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五話

「ねえ。君は今の名前、好き?」

「は?」


 問いの意味が分からない。というか。


「従業員全員が、他人の情報を閲覧し放題か」


 かつてノーウィットで危惧した通り、マナシェアによって共有される情報をすべて帝国に管理されるのは問題である気がするぞ。


「サービス提供の兼ね合いで、許可されているね。勿論口外禁止だけど」


 情報の漏洩元が判明したときは、帝国そのものの信用が落ちることになる。ゆえに管理の責任は相応に重いと想像できる、が。


 絶対ではない。罰よりも漏洩に利があると判断すれば、他人の情報を売り渡す節操のない輩はいるだろう。

 発覚するのは被害が出た後だろうから、時すでに遅しだ。


「ねえ、それよりボクの質問に答えてないよ。君は今の名前が好き?」

「なぜそんなことを聞く」


 名前とは、個体判別に便利な記号だ。ギルドカードの登録に必要だったからその場で付けただけで、好きだ嫌いだと考えたこともない。


 改めて聞かれても、困る。

『ニア』という名前が、好きか否か。


 大分身に馴染んだ、とは思う。それはきっと、多くの人々から俺を指し示すものとして呼ばれてきたからだ。


「……だが、そうだな。嫌いではない」


 イルミナやリージェが呼ぶ声が、耳に残っている。だからだろう、俺はきっとこの名前に愛着を感じている。


 正確に言えば俺に名前はないのだが……。この『ニア』が名前でいいんじゃないかと思えるぐらいには。


「うん、そっか。じゃあそれでいいよ」

「どういう意味だ」


 それでいいも何も、他人が登録した名前を変更できる権利などない。


「素敵だね、ってことさ」

「……はぁ?」


 にこりと笑って、シンディはあまり繋がっていなさそうな結論を嬉しそうに口にした。感情は事実喜んでいると思う。なぜ?


