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第三王子はただひたすらに愛を描く  作者: 新道 梨果子


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29. 第三王子はただひたすらに愛を描く

 アメリアは、先生に言われた通りにソファに座る。

 決して私のほうを見ようとはしない。


 このまま彼女は私の元から去ってしまうのだろうか。

 目を離した隙に逃げ出してしまいそうだと思った私の感覚が、間違いではなかったということだろうか。


 私は絵筆を握る。

 先生は絵を描くしかないと言った。

 伝えられるだろうか、私に。

 私の中にある、この想いを。


 最初は、どちらかというと妹を見ているような気分だった。

 私は誰に頼らなくとも一人で大丈夫、と意地を張っているように見えた。にこりともしない彼女は、素直さというものを持ち合わせていないようにも見えた。


 だが、彼女はあのとき、私の絵を初めて見たとき、いきなり私の心の奥底に手を伸ばしてきたのだ。


 仮面を被るように王子として立ち振る舞ってきた私にとって、それは恐怖でしかなかった。隠してきた心の内を、いとも簡単に暴露した彼女が恐ろしかった。

 なんとかしなければ、隠し通さなければ、それでなくとも王子としての尊厳が揺らいでいるというのに。

 このままでは自分の存在というもの自体を脅かされるような気がして、私は絵筆を握ってあの静物画を懸命に描いた。


 だが、どう描けばいいのか、迷った。ただ上手くなることだけを考えてきた私には、彼女に読み取られないように描く術がわからなかった。


 それでもなんとか描いた絵を、彼女はその悩みごと、受け入れてくれた。

 好きだ、と言ってくれた。迷いながら描いた絵が、好きだと。

 そして、微笑んでくれた。


 思えばあのときから、私は彼女に恋をしていたのかもしれない。


 アメリア。

 君だけが、私の心を知っている。

 君だけが、私の心を掴んでいる。


 手放したくない。抱き締めていたい。

 そう願うのに、君は私から離れていこうとしている。

 王子であるのに忘れられ、自身の存在すら危ういと思っていたのに。

 なのに今度は王子であることで最愛の人を失おうとしている。

 私という人間は、なんて中途半端な存在だろう。


 欲しいものはたったひとつ。


 だから。

 閉じ込めなければ。

 早く早く早く。

 でなければ、君は去ってしまう。

 この絵の中に君を閉じ込めなければ。

 先生が描いたあの至高の一枚のように。


 君は思ったことがそのまま顔に出るから、私は君の前ではとても安心できた。

 最初に会ったとき君は私に対して、面倒な客が来たと思っていただろう?

 まああんな態度を取られれば、誰だって気付くかもしれないね。

 今まで私の周りの人間は皆、私と同じく、仮面を被っていたから、そのことにとても驚いた。


 初めて口づけを交わしたときのことを覚えている?

 あのとき君は、口づけを交わしたあと、安心したのかすぐに眠ってしまった。

 今思い返しても、あれはちょっとひどいと思う。

 正直に言えば、あのとき私はとんでもなくたくさんの理性を必要とした。

 口の端を少し上げて、寝ぼけているのか私にぎゅっとしがみついて頬を押し付けてきたから、まあいいかと諦めたけれど。


 私が工房を出て城へ帰るとき、ときどき厩舎に来てくれたよね。

 あれは本当に楽しみな時間だった。

 君が工房を抜けられなくて来られなくても、実は少し待っていたりした。ちらちらと後ろを振り返りながら歩いていたのだけれど、けっこうみっともない姿だった気がする。


 君は気付いているだろうか?

 集中して絵を描いているとき、口がぽかんと開いてしまうんだ。

 それが可愛くて、いつか指摘してやろうと思っているけれど、言ったら顔を真っ赤にして、そんなことない! と否定するだろう。


 その美しい金の髪も、たおやかな身体も、柔らかな唇も。

 すべて私のものにしてしまいたい。

 そう言ったらきっと君は、私はものではないわ、と可愛らしく口を尖らせて拗ねるだろう。


 すぐ泣くし、すぐ拗ねるし、すぐ怒る。

 すぐ意地を張るし、すぐ頬を染めるし、すぐはしゃぐ。


 どんな君でも愛おしい。

 これを愛と言わずしてなんと言おうか。

 私はこの絵の中に、君への愛を閉じ込める。


 私はただ、一心に、ひたすらに、絵筆を動かした。


   ◇


 ふーっと息を吐いて、背もたれに身体をあずける。

 描けた、と思った。

 そんな風に感じたのは、初めてだった。


 ふと気配を感じて振り返ると、先生とロイドとフィンがいた。

 けれど彼らは私には目もくれず、ただ、私が描いた絵を見つめている。

 なにも言わない。ただ、じっと、絵に視線を落とすだけ。


 アメリアは不審に思ったのか、立ち上がってこちらにゆっくりとやってきた。

 そして絵の正面に回り込む。

 やはり黙って絵を見つめて。

 そして、目を伏せて、踵を返して工房を出て行く。


「……殿下、どうして」


 先生が、ぼそりと呟いた。


「どうして、王子なんかにお生まれに……」


 先生は、目に涙を浮かべて、身体を小さく震わせて、そして私の絵から決して目を逸らそうとはしなかった。

 それを見たロイドとフィンは、荒々しい足取りで工房を出て行く。

 思い切り閉められた扉が、大きな音を立てて空気を震わせる。


 私は、椅子に座ったまま動くことができずに、ただ自分が描いた絵を見つめるだけだった。

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