17. そばにいて
私たちはしばらく手を繋いだまま、並んで座っていた。
少ししてなんとなく手を離してしまって、でも傍から離れたくなくて、ほんの少しだけ身体を寄せる。
お互い、なんの言葉も発することもできずに、ただじっと雨音を聞いていたのだが、その音がふいに止んだ。
「……雨、やんだ?」
窓の外を確認しようとしたのか、セウラスが立ち上がろうとする。
「あっ」
私は思わず、彼の袖口を掴んだ。セウラスは驚いたように、こちらに振り向く。
慌ててその手を離して、自分の背後に隠した。
今私は、なぜ引き留めてしまったのだろう。無意識で手が出てしまったのだ。
「な、なんでもない」
彼は浮かせかけた腰をまた据え、そして首を傾げる。
「今のは……誘惑?」
「そんなわけないでしょ!」
間髪を入れずに否定した。
なんてことを言うのだ、この人は。誘惑? そんなこと。
頬がかあっと熱くなる。よかった、明るい場所じゃなくて。真っ赤になった顔を見られるだなんて耐えられない。
「そう? それは残念。誘惑だったら嬉しかったんだけど」
そう宣って、顔を近付けてくる。私は目を逸らした。
心臓の音を彼に聞かれそうな気がしてたまらない。
「う、嬉しいのなら……」
「え?」
「……ゆ、誘惑でも……いい……かも」
私もいったい、なにを言っているのだ。
「それはよかった」
セウラスはそう返してきて目を細めると、こちらに手を伸ばしてきた。私はぎゅっと目を閉じる。なんだか怖いような気がして、顎を引いてしまう。
彼の指が、頬に触れる。ぴくりと自分が揺れたのがわかった。
親指で、その場所を確認するかのように、唇をなぞられる。
息ができない。どうなるんだろう。どうなってしまうんだろう。
彼の息が、唇にかかる。
あ、と思ったときに、それは重ねられた。
柔らかで温かで、そして優しい。すべてを委ねてしまいたくなるような、そんな感触だった。
少しして唇が離れて、ゆっくりと目を開ける。
目の前に彼の顔があって、なんだかどぎまぎする。今、彼のこの唇が触れていたんだ、と思うと恥ずかしさでどうにかなりそうだった。じたばたと暴れたいような、そんな衝動にかられてしまう。
なのに彼は。
「……なんだか、落ち着いてない?」
私は心臓が口から出てきそうになっているのに。目の前のセウラスは、何事も起きていないかのように落ち着き払っているように見える。
「そんなことはないよ」
そう小さく笑うと、ふいに私の手首を握る。
あたふたしている間に、彼は私の手のひらを、自分の胸に当てさせた。
「ね?」
「本当……」
手のひらに、早鐘のように打つ心臓の鼓動が伝わってくる。
「全然、そんな風に見えなかった」
「絵を通してなら、すぐにわかるくせに」
「そう……なんだけど……」
手首を握られて手のひらを胸に当てたまま、私は顔を上げる。
すぐそこにセウラスの顔があって、私は慌てて目を伏せる。彼の声が降ってきた。
「今は、なにを考えているのか」
「え?」
「わかる?」
私はまた、顔を上げる。
セウラスの瞳がこちらを覗き込んでいた。
「……もう一度」
「当たり」
私は目を閉じる。
また同じように優しい感触。
けれど少しだけ、激しくて。
私の頭を抱えるように持っている彼の両手が、私の髪をまさぐる。
私は彼の背中に腕を回した。
少しして唇が離れて、私は大きく息を吐いた。
「……なんだか」
「うん?」
「なんだか、変な感じ。現実じゃないみたい」
「そうだね、私もそんな感じだ」
そう交わして、私たちは笑い合った。
私は彼の肩に頭を乗せる。
「私たち、どうなっちゃうんだろう」
「どうなるんだろうね」
「わからないわ」
心の中にずっとあったなにかを洗い流して。
代わりに温かななにかを手に入れて。
私は急速に満ち足りてきていた。
彼の傍は、とても安心する。
「ずっとそばにいて、アメリア」
彼の声が、身体中に染み渡る。
その声を聞きながら、私は眠りに落ちていった。
◇
窓から入る陽の光に、私は目を覚ました。
「おはよう」
頭の上から声が降ってくる。
思わぬ声に、ぼうっとしていた頭が急激に回転を始めた。
バッと顔を上げると、なにかが頭に当たった。