 そして彼女の中では、この話は終わり、と言う気配がする。

 時間切れなのも確かだ。もうイルミナの部屋の目の前である。


「おっと。お仕事に戻らなくちゃ。この話はまた今度ね」

「まだする理由があるのか?」


 意味も益も無いように思えるが。


「うん。きっとね」


 きっとと言いつつ、シンディの声は確信していた。だから彼女が考える『その時』が来たら、必ず話題を振ってくるだろう。


 その事実以上には、何を考えているか分からん。

 シンディは扉に向き直り、姿勢を正して扉を叩く。


「はい? どなたでしょう?」

「ルームコール担当者です。ご依頼されて伺いました。ご要望をお聞きいたします」

「え?」


 中のイルミナは心当たりがない、というような声を上げてから扉を開けた。


「頼んでいないはずだけど……。あ、ニアさん、お帰りなさい」

「ああ、今戻った」


 明確な不安がなくとも、馴染みのない土地で親しい相手と離れ、一人で過ごすのは心細さを感じるものだ。


 今のイルミナからは、半ば当然と信じつつも間違いなく俺が無事に帰ってきたことへの安堵があった。

 それはそれとして。


「た、頼んでいない、のですか? 確かに呼ばれたはずなのですが……」

「ううん。少なくともわたしではないわ」

「そ、そんなはずは……。ああっ」


 慌てた様子でマナシェアを確認して、悲鳴を上げる。


「も、申し訳ありません、二階の方でした! まッず!」


 イルミナに深々と頭を下げ、シンディはやや早足で二階と思しき方向へ向かう。俺とのんびり話しながら来た分、時間が押しているとでも言いたげだ。


「大丈夫かな……?」

「まず大丈夫だ。嘘だったからな」


 まったく。ここ最近嘘つきとの遭遇率が高い。


「嘘? だったの?」

「少なくとも、呼ばれていないのを分かったうえであいつはお前を訪ねている」


 だから不審だったんだ。


 そもそも今日働き始めたばかりのシンディが、失敗をしてはならない宿泊客の相手に回されるというのも奇妙だろう。


「わたしと顔を合わせておきたかった、ってこと? でも、何のために……」


 用件を偽って訪ねられれば、誰しも気味の悪さを覚える。

 イルミナもシンディの背が消えた方向へと顔を向けたまま、真意を探る言葉を口にした。


「思考までは分からないが。警戒しておくに越したことはない」

「そうだね。気を付ける」


 真剣な面持ちでうなずいてから、イルミナは改めて俺に向き直る。


「ところで、ニアさんは? わたしに用事?」

「いや、用はない。ただシンディ――さっきの従業員だが。あいつがお前の部屋に行くと言ったから付いてきただけだ」

「やっぱりそうなんだね。ありがとう。わたし一人だったら、彼女が嘘をついているなんて分からなかった」


 今は顔を合わせただけだった。しかし次は分からない。


 何しろシンディは『次』にイルミナと会話ができる材料を作り上げている。呼び留めても正式に謝罪、と言う様子を見せれば疑われまい。


 俺は疑うけどな。イルミナと面識を得るのが目的だったと分かっているから。


「ニアさんは、これからどうする? 夕食まではもう少しゆっくりしてもいいかなって思うけど」

「予定はない」

「そう? じゃあ――」


 続きの一言を発する前に、イルミナは俺の目を見て否定の色がないのを確認してから口にする。


「一緒に過ごす?」


 それでも、訊ねる形で。期待を込めて。


「ああ」


 部屋に戻ってもまたすぐに呼びに来させることになるだろうし。だったらこのまま共にいた方が楽だ。時間を見てリージェを呼びに行くだけで済む。

 俺も一人で退屈に過ごすより、イルミナといた方がきっと楽しい。


「どうぞ、入って。……ふふ。考えてみたら、わたしがニアさんを招くのは初めてだね」


 異性を部屋に招き入れるのは、貴族令嬢にとって重大なことだとこれまでに充分教えられてきた。


「失礼する」


 それでもこの境界を潜れるのが、イルミナにとっても俺が特別である証。

 ぱたんと後ろで閉ざされた扉の音が、いつもとは少し違うような気さえした。




 その後適当な時間になって迎えに行ったリージェは、爆睡していた。初めて訪れた場所で、何と豪胆な……。


 それだけ信用しているということだろうし、俺たちが窺えた以上に慣れない移動で疲れていたかもしれない。もしくは適度な弾力のある、しかして柔らかく肌触りもよいベッドの力か。


