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総理大臣が午前3時に公務をしただけなのに

作者:

 漆黒の夜は、都会の喧騒を遠い幻のように飲み込み、総理公邸の分厚い壁の外側で静かに脈打っていた。時刻は午後10時05分。


 総理大臣・鷹峰玲司は、重厚なマホガニーの机に向かい、深く息を吐いた。

 白いワイシャツの袖は肘まで捲られ、蛍光灯の光を反射する眼鏡の奥の瞳は、疲労の色を隠せないでいた。彼の前には、大量の書類が山積しているが、その手は完全に止まっている。


「総理、失礼いたします」


 内閣官房長官、神楽坂義一が、まるで定時を告げる教頭のように、慇懃無礼に頭を下げた。神楽坂の背後には、答弁作成班の官僚たちが、心なしか解放されたような表情で控えている。


「神楽坂長官、今日の質問通告は尋常ではない。外交上の機密を含むものが多く、明朝までに完成させなければ、国益に重大な影響が出るぞ」


 鷹峰は、机の上の分厚いファイルを叩き、苛立ちを隠さなかった。

 神楽坂は、その苛立ちを静かに受け流す。


「総理。承知しております。しかし、公職労働基準法 第十二条をご再読ください。『特別職を含む公職者の法定労働時間は、原則として一日八時間、一週間で四十時間を超えてはならない。』」


 神楽坂は、まるで法典を読み上げるかのように、淡々と言葉を紡いだ。

 彼の眼差しには、どこか鷹峰の「理想」が足元を掬われるのを愉しむような、老獪な光が宿っていた。


「そして、最も重要なのは第二十一条です。『午後十時から午前五時までの深夜公務は、公労庁による事前厳重承認を受けた極度の緊急時を除き、これを厳禁する。違反者は、特別公務罰則の対象となる』」


「だが、これは極度の緊急時だ! 明日の国会答弁が遅れれば、国際的な信頼を失う。それは、この法律の掲げる『国民の福祉増進』に反するのではないか?」鷹峰は声を荒げた。


「総理。公労庁の判断基準は、感情論ではありません。彼らは、過去の過労死や不祥事の記録に基づき、『行政の持続可能性』を最優先しています。担当官僚は、今、すでに法定労働時間を十五分超過しております」


 神楽坂は、腕時計をちらりと見て、再び深々と頭を下げた。


「彼らを深夜まで働かせれば、総理自身が推進した法律の『第一号違反者』となる。それは、クリーンな行政を目指す総理の理想にとって、致命傷となるでしょう。我々は、法を破るために行政改革を行ったのではありません」


 神楽坂の言葉は、完璧な正論だった。

 鷹峰の推進した、この徹底した改革法は、抜け道のない、まさに鉄の掟だった。公務員や官僚への労働基準法適用拡大は、国民から熱狂的に支持されたが、その厳しさは、今、政治のスピードを著しく鈍化させていた。


「わかった。全員、明朝に備えよ。神楽坂長官も」


 鷹峰は唇を噛み締め、悔しさに目をつむった。官僚たちは安堵のため息を漏らし、一斉に公邸を後にした。

 彼らが去る際、鷹峰に律儀に頭を下げた顔には、解放感と、監視機関の一員としての複雑な感情が入り混じっていた。



---



 公邸から車で十分ほどの場所にある、公職労働監督庁(公労庁)の中央監視室。


 香月咲は、数十台のモニターが並ぶ巨大な壁を見つめていた。室内の光は落とされ、モニターの青白い光だけが彼女の顔を照らしている。


 彼女はかつて、財務省のエリート官僚だった。しかし、過酷な残業の果てに倒れ、長期療養を余儀なくされた経験を持つ。その経験が、彼女をこの「新制度の番人」へと変貌させた。


「総理公邸のログはどうなっている?」


 香月は隣に立つ部下に問いかけた。声は低く、感情を感じさせない。


「午後10時01分、すべての特別職以外の公職者のログは遮断されました。神楽坂官房長官、官邸を退出。鷹峰総理は、現在も執務室におられますが、業務端末の操作ログは停止しています」


