20. 『マクラウド伯爵夫人』
翌日からは、また普通の日々が戻ってきた。
セウラスも視察から帰ってきて、前と同じように弟子として絵を描いた。ロイドとフィンは『疲れた』を連発していたが、それなりに触発されるものはあったようで、以前より集中して描けているようだ。
父は、相変わらず特に助言はしないが、私たちの後ろを歩き回ったり、ときどきは自分も描いたりしている。
ただ、礼拝堂の修復作業の間に、今度は貴族の肖像画の仕事が溜まっていたらしく、なかなか帰ってこなくなってしまった。
「そりゃまあ、これだけ女性を描くのが得意な宮廷画家がいれば、頼みたくもなるだろうね」
そう説明すると、セウラスは苦笑する。
「特に未婚のご令嬢は、我先にって感じらしいし」
貴族同士の結婚では、お互い一度も会うことなく、肖像画を交換してお相手を決めることもあるそうだ。
そうなると、その肖像画の出来が一生を左右する、なんてことになるのかもしれない。
だとしたら、女性を描くことに定評のある父に頼みたくなるのは人情というものか。
「へえー。でもさ、どんなに美しく描かれて嫁いだとしてもさ、実物は違うわけだから、逆に心配にならないのかねえ。がっかりされないか、ってさ」
「そういやこの前、お嬢さんを先生が描いていたけれど、あの絵を見せられたら、どんな楚々としたご令嬢が来るかって期待しちゃうよな」
その軽口に三人が笑ったので、私は絵筆を逆に持って、柄のところで三人の頭をそれぞれ叩く。
「いたっ」
「なにすんだよー」
あれくらい痛くはないはずだが、ロイドとフィンは頭を手で押さえて大げさに痛がってみせた。
「くだらないこと言う暇あるんだったら、描く!」
「まあまあ、宮廷画家がどんな仕事をしているのか、王城側からの話も聞きたいだろうし」
そんな風に穏やかにセウラスが取りなすものだから、私は気を削がれてしまう。
「そりゃまあ……聞きたいけど……」
「ね?」
にっこりと笑ってそう諭してくる。負けた。
あれからロイドもフィンも、私たちについて特に不審には思っていないようだった。
二人きりになる時間はほとんどないけれど、たまに彼が帰るときにこっそり厩舎までついていったりして、口づけを交わす。
今の私は、それで十分すぎるほど満ち足りていた。
もしかしたら、いつか私たちも父が描いた猥画のような行為をするようになるのかしら。でもそんなの恥ずかしいし、ああいうことは結婚した男女がすることだもの、早すぎるわ。
そんなことを考えているうち、なにを変なことを想像しているのかと、じたばたしたいのを我慢するようになる。そんな私を見てセウラスまでもが恥ずかしそうにするので、やっぱりまだ時期尚早なのだろう。
私たちはゆっくり進んでいきたい。
「やっぱりどの宮廷画家も、肖像画の仕事が多いのかな」
「それは得手不得手にもよる。宗教画しか描かない人もいるし、風景画が主な人もいる」
「ああ、そうか」
そんなことを聞いているうち、ふと、思いついた。
「ねえ、王城や貴族や教会が所有している絵画は、ほとんど把握しているって言っていたわよね」
「ああ、そうだよ」
セウラスは頷いた。謙遜もなにもなく堂々とそう認めるからには、本当にかなりの数を把握しているのだろう。
「じゃああれ、どこにあるのかわかる?」
「あれ?」
「『マクラウド伯爵夫人』」
私の言葉にセウラスは一瞬、戸惑うように身を引いた。
「ああ……」
「あれ、どこにあるのかしら」
幻の名画として名高い絵だ。もう百年ほど前の肖像画だが、おそろしく評価が高い。
けれど、今は世に出てきていない。
「ああ、気になるよね」
「あるなら見てみたいなあ」
ロイドもフィンも、興味を惹かれたようだった。
「そうか……」
しかしなぜかセウラスは、困ったように眉尻を下げている。
知らないのだろうか、かの絵がどこにあるのか。もしかしたら、燃えたかどうかして存在していないのかもしれない。
「模写なら見たことあるわ。でも、本物はすっごく美しいって!」
「見た男はみんな惚れてしまうって言うぜ」
「ぜひとも拝んでみたいよなあ」
勢い込んで弾んだ声で語る私たちとは対照的に、セウラスは考え込んでしまう。
どうしたんだろう。様子を見るに行き先を知っているような感じだが、そんなに言いにくいことなのだろうか。
「ねえ、どこにあるの? もしかして、もう存在していないの?」
「あるよ。……王城に」
なにやら歯切れが悪い。
「王城に飾ってあるの? どうして世に出てこないの? 素晴らしい絵だって聞いているのに」
「あれは……元々、マクラウド伯爵の子息の所有だったんだ」
「ええ、そうでしょうね。王城に寄贈されたの?」
セウラスは覚悟を決めたかのように息を吐くと、口を開いた。
「いや……いわくつきと言われて、出せなくなった」
「は?」
いきなり思ってもみなかったことを告げられて、私たち三人は変な声を出して固まってしまった。
セウラスはためらいがちに、続ける。
「マクラウド伯爵夫人は、あれを描いた画家と駆け落ちした」
「はああー?」
「そのあと二人を追った伯爵は、二人を殺して自分も死んだ」
思いの外、重い話に、私たちは黙り込んでしまった。
しん、と静まり返る工房に、セウラスの淡々とした声が響く。
「伯爵家の醜聞だからね、当時の国王の意向もあって、この話は広まっていないと思うけれど」
「あ、うん……」
「ただ、そんな話が纏わりつくとはいえ絵は素晴らしいものだったから、そのまま子息が持っていたんだ。公開もされた。でも、夜な夜な夫人の幽霊が出るとかなんとか噂されて……でも捨てられなくて、結局、最終的には王城で所有することになった」
「はあ……」
「まあ、迷信だよ。幽霊は出ない」
セウラスは両の手のひらを天井に向けて、そう断言する。
「どうしてそんな、言い切れるのよ」
「私の部屋にあるから」
「嘘っ!」
それで言いにくそうにしていたのか。
「ごめんね、独占して」
「本当よ! 私だって見たい!」
「俺も!」
「僕も!」
三人が三人、身を乗り出すように彼に迫る。
セウラスは苦笑交じりに返してきた。
「わかった。じゃあ王城に来るといい」
「えっ」
「明日、馬車を用意させるよ。それに乗っていれば門番を通さずに王城に入れるから。手配しておくよ」
「え、いいの……?」
「見たいんだろう?」
笑って彼が念押ししてきたので、私たちは深く頷いた。
「じゃあ、明日。城で待っているよ」
そう言ってセウラスは立ち上がる。
私は慌てて彼に問いかけた。
「あっ、えっと、なにか注意事項はある?」
「注意事項?」
「着て行く服とか」
「普段通りでいいよ。着飾る必要はない。あ、武器になるものは持ち込まないで。王城内での帯剣は、王族か軍の者にしか許されていない」
と言われても、私もロイドもフィンも、剣など持ってはいない。あえて言うなら絵画用のナイフなら持っているか。が、それもいつも持ち歩くものではないし、殺傷能力もほぼない。
まさかそんな注意事項を提示されるとは思わなかった。王城は警備が大変なんだなあ、と呆けたことを思う。
私たちは、絵さえ見られればそれでいい、という人間だから。
「うわあ、幻の名画とご対面かあ」
「興奮するなあ」
「ありがとう、セウラス。すっごく楽しみ!」
私たちがそうして浮かれているのを見ると、彼は満足げに頷いた。




