二話
一口飲んで茶葉本来の味わいを楽しんでから、イルミナは砂糖を加えた。イルミナほどではないが、俺も少量、砂糖を加える。
……甘い。多すぎた。
「あれ、ニアさんお砂糖は大丈夫?」
「別に食べられないわけじゃない。それに、最近は味覚が少し変わった。自然そのままだと、物足りなく感じるときがある」
「そっか。人の食べ物に舌が慣れてきたのかな」
「そうかもしれん」
『よく分からない刺激』から、旨味を感じられるようになってきた、ということらしい。何事も経験だな。
当面の目標は、共に暮らしてもイルミナやリージェに気を遣わせない食事ができるようになることだ。
「ふふ。いつかニアさんにも思い切り手料理を振舞ってみたいな。そうしたら、受け取ってくれる?」
「勿論」
たとえ苦手でも、可能な限り努力する。
他愛のない話をしたり、しなかったり。日が暮れるまで緩やかに、穏やかで快い時間を過ごす。
そう。俺はこの時間が欲しいのだ。こんな風に一時だけのものではなく、永続的に、当たり前にある瞬間にしたい。
そのことを強く、再認識させてもらった。
よし、励もう。
もうそこからは帝国だというシュクート州は、馬車にして二日で境界を越えた。思っていたよりずっと近い。
国境からさらに四日を経て、州都に到着。飛空艇はそれなりに貴重で運用が大変らしく、限られた都市でしか離発着していないとのことだ。
アストライトに空港がないのは、属国であろうとも他国は他国――という微妙な扱いだからだな。
隣国、帝国とは言っても、地続きの上この近さ。シュクートの町々の印象は、アストライトと大差なかった。暮らす人々を含めて。
ただ、明確な違いもあった。帝国では魔物や神獣の混血も、当たり前に街に溶け込んでいる様子だ。見かけた限り、差別も感じない。
「帝国はハーフを受け入れているんだな」
「能力だけで言えば、ハーフの人の方が優秀だからね。より強大であるために戦力として迎え入れた……っていうのが始まりみたい」
アストライトがハーフに寛容になろうとしているのも、帝国の姿勢を受けてだな。
もしくは頑なに排除し続けている間に、属国間でも溝を空けられたか。
「いっそ帝国で暮らしちゃう? そうすればニアもフードから解放されるよ?」
「俺が本当にハーフだったらな」
忘れてないか? 俺は純粋に魔物だ。
「あ」
一言だけ発して、リージェは提案を引っ込めた。間違いなく忘れていた様子だ。
そのやり取りに、イルミナはくすくすと楽しげに笑う。
「でも、リージェちゃんの気持ちは分かるよ。つい、忘れてしまうよね」
「そうなんですよ! 特に最近は奇妙な言動も減ったし!」
「慣れてきたからな」
あと、これまでどうでもいいと無視してきた人の常識部分も積極的に学び、実践するように切り替えた。その成果だ。
「ニア見てるとさ、意外と人と魔物でもそんなに差とかないのかなー、って思うことあるよね」
「いや、どうだろうな。俺も下級種のときはこんなに物を考えなかったし、そもそも感性も大分違う」
俺には人に合わせようという意思があるし、悪くもないと思っている。人間社会がそれなりに性に合ったんだ。
だが大概の魔物は同じようには感じないだろう。
実際、俺が生まれたダンジョンのマスターなんかは……
「!?」
自分が生じた地の事を思い浮かべたそのとき、通りの向こうにあり得ないものを見た。
「マスター……!?」
「え?」
思わず口をついて出た言葉に、イルミナとリージェがきょとんとして俺を見上げてくる。
二人の反応は見えていたから分かったが、そちらに気を回すことができない。すぐに人混みに紛れて消えた背の行き先を目で追ってしまう。
しかしそれらしき姿が再び視界に入ってくることはなかった。気のせいかと思ってしまうぐらい、何の痕跡もない。
「ニアさん?」
「マスターって……?」
姿を完全に見失ってしまえば、囚われた思考も別の事に向けやすくなる。
息を吐き、俺を見上げたままだった二人の顔に目線を移す。
「生じたダンジョンのマスターがいた……気がしただけだ」
「えっ、ニアの?」
「あれ? でもニアさんが生まれたダンジョンって……」
「とっくに討伐されてる。だから、気のせいだ」
気のせい、のはずなんだ。あり得ないのだから。
