27. 空っぽ
黙々と足を動かして廊下を歩く私の後ろを、セウラスが付いてきている。
「どうしたんだ? らしくない。まさか本当に出て行くなんて」
そう。いつもの私ならきっと、やる気ならある、とその場に留まっただろう。
けれど自分でもわからないのだ。
やる気があるのかないのか。
なにを描きたいと思って絵筆を握っているのか。
「昨日、王城に来ているときからだよね、元気がないのは」
私はその言葉に、思わず足を止める。同時にセウラスの足音も止まった。
「なにか嫌なことでもあった?」
心配げに問う彼の声に、私はふるふると首を横に振る。
けれど納得できないのか、さらにセウラスは尋ねてきた。
「まさか、後宮で母になにか言われた? 母は少し先走りすぎなところがあるから、それなら気にしなくていい」
「……いいえ、なにも言われていないわ」
もしかしたら、王妃殿下はセウラスと私の関係について、すでに気付いているのかもしれない。その上で私に、王子妃になる心得を教えるような気持ちで、ドレスを着させたのかもしれない。
かくあれ、と見せたかったのかもしれない。
けれどもしそうであっても、それはありがたいことだし、今の私のこの情けなさには関係がない。
「じゃあ」
「やる気がないなら出て行けと言われたから、その通りにしただけ」
「アメリア?」
彼の手が、私の肩に乗せられた。
私はセウラスの手を振り切って廊下を走る。そして自室の扉を開け中に入ると、ばたんと音を立てて勢いよく閉めた。
追いかけてきた彼が、私の部屋の扉を叩く。
「アメリア!」
「ごめんなさい」
私は扉を背に、そこにそのままずるずると座り込む。
「これは私の問題なの。私が解決するしかないの」
頭の中が混乱していて、考えることがたくさんあって。いったいなにを苦しいと感じているのかも、曖昧だ。
「聞かせて、アメリア。一人で解決するなんて寂しいことを言わずに。一緒に考えよう」
優しい声音。優しい人。
なのに私はこんなに情けなくて。私はあなたの隣にいてもいい人間だろうか。
そんなことを考えているうち、じんわりと涙が浮かんでくる。
ほら、こんな風に、すぐ泣いて。
私はなんて弱い人間なんだろう。
「ね? アメリア。話してみて」
「私……」
「うん」
「私ね……」
言葉にしてしまえば、彼を傷つけることになるとわかっているのに。自分で解決するしかないとわかっているのに。
一度開いた私の口は止まらなかった。
「私、わかっていたつもりでいたの。でも全然、わかっていなかった」
「なにを?」
「あなたが、王子殿下だということ……」
しばらく、絶句したような沈黙が流れて。
そして。
「それがいったい、なんだっていうんだ!」
どん、と扉が叩かれた。その衝撃が、背中に伝わる。
怒っている。苛立っている。きっと彼も、わかっているようで、わかってはいない。
「私とあなた、これからどうなるの?」
「どうなるって、ただ、ずっとともにいたいと」
「だとしたら私、王子妃になるの?」
「……いずれは」
「ねえ、王子妃って、同時に宮廷画家になれるような、そんなに甘いものなの?」
扉の外が、しん、とする。
「私、王城に行って、王妃殿下に会ったわ。王太子妃殿下にも。二人ともとても優雅で、お美しくて、公務もこなしておられるようだったわ。王子妃になるのなら、私もああならなければならないのよね」
後宮での二人の妃を思い出す。
私から見て、二人は物語の中にいるような、そんな存在の人に思えた。
「でもそうすると、もう絵筆は握れないわ。私は、趣味としてではなく、宮廷画家を目指しているのよ」
「それは……」
返す言葉がないのか、セウラスは黙り込んだ。
「……でも……でもね、それよりなによりね」
そんなことは問題ではない。
問題は、私自身だ。
喋ることで、私の中の混乱がひとつにまとまっていく。誰のせいでもない、何のせいでもない、間違いなく、私自身のせいだと。
「なにが嫌だったかって、私、浮かれたのよ。王妃殿下がドレスを着せてくださって、髪を結ってくださって、いろんな人に美しいって褒めそやされて、そのことに浮かれたのよ」
まるで自分も夢の世界の住人になったかのように錯覚した。
自分ではなにもしていないのに。
「あんなに偉そうに、暇があるなら絵筆を握れって言っていたのに、私、着飾ることが素敵だなあって、いつもこうしていたいなあって、浮かれたの……」
涙がぼろぼろと零れてきた。
セウラスとずっと一緒にいたら、私も夢の世界の住人になれるのかしら、と思ってしまった。
そのとき、心の中に絵筆はなかった。
「私は、抱き締めてもらえるなら、褒めてもらえるなら、なんだって良かったのかもしれない。ただ絵が身近にあっただけで、絵でなくてもよかったのかもしれない」
今まで信じてきたものが、王城に行ったときに一気に崩れ去った。そんな感覚だった。
「私は本当に宮廷画家を目指していたの? それが、わからなくなったの……」
宮廷画家になりたい。
その夢は、こんなにも軽くてこんなにも脆いものだったのだろうか。
違う世界を見せつけられただけで、儚く揺らぐ夢。
今までの自分が恥ずかしい。
偉そうに言うばかりで。
全然、大したことないくせに。
本当は、こんなに意思が弱くて情けないくせに。
実のところは、宮廷画家になりたいのではなくて、私には才能があるって、こんなにがんばってるって、見せつけたかっただけなのかもしれない。
こんな人間が宮廷画家になんて、なれるわけがない。
あの美しい伯爵夫人の肖像のような絵が描けるはずがない。
さりとて、王子妃にだなんて、おこがましいにも程がある。
こんな人間が、彼の隣にいてはいけない。
「私きっと、あなたといると、もっと駄目になってしまう……」
恋をするのはとてもいいことだ、と胸を張って言えるような関係になりたい。そう思っていたのに。
私は恋をすることで、自分自身の弱さを剥き出しにしてしまった。
つまり、すべては私の弱さが原因なのだ。
「ごめんなさい、私の勝手だってことはわかってる。ごめんなさい……ごめんなさい」
静かになっていた扉の外から、とん、と扉を叩く音がした。
「アメリア、そんなに自分一人で抱え込まないで」
優しい声がする。
「一人で泣かないで、アメリア」
私はなにも返すことができずに、扉の内側で泣き続けた。
しばらくしてから、彼の声が聞こえてきた。
「わかった」
その言葉に、身体がぴくりと震える。
「今はまだ混乱しているだろうから、落ち着いたらまた二人で考えよう。ね?」
無駄だ。私は根本的に弱い人間で、解決策など思い浮かばない。
宮廷画家にもなれないし、王子妃にもなれない。
私は空っぽな、なにも持たない人間なのだ。
「お願いだから、一人で結論を出してしまわないで」
その言葉になにも返せなくて、私は沈黙を貫き通す。
「今日は帰るよ。また話そう」
ひとまずこの場は諦めたのか、そう声を掛けられた。
そして彼の足音が遠くなっていくのを、私は泣きながら聞くしかできなかった。