 部下が機械的に報告する。


「継続監視。総理大臣とはいえ、特別職公務罰則規定が適用される。特に、公労法第十九条『深夜公務の自発的継続の禁止』に抵触する行為がないか、入念にチェックしろ」


 香月は、モニターに映し出された、鷹峰公邸の俯瞰図を注視した。執務室の窓だけが、ぽつりと明かりを灯している。


『持続可能な行政』


 それが、彼女の唯一の信念だった。

 行政とは、個人の犠牲の上に成り立つべきではない。それは、総理大臣であっても同じだ。彼女は、鷹峰総理の理想主義が生んだ、この厳格な法律が、誰にも平等に適用されることを望んでいた。


 それは、かつて自分のような犠牲者が出ないための、絶対的な防御線だった。



---



 午前1時45分。総理公邸 執務室。


 鷹峰は、机の上の分厚いファイルを手に取った。それは、官僚たちが時間切れで放棄した、未完成の答弁草稿だった。墨で引かれた線や、鉛筆の走り書きが、彼らの苦闘を物語っている。


 彼は、もう一度、公労庁への『緊急避難申請』を試みようとした。公用スマホを取り出し、専用アプリを起動する。


「くそ……」


 アプリの申請画面には、赤文字で「現在時刻における申請は、原則として事象発生の三時間前までに行う必要があります。システムによる緊急性の承認は得られません」という警告が表示されていた。


 公労庁は、『偽装された緊急性』を防ぐため、申請手続きを極めて厳しくしていた。

 事前に予測可能な事態や、単なる準備不足は、緊急とは認められない。今回の質問通告の遅延は、まさにその境界線上にある。


 鷹峰は、苦々しくスマホを机に叩きつけた。


「国民の負託に応えるために、法を破るのか。法を守るために、国益を損なうのか……」


 彼は、立ち上がり、窓の外の漆黒の闇を見つめた。


「法とは、手段であるはずだ。目的ではない」


 その声は、虚空に消えた。彼が政治家になった原点、「国民への責任」という熱い炎が、冷たい法の鎖に絡め取られ、もがき苦しんでいる。



---



 午前2時50分。

 鷹峰は、自らコーヒーを淹れ、再び執務室の椅子に腰を下ろした。


「私が、やるしかない」


 彼は、官僚たちが残した外交機密文書、特に機密性の高い箇所の答弁案の精査を始めた。専門知識が必要な部分は多いが、これまでの経験と、徹夜で詰め込んだ知識で、なんとか整合性をとっていく。


 手がけているのは、『太平洋経済安全保障枠組み』に関する、極めて複雑な内容だった。

 野党の質問は、その枠組みの中の、わずか数カ国の微妙な利害関係を突くものだ。官僚たちが作成しきれなかった部分こそ、最もデリケートな政治判断が要求される。


 鷹峰は、答弁書を赤ペンで修正し、新たに数行の言葉を書き加えた。それは、国際社会に向けた、日本政府の揺るぎない意思表明となる一文だった。


 そして、その修正案を、深夜でも連絡のつく外務省の担当者に送り、最終確認を取る必要があった。


 午前3時00分。

 鷹峰は、部屋の隅にある古いファックス機に近づく。それは、セキュリティー確保のため、あえて最新のネット端末ではなく、独立した回線を持つアナログ機だった。


「これで……」


 彼は、答弁書の最終ページをファックスの挿入口に差し込んだ。

 ファックスがギーギーと耳障りな音を立てて、ようやく最後のページを吐き出した。鷹峰は、額の汗を拭う。


 その時、公用スマートフォンが、微かな、しかし聞き逃せない電子音を発した。

 それは、公労庁のシステム通知音だった。


 公労法第十七条『公用機器の利用ログ義務化』に基づき、ファックスの稼働時間、公用PHSとの通信履歴、そして執務室内の環境センサーが検知した体温と心拍数の上昇が、「職務行為」として記録され、自動的に公労庁へ送信されたのだ。