 食事は大勢と過ごせる食堂と、周囲の目を気にせずゆったり過ごせる個室の二つが完備。

 身分の高い奴らと顔を合わせてもあまりいいことはなさそうなので、個室を選んだ。


「歩いてみて、帝国はどうだった?」


 ひと眠りして回復したか、リージェには元気が戻ってきた様子が窺える。食もよく進んでいるようだ。


「分かりやすい街だったぞ。迷うこともなさそうな」


 観光客にも優しい作りだ。


「錬金創造祭があるのは、一番街の炎紅玉(フィアルヴィ)広場だけど、そこまで行ってみた?」

「いや。商業ギルドを見て帰ってきただけだ」


 ついでに見慣れない素材は購入してみた。見慣れない物だらけだったので、価格順だが。

 勿論降順で。


「しかし、フィアルビィか。……なぜ炎だ?」

「文明の革命が火からだから、って聞いた気がする」


 成程。


「もう会場は完成しているはずだし。楽しみだなー」

「でも、少し時間はあるよね。十日までどうやって過ごそうか?」


 当日に間に合わないのは笑い話にもならないので、余裕を持って出発した。行程が実に順調だったため、予定通りの余裕があるのだ。


 せっかくの帝都。時間を潰すだけなのはもったいない。


「そうだな。どうせなら帝都でなければないものを体験したいところだが」

「観劇とかどう? ノーウィットじゃ絶対見れないし。グルメ食べ歩きなんかもいいよね。工業区で最新の道具を見るのも実があるし。……むしろ時間の使い方に迷う?」


 本当だ。普段は触れられそうにないものばかりだ。


 ただ、今回は息抜きを兼ねた観光に来ているので、一旦錬金術を忘れて純粋に遊べるものがいいと思う。


 成果を発表する錬金創造祭はともかく、道具やなんかはイルミナには然程興味がないだろうし。


「観劇なんかは、フラッと行って公演が観られるものなのか?」

「人気がある演目や劇団だと難しいけど、入れる劇場はあると思う」


 だったらいいか。劇そのものを目的に来たわけではないので。

 行き当たりばったりで探すのは非効率的ではあるが、想像が付かないので少し楽しくもある。


「よし。なら明日は芸術の町を観光しに行くか」

「それなら帝都の東、イーストシティだね。馬車も頻繁に行きかってるから、何も用意して行かなくても楽しめると思う」

「至れり尽くせりか」


 金さえあればの注釈は付くが。


 食後の腹ごなしをしつつ、明日の予定を立てていく。

 しかし、しみじみ思う。個室で正解だった。余計な邪魔が入らない空間は、確かに贅沢の一つと言えるかもしれない。


「もう、いい時間だね。そろそろ戻ろうか」

「そうですね。明日を楽しむためにも、体調は万全にしておかなくちゃ」

「うん、本当に」


 明るく弾んだ声を上げるリージェに感化されてか、イルミナもいつもよりやや浮いた調子で同意した。珍しい。


 皆がそれぞれに席を立ち、扉を開ける。部屋に戻るその途中で、向かいから人とかち合った。


 食堂は一所にまとめられているから、泊り客と行き会うのはおかしくもなんともない。ただ人数が少ないので、そういう意味ではなかなかの偶然だ。


「おっと。イルミナじゃないか。久し振りだね」


 相手も当然こちらに気が付いて、近付きつつ気さくに声を掛けてきた。


 男性二人連れのうち、声を掛けてきたのは前を歩いていた方。年は二十の前半で、やや癖の強い髪質だ。色は銀青色。瞳は橙色。人好きする柔らかな笑みを浮かべた美青年だ。


 然程美醜に拘りのない俺でも分かる。彼は人の目を、意識を引き付ける、力のある美貌の持ち主だ。


「お久し振りです。ご機嫌麗しく、ヴァレリウス殿下」


 イルミナは深く腰を折り、相手に応じた。俺とリージェもそれに倣う。

 というか今の名前は。


「で、で、殿……っ。皇子!?」

「落ち着け」


 小声でうろたえまくった呟きを漏らすリージェに低く囁く。危険を感じたので神力も込めた。多少なりと効果は出て、リージェは緊張の面持ちではあるものの、思考は戻ってきた顔をしている。


 俺たちのやり取りを見たヴァレリウスが、興味深そうにこちらに視線を固定している。

 ……こちらというか、俺にか。


 だがすぐに視線を外し、イルミナへと戻す。


「うん。久し振りに会った従妹が元気そうで、僕も嬉しいよ。ところで、後ろの二人は友人かな。紹介してくれると嬉しいんだが」

「アストライト王宮錬金術士のリージェ・シェートと、個人でアトリエを営んでいるニアです」


 こうして聞くと、肩書の落差が激しいな。


「錬金術士か。ん、シェート? リージェはモリス・シェートの血縁かな」


 自分に向けられた問いだが、直答していいかを迷ってリージェはイルミナに視線で窺う。うなずかれたのを受けて、覚悟と共に口を開いた。


 リージェ的には直答を許されない方が楽だったかもしれん。


「はい。モリスはわたしの祖母です」

「そうか。彼女は皇宮錬金術士として在籍中、様々に功績を上げたと言う。その孫が同じ錬金術の道で頭角を現すとは、血筋の力も否定できないようだ」


 リージェの祖母は帝国に在籍していたのか。

 納得はできる。彼女の技術は帝国でも通じただろうから。


 定年を迎えて祖国に帰ったとか、そういう感じか?


「そして――ニアと言ったかな。僕の不明か、君の名には聞き覚えがないが……。我が従妹と共にいるぐらいだから、やはり有能なのだろう?」

「殿下」


 ヴァレリウスから半歩程後ろに控えていた、侍従と思しき同行している青年が控えめに囁く。

 耳打ちだから、彼らと俺たちの距離であればおそらく人間には聞こえない声量なんだろうが。


「商業ギルドに記録がいくつか。特に、魔除けの熾火の完成度は事実であれば称賛に値します」


 ……俺には聞こえる。

 皇子の侍従もギルドカードの情報は閲覧自由か。


「それとアストライト王宮からの報告に覚えがあります。新種の魔物の毒の解毒薬を作り、星咲の花から香水を作り上げた錬金術士の名が、確かニアだったかと」

「ほう」


 侍従の報告を受けて、ヴァレリウスの声音が一層興味をそそられた気配になった。

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