31. 半年の成果
少し、いや、とても寂しい。
けれど彼女がそう望んだのなら、仕方のないことではないか。すべてを棄てて私のところに来て欲しい、とはとても言えない。
今は揺らいでいるけれど、彼女は間違いなく、絵を描くことが好きなのだ。
「殿下、その絵が完成したら、よければ見てやってくださいませんか」
そう言って、先生はこちらを覗き込むように身体を乗り出した。
「きっとなにか伝わるものがあると思います。娘は画家として、一歩を踏み出しました」
そうか。先生に認められるほど、彼女は真摯に絵に取り組んでいるのか。
アメリアは、私の手から飛び去った。
「わかりました。近いうちにお伺いしましょう」
「お願いします」
先生はそう言って深々と頭を下げる。
頭を上げると、先生はほっとしたように微笑んだ。私もそれにつられて笑う。
「きっと良い絵でしょうね」
「迷いながら描いているようでしてね。時間がかかってしまって、まだ完成してはおりませんが、良い出来になると思います。間違いありません」
「そうですか」
彼女は一歩を踏み出した。
私もいつか、踏み出せるだろうか。
違う道ではあるだろうけれど。
「きっと娘も、殿下に見て欲しいと望んでいると思うので」
「必ず伺いましょう。それにしても、こんな茶番を演じてまで見て欲しいという絵だ。楽しみです」
そう話すと、先生は目を伏せた。
「こんなことで力になれるかはわかりませんが、できる限り娘の望みは叶えてやりたいとは思っているのです」
先生は自身を落ち着かせるためなのか、ひとつ、大きく息を吐いた。
「私は酷い父親です。娘の悲しみを受け止めることができなかった」
「ええ」
「聞いておいででしたか」
先生はそう返してきて、自嘲的に口の端を上げた。
雷雨の日、先生はアメリアを拒絶して、あの絵を描き上げた。
「わからないのです。今、娘にどう接したらいいのか。私は絵を通してしか、自分の感情を表現する術を知らないのかもしれない。私はとんでもない出来損ないです」
そう語って、先生は頭を掻いた。
そんなことはない、と慰めてあげられればいいのだろうが、けれど未だそのときのことが傷になって残っているアメリアを思うと、どうしても口にすることができなかった。
「だからせめて、娘が望む環境を与え続けたいと思っております。ですから娘が本当に宮廷画家になるまでは、この地位にしがみつきたいと考えておりまして。が、いずれ、宮廷画家を辞するつもりではあります」
「えっ」
宮廷画家を辞する?
まさかそんなことを考えているとは思わなかった。
彼は宮廷画家の中でも、特に人気のある画家だ。彼が辞めたあとの損失は大きいのではないか。
「娘を不幸にする絵を描いてしまった。そんな人間が宮廷画家を名乗るのは、よくないでしょう?」
そして、先生は瞳に悲し気な色を浮かべた。
「それに、私は未だ、あの絵を超えるものを描けてはいない」
それを否定はしなかった。
アメリアと一緒に見た至高の一枚は、本当に胸が震える絵だった。
先生の代表作は、間違いなくあれだと言い切れる。
「もし私以外の人間が、娘にその環境を与えることができるのなら、私はお役御免というところなんですが?」
先生は窺うように、こちらを覗き込んできた。
私はゆるく首を横に振る。
「ぜひ力になって差し上げたいところですが、立場上、一人の絵師だけを特別扱いすることはできません」
もし彼女が望むなら、もちろん手を差し伸べたい。宮廷画家になるための援助をしてあげられればいい。
けれど、私は王子だ。王族だ。
宮廷画家を選ぶ側の人間だ。
そういう人間が、一人だけを優遇するのは問題がある。
「そうですか。それは残念です」
本当に残念と思っているのかどうなのか、先生はそう淡々と返してきた。
「描くことを、辞めたいのですか?」
そう問うと先生は、きっぱりと否定の言葉を続ける。
「いいえ。私は妻との約束で、絶対に絵を描くことを辞めることはできないんです。もし宮廷画家を辞することになっても、描き続けます。あの頃、妻が好きだった、優しい絵を描ければいいと思います。最近は、そういう絵を描けていない気がする」
そう語って口元に笑みを浮かべる。今までになく柔らかで優しい目をしていた。それが元来の表情なのかもしれない、と思う。
先生が今描いている絵は、王城の依頼で描いているものだ。好きなようには描けていないのだろう。
もしかしたら宮廷画家という立場は、彼にとっては窮屈なのかもしれない。
「先生、ところで」
「なんでしょう?」
「私の絵はどこに行きましたか?」
アメリアの絵を描いたあと、先生はそれを工房から持ち出した。
できれば自分で持っていたいと思ったのだが。
「ああ、あれは、陛下にお渡ししました」
「陛下に?」
「ええ、半年の成果をご覧になりたいとのことでしたので」
「ああ……なるほど」
ではあれを父が見たのか。
仕方ないことではあるが、なんとも気恥ずかしい。
いや、父はアメリアのように、絵が語ることを読み取れはしないのではないか。ただ単に、肖像画を描いたのだな、と思うだけだろう。
それならば、いずれ私の手元に戻ってくる。
それでいい。それで十分だ。
私はあの絵の中に、すべてを閉じ込めた。
「半年間、よくがんばられましたね」
にっこりと微笑んで先生は、そう生徒を褒めた。
「そう言っていただけると」
「お世辞ではありませんよ。ここまで成長なさるとは予想していませんでした」
「だとしたら、先生のおかげです」
「いいえ、私はなにも。殿下ご自身の力です。もし殿下が王子でなければ、宮廷画家に推薦しましたものを」
宮廷画家になるには、宮廷画家の推薦を受け、そして王城が承諾せねばならない。
先生の推薦を受けられたとして、王城の承諾のほうが無理に決まっている。
ありえない。王子が宮廷画家などと。聞いたことがない。それこそ夢物語だ。
私は片側の口の端だけを上げた。
「それは、最大級の賛辞ですね」
「本気ですよ」
そして続けた。
「殿下。絵を描くということは、自身と向き合うことなのです。そしてそれをさらけ出すことなのです。それはとても苦しいことです。けれどそれは時に、名画を生み出し、誰かを救うこともある」
それだけ語ると、先生は席を立つ。
「では殿下、どうかよろしくお願いします」
先生は、腰を折って深く頭を下げた。




