれはいけない。彼女はそうして絵筆を忘れることを恐れていたのだ。
「あの、母上?」
「そうよ、そうしましょう。そうしたら王族籍を抜けなくてもいいじゃない」
「いや、ですから」
「お嬢さんにドレスを仕立てましょう。先日のドレスはわたくしが昔着ていたものだから、最新のものを」
だめだ。話をまったく聞いてくれない。
これ以上、しらを切りとおすのも無理か、とため息をつく。
母の人となりはよくわかっているつもりだ。
「彼女は、私が王族であろうとなかろうと、どちらにしろ傍にいてくれますよ」
私の言葉に、母は目をぱちくりと開け、何度か瞬かせると、身を乗り出してきた。
「まあ。まあまあまあまあ」
わくわくする気持ちを抑えられない、という感じで瞳を輝かせている。
こういう話は母の大好物なのだ。
「それなら、王族籍を抜けなくてもいいではないの」
「けれど、王子妃という立場はやはり彼女にとっては厳しいのではないかと。彼女は宮廷画家を目指していますから」
こうなっては母を味方に引き入れたほうがいいと判断する。
「やっと白状したわね?」
そう勝利宣言をしてから、うふふ、と嬉しそうに笑った。
「そうねえ。考えてみればあのお嬢さんは、一からすべて覚えていかなければならないものねえ。一朝一夕ではとてもとても。ましてや画家の片手間だなんて。わたくしも、嫁いでからすぐは苦労したものだわ」
そこから母の王太子妃時代からの苦労話が始まって、私はそれを根気強く聞いた。
あまりに話が長いものだから、途中で心配した侍女が顔を覗かせる。喋り続ける母の喉が渇くだろうからお茶を出すよう指示し、そして卓上に二つの茶器が置かれても、その間、母は喋り続けていた。
気が済んだのか、語り終えたとき、母はいくらかすっきりした表情をしていた。
「でも、あのお嬢さんが王族の一員になってくれると思っていたのに。つまらないわ」
「もし母上が母のままでいてくれたなら、義理の娘にはなりますよ」
「あら、そんなはっきりと」
口元に手を当て、母はこちらに身を乗り出してきた。
「やっぱり結婚するつもりなのね?」
「そのつもりですが、まだ彼女の了承を得ていません」
「まあ」
ほほ、と母は笑った。
「じゃあ王族籍を離脱してまで求婚しようというのに、まったくの無駄足になる可能性もあるのかしら?」
いやだから宮廷画家になるために……と否定しようとしたが、話が最初に戻りそうだったので、すんでのところで口を噤んだ。
「でもわたくしは、お嬢さんは受けてくれると思うわ。ええ、先日後宮に招いたときに、確信していたもの」
楽しそうにそう華やいだ声を出す。
どうやら味方に引き入れることには成功したらしい。
母はひとつ長いため息をつくと、私の顔を覗き込んだ。
「意思は固いのね?」
「はい」
「ならばこれ以上は言わないでおきましょう。陛下も許可されたのだし」
そう納得したように発して、立ち上がる。
「お邪魔したわね」
「いいえ、嬉しく思います」
私も立ち上がり、母の前に出ると扉を開けた。母が廊下に出るのを見届けて、私も外に出て、扉を閉める。
母はこちらを見上げてきた。
「あら、エスコートしてくれるの?」
「よろしければ、後宮の入り口まで」
「ではお願いするわ」
そうして二人で歩き出す。控えていた侍女も、後からついてきた。
母は隣で小さく息を吐く。
「寂しくなるわ」
「けれど陛下は、今の仕事をそのまま続けるように仰いました。おそらく、会おうと思えばいつでも会えるかと」
そもそも後宮に住まう母とは、そう頻繁に会っていたわけではない。
「そう……そうなんだけれど、王城からは離れるのでしょう? 寂しいわ」
そう弱々しい言葉を吐いたあと、こちらを見上げて、眉尻を下げると母は続けた。
「髪紐ならいくらでも作るから、また遊びに来るように言ってちょうだいね。あなたもよ、セウラス」
どうやら私だけでなく、アメリアともまた会いたいらしい。ずいぶんと気に入られたようだ。母子の好みは似ているのかもしれない。
「ええ、伝えておきます。きっと喜びますよ」
「きっとよ。わたくしは三人の王子を産んだけれど、まさかこんな風にわたくしの息子が巣立つなんて思っていなかったから……」
そうして母は、目尻を指で拭いた。
その仕草に、わずかに罪悪感がよぎる。
「でもよくよく考えると、あなたももう二十四ですものね。いずれにせよ降下してもおかしくはないわ」
「ええ」
「時は過ぎるものね。いつまでも髪を結われて大人しくしている可愛い息子ではないわ」
「ええ」
私はただ、母の愚痴を聞きながら、後宮への道のりを歩いた。




