11. 雷雨
二人で静物を描いて、お互い批評し合って、気が付いたらもう夕方だった。
「そろそろ帰るよ」
窓の外を見て、セウラスは椅子から立ち上がった。
陽が山の向こうに沈み、辺りは暗くなり始めている。
「ああ、いつの間に、こんな時間」
「それだけ集中できていたってことだよ」
「そうね、良かった」
今日の静物はなかなかよく描けたと思う。私は自分の絵を前に、小さく頷いた。
彼の絵も、最初に描いたような恐ろしいような感じはなくなっていて、今はどこか一生懸命さが伝わる絵になっていた。
元々、基礎ができていただけに、素晴らしい進歩を見せている。
「じゃあ、帰るよ」
「ええ、また明日」
「明日」
彼が工房を出て行く、その後ろ姿を見送る。
そして絵の具の片付けを始めてから、少しして顔を上げた。
窓の外が目に入る。濃い灰色の雲が山向こうからやってきていて、空を覆い始めていた。
「降るかも」
引き留めたほうがいいかしら、まだ近くにいるかしら、と慌てて工房を出て玄関まで出た。このまま帰路についてしまったら、王城に到着するまでに濡れてしまうかもしれない。
玄関には見当たらない。厩舎のほうに向かったが、彼の馬はもういなかった。
遅かったか。無事に到着すればいいけれど、とため息をつく。
すると、ゴロゴロとどこか遠くで雷の音がしたのが聞こえた。
「嘘でしょ」
これは雷雨になる。こんな、急に。
どうしよう。
使用人も帰してしまった。今日は誰もいないのに。いや、誰もいないからこそ、帰したのだ。
案の定、ぽつぽつと雨が降り始める。
私は慌てて屋敷の中に入ると、一目散に自室に駆け込んだ。
そしてベッドの中に潜り込む。
思った通りだ。雨が激しくなってきた。ベッドの中にいても、雨が屋根を打つ音が聞こえる。雷の音もどんどん近くなってくる。
ドン、とどこかに雷が落ちたような音がして、びくっと身体が震えた。
怖い。
どうしよう。この屋敷に落ちたりしないかしら。いつまで続くのかしら。お願いだから、早く通り過ぎて。
そんなことを祈りながら震えていると。
コンコン、と扉がノックされる音がした。
恐る恐る、身体を起こす。
誰? 使用人は帰したつもりだったが、まだいたのだろうか。
まさか、泥棒? そういえば、さっき玄関の鍵を閉めた記憶がない。
でも泥棒がノックなどするだろうか。いや、誰もいないことを確認したいのかもしれない。
そんなことをぐるぐる考えて、なんの言葉も発せずに、布団をかぶって扉を見つめていると。
「アメリア? 部屋にいる?」
「……セウラス?」
「ああ、いた。開けるよ、いい?」
「ど、どうぞ」
ベッドの上で身体を起こす。扉がゆっくりと開く。
セウラスは扉からひょいと顔を覗かせた。そのはずみで、彼の栗色の髪から水が一滴、滴り落ちたのが見えた。
「あ、ごめん、寝てた? 気分でも悪い?」
「ね、寝てない。気分も悪くない」
「そう? いや、雨が激しくなってきたから戻ってきてしまった。城よりこちらのほうがまだ近かったから」
「そう。少し濡れてるわね。今、手拭いを……」
ベッドから起き上がって、足を下ろす。
そのとき、窓の外が光ったかと思うとすぐさまドンと大きな音がした。
「きゃあっ」
その場でしゃがみ込んで、頭を抱える。
「ああ、これは近いな」
セウラスの、この場にそぐわないのんびりとした声がする。
立て続けにまた窓の外が光り、そして雷鳴。
私は動けなくなって、しゃがんだ体勢で頭を抱えたままだった。
「大丈夫?」
こちらに近寄ってくる足音がする。
「だ、大丈夫……」
そうは答えるが、動けなかった。
「なるほど、気分も悪くないし寝てもいないのにベッドの上にいたわけだ」
私の目の前に、セウラスがしゃがみ込む気配がする。
「雷、苦手なんだね」
「そ、そんなことないわ」
なんとなく弱みを握られたような気分になって、一応言葉では否定してみたが、この状態で信じてもらえるわけもない。
また窓の外が光り、身体を縮こませる。だが雷鳴は、さきほどよりは少し遅めにやってきた。
「少し遠くなったみたいだよ、大丈夫」
「う……うん」
恐る恐る頭を抱えていた手を離し、彼を見上げる。彼の目は面白そうに細められていた。
「な、なによ」
「君は、怖いものなんかないのかと思っていた」
その言葉に、ため息をつく。観念して認めるしかない。
「雷だけは……だめなの……」
「そうなのか。私は割と平気だから、傍にいると落ち着くかもしれないよ」
言いながら、私の横の床に座る。ベッドを背もたれにしてくつろいだ様子だ。
身体も少し濡れているのに気が付いて、慌てて立ち上がって箪笥から手拭いを取り出す。
それを彼に手渡すと、ありがたい、と髪を拭き始めた。
私はまた、彼の隣に座り込む。
「なにか理由でもある?」
ふいに訊かれて顔を上げる。彼が首のあたりを拭きながら、こちらを見つめていた。
「いや、雷が怖いって、少し意外だったから。怖い目に遭ったことがあるのかと思って」
少し考えて、私は口を開いた。
「怖い目に……遭ったわ」
「そうなのか。無事でよかった」
彼の言葉に苦笑して、私は首を横に振った。
「本当に近くに雷が落ちたとか、そういう怖い目じゃないの」
「ふうん?」
外はまだ雨が降り続けている。雷の音もときどき聞こえる。けれど隣にセウラスがいるからか、少し落ち着いてきた。
でもまだ、ちょっと弱気になっているのかもしれない。
聞いてもらおうか。聞いてもらいたい。心にずっと引っ掛かっていることを。
「あの……」
「うん?」
「長くなるかもしれないけれど……聞いてもらっても、いい?」
おずおずとそう問うと、彼は手拭いを首にかけて、小さく笑って頷いた。
「いいよ。どうせ雨が止むまで、城には帰れない」
その返答に、ほっと息を吐き出す。
そういえば、このことをちゃんと人に話すのは初めてかもしれない。
雷雨で弱気になっているせいだろうか。
それとも、相手がセウラスだからだろうか。
「えっとね」
「うん」
「父さんが宮廷画家になる前、私たち、下町に住んでいたの。小さな家で。ううん、家って言っても、一階が食堂で、二階を間借りして。こんな大きなお屋敷に住むようになるだなんて、思ってもみなかった。ここは、宮廷画家になったときに王城から与えられたお屋敷なのよ」
「うん」
その辺りは、もしかしたら知っているのかもしれない。彼は私の話に、素直に頷いた。
「その頃はまだ母さんもいて。貧乏だったけれど、不満なんてなかった気がする」
父がいて。
母がいて。
私たち家族は貧乏で、家賃を払うのもままならなくて、新しい蝋燭を買うこともできないようなときもあって、暗い中で一人、仕事から帰ってくる母を待っていたこともあった。
けれど間違いなく、私たちは幸せだった。