「いたっ」
セウラスがすぐ傍で、顎を押さえて俯いている。
「効いた……」
「あっ、えっ、ごめん」
慌ててそう謝ると、彼は手を顔の前でひらひらと振った。
「えっ、あれ?」
私は目を何度か瞬かせる。そしてきょろきょろと辺りを見渡した。
私の部屋だ。窓の外はもう明るくなっている。
ちょっと待って。状況を整理しよう。
今、私の頭が彼の顎を打ったということは、彼の肩に頭を乗せたまま眠ってしまったということか。
なんてこと。
「まさか覚えてないとは言わないよね?」
私のその様子を見て、セウラスは眉をひそめて訊いてきた。
「覚えてる……覚えてるけど」
昨日、お互いに昔語りをして。
二人、寄り添って。
そして、口づけを交わした。
「私……いつの間に寝たの?」
「割とすぐ」
「そ、そう」
すぐ傍にある彼の顔を見上げて。そして慌てて目を逸らした。
まずい。涎が出てたりしなかったかしら。
私は手のひらを自分の顔に当てて軽くこすった。寝起きの顔を見られるなんて、恥ずかしすぎる。
「えっと、あの、ご、ごめんなさい。本当は帰りたかったわよね?」
「まあ、もう遅かったし、どっちでも良かったかな。でも、いいもの見れたから」
「いいもの?」
「寝顔」
そう答えて、セウラスはにやりと笑った。
「そんなの、いいものじゃないわよ!」
顔を見られないように、私は両手で顔を覆った。
「どうして? 可愛いのに」
その言葉に、ばっと顔が熱くなる。
恐る恐る顔を覆った手を離して、彼の顔を見た。
にこにこと笑っている。
「よくそんなこと、平気な顔して言えるわね」
「そう? 変?」
「変」
私がそう返すと、セウラスはうーんと考え込んだ。
「普通に褒めただけなんだけど。どこが変?」
真面目な顔をして、こちらを覗き込んでくる。
私は小さくため息をついた。
「そういうところ、やっぱり王子さまだわ」
「それ、王子関係ある?」
「知らないけど。こんなの初めてだから」
「ふうん」
私の言葉を聞いた彼は、にやにやしだした。
「なによ」
「いや、初めてっていうのは、案外嬉しいものだなと思って」
もうだめだ。いろいろと恥ずかしすぎて死ねる。
私は気を取り直すように、居住まいを正した。
「大丈夫? 王城の人たち、心配しているんじゃない?」
「大丈夫だよ、一晩くらい。昨日は雨が降っていたから帰れないのはわかっただろうし。そうでなかったら、とうにここに迎えが来ているよ」
「そう」
「でもまあ、一旦は帰らないとね」
そう言って彼は立ち上がった。私も一緒に立ち上がる。
私は彼の後をついて、玄関まで行く。離れがたくて、でもそれを知られるのは気恥ずかしくて。両手を後ろで組んで少し離れて歩く。
玄関に到着すると扉を開け、彼はこちらに振り返った。
「じゃあ。今日はたぶんもう来られないだろうから、また明日」
「ええ。また明日」
手を振って厩舎に向かって歩くセウラスに、私は手を振り返す。
すると彼は少しして、踵を返してこちらに歩いてきた。
「忘れ物?」
私は玄関から二、三歩、前に出る。けれど彼はほとんど手ぶらでこちらに通っているのに、忘れ物なんて。
彼は私の前にたどり着くと、ふいに腰を屈めて、そして私に軽く口づけた。
予想していなくて驚いてしまって、私は思わず飛び退いた。セウラスはそれを見てくつくつと笑う。
「なっ、なんっ、なんでっ」
動揺してあたふたしている私を見て面白がっているのか、彼は愉快そうな声で答えた。
「いや、昨日は暗かったから。ちゃんと顔を見ておこうかと思って」
周りに誰かいないか、私は慌てて辺りを見渡した。まだ早朝だし、使用人もまだ来ていない。
それにしても、こんな、外で。
「馬鹿なことやってないで、早く帰りなさいよ!」
「うん」
照れ隠しでそう急かす私ににっこりと笑うと、彼は今度こそ厩舎に向かって行った。
彼の背中を見えなくなるまで見送ると、屋敷の中に入る。
玄関の扉を閉め、背中から扉にもたれかかる。
息が小さく漏れた。
昨日のあの雷雨から起きたことすべてが、夢の中の出来事のようだ。
私は指で、唇に触れた。
けれどあの感触は確かに現実で。
たぶん私は今、世界で一番幸せな女だわ、と思った。




