25. 『愛している』と叫んでいる
セウラスはひとつの扉の前で立ち止まり、私たちのほうに振り向いた。
「ここだよ」
ノブに手を掛けると、扉を押す。
扉の向こうには三人の侍女たちがいて、こちらに向くと、深く頭を下げた。
「お帰りなさいませ、殿下」
「さあ、入って」
私たちは、恐る恐るといった風に、部屋の中に足を踏み入れた。
侍女たちに会釈すると、にっこりと微笑み返される。
広い部屋だが、特に華美なところはなく、質素な木目の調度品で統一されている。若葉色のカーテンが窓から入る風に吹かれてはためいていた。
私たち三人は、壁に視線を移す。けれど少なくとも、見える範囲に絵は飾られていない。
どこに飾られているんだろう。
セウラスは侍女たちに、労いの言葉を掛けていた。
「大変だっただろう。すまないね」
「いいえ、あれくらいのことはいくらでもお申し付けください、殿下」
そう返して、侍女は笑みを浮かべている。
セウラスは私たちのほうに振り返ると、口を開いた。
「ごめんね、怖がる人間がいるものだから、寝所のほうにあるんだ」
そう説明して、奥にある扉を指さす。
ああ、なるほど、と私たちは納得した。
いわくつきの絵。普通に目に付くところには飾れないのだろう。
「来客があれば、いつもはこちらの部屋で応対するんだけれどね。古い絵だからあまり動かしたくないし、あちらに机と椅子を用意してもらったから」
侍女たちに動かしてもらったのか。よく見れば、床に机や椅子の跡らしきものがある。
「こっち」
奥の部屋に続く扉を、セウラスが開く。
私たちはその後について寝所に入った。
寝所と言っても、大きな窓があってカーテンも開けられていたから、明るかった。
大きな天蓋付きのベッドが目の前にあって、少し気恥ずかしくなる。
シーツもぴしりと張られているし、枕も規則正しく何個か並んでいるので、起きたまま、なんてことは決してないのだろう。けれどなんとなく生活感を覚えてしまって、頬が染まった。
「あっ」
ロイドの声がして、そちらに振り返る。
壁に掛けられた、一枚の絵。
『マクラウド伯爵夫人』。
「まあ、まずは座って」
駆けだしそうな私たちを見て苦笑すると、セウラスは椅子を指し示す。
私たちは促されて、絵に向かい合うよう並べられた椅子に座った。
開け放たれた扉から、侍女がしずしずと入ってくる。そして私たちの前の机に、お茶とお茶菓子を置いていった。
「ではどうぞごゆるりとお過ごしください」
最後にそう挨拶して一礼すると、退室していく。
侍女といえど、美しい女性だった。洗練された動きは、爽やかな香りを残す。
見てくれだけを整えた私とは違う。
私たちは淹れてもらったお茶を一口、口に含む。
そして、ほう、と息をついた。
顔を上げれば、美しい女性がこちらを見て微笑んでいる。
マクラウド伯爵夫人は白いドレスに身を包み、椅子にゆったりと座っていた。
まるでこの部屋に、五人目としているかのように。
ふと机の上を見ると、お茶が五人分、用意されていた。
「これは、セウラスの趣向?」
五つ目の茶器を指さして尋ねると、セウラスは今気付いたように目を見開いたあと、小さく笑った。
「いや、侍女たちだね。なかなか粋なことをする」
「素敵」
「この絵を見ると、そうしたくなるのかもしれないね」
私たちは、しばらくなにも口にすることができずに、黙って絵を見つめる。
この絵を見た男はすべて惚れてしまう、というのも頷ける美しさだった。
「ちょっと近くで見てもいい?」
ロイドの問いかけに、セウラスは首肯した。
ロイドもフィンも立ち上がって、おずおずと絵の前に立つ。
「これが、『マクラウド伯爵夫人』か……」
「案外、小さいな」
「でもやっぱりすごいよ。この頬の紅潮した感じといったら!」
「雑に描いているみたいに見えるのになあ。なのにすごく繊細に描かれている。見てみろよ、このドレスのレースのところ」
ロイドもフィンも、絵に近づいたり離れたりして、絵を堪能している。
セウラスはそれを満足げに眺めていた。
二人がこちらに振り向いて呼び掛けてくる。
「お嬢さんは?」
「見てみろよ、あんなに楽しみにしていたじゃないか」
「え、あ、うん」
立ち上がろうとドレスの裾を少し持ち上げる。立ち上がるだけで難儀だ。
セウラスがこちらに手を差し出してきたので、それに手を乗せる。軽く引っ張られて、今度は楽に立てた。
そのまま手を引かれて絵に向かって歩く。やっぱりドレスは歩きにくい。
そして、『マクラウド伯爵夫人』の前に立つ。
艶やかな黒髪。透けるような白い肌。少し首を傾げてこちらを見る表情。少しだけ上がった口角。すうっとした首筋。たおやかな指先。
「……愛している……」
ぽつりと口から漏れ出た。
「え?」
三人が、こちらを見て首を傾げた。
「絵が、『愛している』って叫んでいるみたい……」
愛している、愛している、愛している。
一筆描かれるごとに、絵の具に込められる激情。それが伝わってくる。
夜な夜な現れるという幽霊は、その想いの具現化なのではないか。
何ひとつ逃したくないと繊細に描かれた伯爵夫人は、けれど少し遠い。
絵をじっと見つめたまま。はらりと涙が頬を伝った。
「えっ、ちょっと、なに泣いてるんだよ」
「あーあ、感受性が豊かというか、なんというか……」
動揺したような、ロイドとフィンの声がする。
私は慌てて手のひらで涙を拭った。
「泣いてないわよっ」
「泣いてるじゃん」
「あー、もう」
最初に、ロイドが左から私の肩を抱いた。そのあと、フィンも被さるように右から肩を抱く。それからセウラスが、私たち三人を包むように、腕を回してきた。
とても温かな、抱擁だった。
仲間じゃない、と思っていた。私たちは競争相手なのだと。
けれどそれは間違いだった、と思う。
三人に包まれて、私は静かに涙を流した。
そうして絵を眺めているうち、いくつもの疑問が胸の中に浮かぶ。
私は、この絵のような、すべてを投げ打ってでも表現したいと思える激情を、持ち合わせているだろうか?
私は私の腕一本で、こうした感動を与えてくれる絵が描けるのだろうか?
この先、それが可能だろうか?
私は本当に、宮廷画家になりたいのだろうか?
宮廷画家になれる資質を、私は持っていないのかもしれない、と思った。
そのことが、どうしようもなく、悲しかった。