 鷹峰は、自らが定めた法律の、目に見えない檻の中に閉じ込められていることを悟った。彼の体は、理想と現実の板挟みになったような、鋭い痛みを訴えた。



---



 翌朝 午前8時30分。総理公邸 執務室。

 朝日が公邸の庭園を照らし、清々しい空気が流れていたが、執務室の雰囲気は、夜の間に一変していた。


「鷹峰総理、職務質問のため参りました」


 声の主は、香月咲。公労庁の特別監査官だ。

 彼女の背筋は定規のように伸び、制服は完璧に着こなされ、一切の感情を排した冷たい視線が鷹峰に向けられていた。


 香月の隣には、内閣官房長官の神楽坂が、憮然とした表情で立っている。彼は、鷹峰の行動を予期していたかのように、早朝から公邸に駆けつけていた。


「昨晩の件ですね。香月監査官」


 鷹峰は、疲労を隠さず、真っ直ぐに彼女を見返した。

 香月は手に持った電子タブレットを操作し、簡潔に告げた。


「昨晩、午前3時00分から午前3時15分にかけて、公邸執務室内の公用ファックスの稼働ログ、および公用PHSの通信履歴に、『職務行為』を示す確実な記録が残されています」


 彼女は、鷹峰を見据えた。


「これは、公職労働基準法 第二十一条が定める『深夜公務の厳禁』に明白に抵触します。また、緊急避難の事前申請ログは確認されませんでした。総理、事実関係に誤りはありますか」


 鷹峰は、一瞬言葉に詰まった。


「誤りはない。私が、自らの意思で職務を継続した」


 神楽坂が、横から口を挟んだ。


「香月監査官、待っていただきたい。これは外交上の極度の緊急時であった。総理が、国益を守るために行った、人道上の配慮と解釈すべきではないか?」


 香月は、神楽坂に視線を向けた。その視線は、冷たく、そして鋭かった。


「神楽坂長官。公労法 第三十五条『緊急避難の定義と適用除外』をご確認ください。『国益の損失回避は、事前に予測・準備すべき行政の責務であり、個人の労働時間超過を正当化する極度の緊急事態には該当しない』とあります」


 香月は、再び鷹峰に向き直った。


「総理。国民への最大の奉仕は、ルールを守り、行政を持続可能にすることです。総理自身が定めた法律です。政治家の都合の良い解釈は許されません。我々は、このログに基づき、特別公務罰則の適用を検討します」


 彼女の言葉には、一切の揺るぎがない。鷹峰は、自らの理想が生んだ法律の、冷酷なまでに厳格な公平性に直面していた。



---



 午後。内閣官房長官室。

 神楽坂は、秘書官を全て退出させ、高級な絨毯の上を静かに往復していた。彼の口元には、満足とも焦燥ともつかない、複雑な笑みが浮かんでいる。


(鷹峰の若造め。理想論だけで政治ができると思ったか。この法律は、結局、彼の首を絞める鎖になった)


 神楽坂は、鷹峰の理想主義が嫌いだった。

 政治とは、裏工作と妥協、そして時には、ルールを巧妙に迂回する知恵で成り立つものだと信じていたからだ。


「官房長官、職務復帰の申請書です」


 秘書官が、静かに部屋に入ってきた。


「ああ。結構だ」神楽坂は申請書を受け取り、それを卓上に置いたまま、公労庁へ電話をかけた。


「香月監査官か。神楽坂だ。総理の件で話がある」

『長官。公労庁は、特定の政治家との接触を禁止されています』香月の声は、電話越しでも冷たかった。

「待て。私は、総理の擁護に来たのではない。むしろ、この件で公労法の運用上の不備を指摘したいのだ」


 神楽坂は、声を低くした。


「総理は、外交上の危機回避という『大義』のために、法を破った。これは、国民からの負託という、労働基準法では測れない、政治家特有の責任感から生まれた行為だ。この法律は、政治家という特殊な職務に対する配慮が、あまりにも欠けている」


『長官の主張は、規則改正委員会に提出してください。現行法の下では、深夜公務は罰則対象です』


「分かっている。しかし、このまま総理を罰すれば、国民は『この法律は、国益を損なう愚法だ』と判断するだろう。総理を罰することは、公労法そのものの信頼性を傷つけることになるぞ」


