28. 分水嶺
あれから何日経ったのだろう。
私はまだ工房には行けないままだった。
まるで雷が去るのを待つかのように、私は布団を被ってベッドの上にいる。
けれどこうしていても、なにも晴れやしない。
何度かセウラスが扉の外まで来てくれたけれど、私はやっぱり扉を開けることができなかった。
足音が聞こえる。
今日もセウラスが来てくれたのだろうか。
申し訳ないとも思うけれど、ほんの少し、こうして構ってくれるのが嬉しくもある。
そしてそれが、私の弱さなのだと思い知る。
部屋の扉の前で、足音が止まる。
私はベッドから身体を起こして扉のほうに向かった。
何度も来てくれたもの、少しだけ、ほんの少しだけ、甘えてもいいかしら。抱き締めてもらったら、きっと元気になれる。
そうしたら、もしかしたら、少しは前向きになれるかもしれない。それならいいのではないかしら。
私は扉の前に立つ。
「セ……」
「アメリア」
父の声だった。
父がここまで来ることは珍しい。いや、記憶にない。
「殿下は来ない」
やはり淡々とした口調で、父が告げる。
「……そう」
見限られてしまったのだろうか。
でもそれも仕方ない。彼にはどうすることもできない。
それに部屋の中に籠ってしまった私なんかより、王城にたくさんいる聡くて美しい女性たちのうちの誰かのほうがいい。
そんなことは、当たり前だ。
なのにそれを考えると、息ができなくなるほど苦しい。
あの胸が、あの腕が、他の誰かを抱き締めるだなんて考えたくもない。彼が唇を寄せるのが、自分以外の誰かであることが悲しくて仕方ない。
けれど、私は王子妃になんてなれない。ならば仕方のないことではないか。
そう無理矢理納得しようとするが、そんなの嫌だ、という思いばかりが膨らんでいく。
父の声は続く。
「殿下には、こちらに来ないように私が言った」
「……どうして?」
「殿下は工房に陛下の命で来ておられる。遊びではない。殿下自身も、こちらでなにか掴んで帰らねばならない。お前に構っている暇などないはずなんだ」
「そう……そうね……」
たった半年でなにができるというのか、と私は思っていた。けれど彼は素晴らしい進歩を見せた。
私など構わずに、ひたすらに絵を描いたほうがいいに決まっている。
私は扉の前で踵を返そうとする。
だがその気配を感じたのか、父は少し声の音量を上げた。
「アメリア。聞きなさい」
私はその言葉に足を止める。
「ここがお前の分水嶺だ」
分水嶺。私の分岐点。私の転機。
けれど私がいったいどこに向かえるというのか。
宮廷画家になるという夢を、見失い始めているのに。
「ロイドもフィンも、一ヶ月ここに通って頭を下げた。だから彼らは弟子となった。けれどお前はその儀式を経ていない。だから私はお前を正式には弟子と認めていない」
知っている。そんなことは知っている。
なのにどうしてわざわざ私を打ちのめすかのように、その事実を告げるのか。
「次にお前が絵筆を握るとき、そのときにわかるだろう。筆を握り続けるのか、筆を折るのか」
筆を折る。
その言葉を聞いたとき、胸がぎゅっと抑えつけられたような感覚がした。
どうして。
今、自ら工房を出ているというのに。あれから自ら筆を握っていないのに。
「自分の心の奥深くまで潜り込んで、自分を見つめなさい。画家というものは、そうしたものだ。逃げてはいけない」
父の使う言葉は感覚的で、少し、わかりづらい。
けれど、どうしてだろう。
今、父は、これまでにないほど私を甘やかそうとしているのがわかった。
父なりに言葉を尽くして、私を引き上げようとしている。
「いいね、アメリア。もう一度言う。ここがお前の分水嶺なんだ」
そしてその結果次第で、私を弟子と認めると言っている。
けれど。私にできるだろうか? 宮廷画家になる夢が揺らいでいる、この私に。
父に弟子だと認めさせることができるだろうか。
このまま筆を握らないまま筆を折ってしまったほうが、まだましではないのか。
みっともない絵を描くくらいなら。
私は父の言葉になにも返せなかった。
父が扉の外で小さくため息をついたのがわかった。
「殿下は明日で、この工房を出る。きっちり、半年だ」
「明日……」
「人物画を描いていただこうと思う。モデルをやりなさい。だから明日は描く描かないに関わらず、工房へ来なさい。いいね?」
「……はい」
「よろしい」
私の返事を聞くと、父は扉の前から離れて行った。
明日。
明日が最後。もうセウラスはこの工房へ通ってこなくなる。
そうしたらきっと、二度と会えない。
王子である彼と、なにも持たない私には、接点なんてない。
ずっとそばにいて、と彼は言ってくれたけれど、このままでは会えなくなっても仕方ない。
私はそのままずるずると座り込んで、呆然と床を見つめるしかできなかった。
◇
翌朝、工房に入ると、ロイドとフィンが駆け寄ってきた。
「お嬢さん!」
「来たね、良かった!」
「思うに、『マクラウド伯爵夫人』を見て自信を無くしちゃってたんだろ?」
「あんな名画を見れば誰だって落ち込むよ」
「また練習すればいいって」
「そうだよ、宮廷画家なんてそんな簡単になれるもんじゃないんだからさ」
矢継ぎ早にそう慰めてくれる二人の優しさが、胸に痛い。
私はまだ、描ける状態ではなかった。
「ありがとう……でも」
「アメリア」
こちらにゆったりとセウラスがやって来る。
「皆、心配してたんだよ。良かった、また描く気になったんだね」
ほっとしたようにそう声を掛けてくる。
いいえ、と口を開こうとしたとき、父が工房に入ってきた。
そして私を見て首肯した。
「よし。ではアメリア、座って」
「はい」
私は父に言われた通り、ソファに腰掛ける。
セウラスと目が合わないよう、私は目を伏せた。
「あの……先生?」
「殿下。今日で終わりですから、人物画を描いてもらおうと思います。一番苦手のようでしたから。それで私がアメリアを呼びました」
「えっ」
三人が戸惑うような気配がする。
「いや、先生、でも」
「描きましょう」
セウラスの言葉をひったくって、父が続ける。
「我々は、なにかを表現するのに、絵という手段を選んだ人間です。絵を描くしかないんです。殿下も今、私の弟子であるのなら、そうして欲しい」
しばらくの沈黙。
そして。
「わかりました」
足音がして、三人がそれぞれ画架の前に座り、絵筆を握ったのがわかった。
最後の一日。
私はせめて、モデルとして役に立てればいい、と思った。