 神楽坂は、言葉を巧みに選んだ。

 鷹峰を擁護しているようで、実際は法律の不備を指摘し、自己の支配下で法を修正するための布石を打っていた。


 香月は、電話口で沈黙した。彼女にとって、法律の信頼性こそが、命よりも重いものだったからだ。


『……ご意見は承りました。しかし、裁定は変わりません。公労庁は、明後日、最終処分を公表します』


 香月は、電話を切った。神楽坂は、電話を置くと、満足げに笑った。


(これで、鷹峰は失脚。そして、この法律は、私によって『現実的』なものへと修正される。すべては、私の計画通りだ)



---



 公労庁 最終裁定日。


 記者会見場に集まった報道陣のフラッシュが、眩しい光を放っていた。壇上には、香月監査官が、鉄壁の表情で立っている。


「公職労働監督庁は、鷹峰玲司総理大臣に対し、公職労働基準法 第二十一条及び第三十五条の違反を認定しました」


 香月の声は、会場に響き渡った。


「その結果、特別公務罰則規定に基づき、鷹峰玲司総理大臣に対し、『公務停止(総理大臣職務一時剥奪)』、および罰金五千万円の処分を決定しました。この裁定は、本日をもって発効します」


 会場は、一瞬の静寂の後、爆発的な騒めきに包まれた。


『総理は辞任するのか!?』

『公労法は、行政を混乱させる愚法ではないか!』

『裁定は、政治的意図があるのか!?』


 香月は、一切動じなかった。


「本庁の裁定は、法とログに基づいたものです。政治的意図は一切ありません。行政の持続可能性と公平性を確保するため、この裁定は不可避でした」


 その夜、鷹峰は、公邸の自室で、テレビに映る香月の冷たい表情を見つめていた。彼の隣には、辞任届が置かれている。


「香月監査官……君は、正しいよ」

 彼は、静かに呟いた。「法は、常に正しくあるべきだ。たとえ、その正しさが、私という個人を断罪するものであっても」


 彼の心は、悔しさよりも、自らの理想が、誰にも媚びることなく貫かれたことへの、複雑な満足感で満たされていた。



---



 翌日。国会 衆議院本会議場。


 国会は異様な熱気に包まれていた。鷹峰は、総理大臣として、最後の演説を行うため、演壇に立った。

 神楽坂は、隣の席で、静かに次の展開を待っていた。彼の顔には、微かな勝利の笑みが浮かんでいる。


 鷹峰は、いつになく穏やかな表情だった。彼はマイクを握り、ゆっくりと、しかし確かな声で語り始めた。


「私は、法を犯しました。私が定めた法律を、私自身が侵した。この事実に、弁解の余地はありません。私は、公労庁の裁定を受け入れ、本日をもって総理大臣の職を辞します」


 ざわめきが本会議場を包む。鷹峰は一呼吸置き、会場全体を見渡した。


「皆様は、『総理が午前三時に何をしたのか』と問うでしょう。私は、野党からの質問通告に対し、外交上の機密を含む、国の行く末に関わる答弁の最終確認を行っていました」


 彼は、声を張り上げた。


「私の行為は、公職労働基準法において、明確な違反です。行政の効率と持続可能性を考えれば、官僚の作業は定時で止めるべきであり、私自身もそれを守るべきでした」


「しかし!」鷹峰は、一歩、演壇の前に踏み出した。

「私は、同時に、国民の負託を前にして、職務を放棄するという選択はできませんでした。あの午前三時、私は、『法を守る公僕』としての自分と、『国民の命運を背負う政治家』としての自分に、引き裂かれていたのです」


 彼の声は、静かに、しかし力強く響いた。


「法は、すべてを律する絶対的な正義です。しかし、政治とは、時として、国民の熱量と危機感によって、法律の枠を超えた奉仕を必要とすることがある。この、『法を守る正義』と『国民の期待に応える責任』という二律背反こそが、現代政治の最も大きな矛盾なのです」


 神楽坂が、隣で苛立たしげに足を組み替えた。鷹峰の演説は、単なる謝罪ではなく、法律そのものへの深い問いかけになっていた。


「私は、法を犯した者として、この罰を受けます。そして、この法律を、より人間的で、より政治家の責任に応えられるものへと進化させること。この矛盾を解消し、『政治と労働の調和』を真に実現すること。


 それが、私がこの経験を通して見出した、次の政治の課題です」


 鷹峰は、深く一礼し、演壇を降りた。その足取りは、もはや総理大臣のものではなく、一人の政治家、一人の人間としての、新たな闘いの始まりを感じさせるものだった。



---



 鷹峰が演説を終え、辞任届を提出した数日後。公労庁中央監視室。


 香月監査官は、静かにモニターを見つめていた。テレビのニュースでは、神楽坂官房長官が暫定総理に就任し、「公職労働基準法は、現実の政治状況に合わせ、柔軟な運用が不可欠だ」と述べている様子が流れている。

 香月の胸中は、静かな混乱に包まれていた。


「監査官。総理の件、報道は収まりません。『公労法は、国益を損なう愚法だ』という意見が、国民から多く寄せられています。神楽坂暫定総理は、第十九条『深夜公務の自発的継続の禁止』の運用基準を緩和する特別委員会を立ち上げる意向です」部下が報告する。

「緩和……」香月は、唇を噛み締めた。


(あの法律は、私のような犠牲者を二度と出さないための、鉄壁の防御線だった。鷹峰総理でさえ、その防御線を破ることはできなかったはずなのに……)


 しかし、鷹峰の最後の演説が、彼女の心に深く刺さっていた。


『法を守る正義』と『国民の期待に応える責任』という二律背反こそが、現代政治の最も大きな矛盾なのです。


 香月は、過去の自分の苦痛と、現在の行政の効率化しか見ていなかった。しかし、鷹峰は、「法を超えて国民の負託に応えようとした」という、政治家としての人間的な大義を示した。それは、彼女の厳格な法律解釈では、裁ききれない領域だった。


「部下を呼んでくれ。公労法 第二十二条『過度な公務負荷の監視義務』に基づく、特別監査チームを編成する」

「特別監査ですか? どこへ?」部下が戸惑ったように尋ねた。


 香月は、モニターに映る神楽坂暫定総理の、裏で何かを画策するような笑みを一瞥し、冷たく言い放った。


「内閣官房長官室だ。神楽坂氏の、公務時間外の非公然接触ログを洗い出す。彼は、あの法律を『柔軟な運用』という名目で、骨抜きにしようとしている。それは、行政を再び過酷な労働環境に戻すことに他ならない」


 香月は、立ち上がった。彼女の目には、もはや過去の個人的な苦痛から来る憎しみはなかった。

 あったのは、鷹峰が示した『矛盾』を受け止め、法律の真の精神、すなわち『行政の持続可能性』を守り抜こうとする、監査官としての新たな使命感だった。



---



 香月は、中央監視室を後にし、公労庁の廊下を歩き始めた。


(鷹峰総理は、法を破った。罰せられるべきだった。だが、彼は、罰せられることで、この法律の限界と、政治の本当の役割を、私たちに突きつけた)


 彼女は、公労法の厳格な適用によって、一時的に行政を「クリーン」にした。しかし、その厳格さゆえに、政治の「人としての責任」を阻害してしまった。


「法は手段である。目的ではない」


 香月は、かつて鷹峰が掲げた「クリーンな行政」という理想の『裏側』を、今、見つめていた。その裏側とは、「ルールの厳格な適用を逆手に取り、再び権力を私物化しようとする者たち」の存在だった。神楽坂暫定総理は、まさにその象徴だ。


 彼女の闘いは、鷹峰総理を断罪したことで終わったのではない。むしろ、本当の闘いは、今、始まろうとしている。


 『公職労働基準法』という、理想の法律を、政治的な思惑から守り抜き、鷹峰が示した矛盾を乗り越えて、真に『持続可能で、かつ国民の負託に応えられる行政』を築くこと。


 香月監査官の背筋は、再び定規のように伸びた。

 彼女は、鷹峰の辞任という、「午前三時の裁き」の後に残された、法と政治の狭間で、孤独な闘いを続けることを決意した。


 彼女の目の前には、まだ、長く、険しい道が続いていた。

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