世の中には似た人間が三人はいるというし。これだけ多くの生物がいるんだ。特異な存在である原初の魔物だって、似た姿を持つ何者かの一人や二人いるだろうさ。
「……ニアさんのダンジョンマスターって、どんな魔物だったか聞いてもいい?」
「構わないが、語れるほどの接触のない相手だったから大した中身はないぞ」
すでにいない敵の情報なんか求めても、然程の意味はないだろう。イルミナが聞きたいのは、おそらく俺の心境だ。
気を遣ってもらって悪いが、本当に何とも思っていない。
向こうも同じだろう。中級種を経て上級種に進化した今の俺を見ても、おそらく判別つくまい。というか、自分のダンジョンにフォニアがいた事を覚えているかどうかから怪しい。
「女性型だったのは覚えている。名前は、確かセェイラだったか。近い種族や特性も分からないな。唯一断言できるのは、残忍な性質だったというぐらいだ」
「たとえば?」
「聞かない方がいい」
楽しい話ではないし。
「分かった。聞かない」
いっそ余計に悪い想像を掻き立てられたか、リージェは何度も大きくうなずいた。
「足を止めさせて悪かったな。行こう」
「ううん。ニアさんの事が聞けて、むしろ嬉しかった」
「分かります! なんかこう、ニアって、生まれた時からこの形ですみたいな雰囲気あるし!」
「そんなわけあるか。大体、お前は俺が下級種のフォニアだった頃を見ているぞ」
「え?」
当時と比べると俺の姿は大きく変わったし、そもそもリージェは俺の魔物の姿をまだ見ていない。なので気付かないのは当然。
しかしリージェは幼い日、フォニアが家に来ていたのを覚えていた。他に魔物と関わってきていないなら、自然、答えに辿り着く。
「え。……え!? もしかして、あのフォニア? ニアだったの!?」
「多分そうだ。お前の祖母の錬金術がとても美しかったから、俺は今ここにいる」
「ええええ!? 嘘ぉ!」
中々の偶然だったからな。驚くのも無理はない。
「ニアさんがフォニアだった頃かあ……。いいなあ。わたしも見たかったなー」
言葉は拗ねているか羨んでいるかといったところだが、実質はそれほどでもない。……多少は入っているが。
「す、すみません」
別に悪い事をしたわけではないはずだが、リージェは本当に申し訳なさそうに謝った。
自分一人だけが得たものの価値を認めて、気が引けているのだ。
というか、俺のフォニア時代なんか別にそんな価値はないだろ。……あるのか? まあ、リージェとイルミナにはある……らしい?
少し逆に考えてみる。リージェの幼少期は知っているが、その成長過程やイルミナの子ども時代……。
……若干、気にはなる。そういうことか?
「ううん、そこはね、運命だから。仕方ないよね。だからいつか、わたしとも特別な思い出を作ってくれたら嬉しいな」
「いずれな」
これから、いつか――という話なら、機会は多くあるだろう。互いの気持ちが変わらない限り、ずっと。
「うん。沢山、思い出を作ろう。わたしとも、皆ででも。――そしてきっと、リージェちゃんともね」
それは皆で笑い合った思い出がいい。むしろでなければ意味がないとまで言えるな。
きっとできるだろう。俺たちなら。
「それはそれとして、ニアさんのフォニア時代ってどうだったのかな」
「普通にフォニアで、可愛かったですよ。青い小鳥でした」
確かに青かったし小さかったなと、リージェの形容した内容を自身でも思い返しつつ、空港内へと入る。
そこは少し騒がしかった。そしてすぐに、その理由も知れる。
「ちょっと、どういうことなの!」
「申し訳ありません」
癇癪を起こした女性の声と、謝罪する男性の声が聞こえてきたので。何事かが起こっているのは間違いない。
「どうしたんだろ……?」
声の出どころは進行方向から。こちらも用事があるので、とりあえずそのまま進む。
「あまり込み入った面倒ごとでなければいいが」
飛び立てない、という展開は勘弁してもらいたい。
若干の不安を覚えつつ、現場へと近付いていく。そこには人垣ができていた。
騒ぎの中心を遠巻きにして人が集まっているせいで、渋滞が余計に酷い。まあ、ここにいる俺たちもその渋滞を作っている一員なのだが。
「きちんと、時刻通りに飛空艇を動かしなさいよ! こっちはそれに合わせて予定を立てているのよ!」
「申し訳ありません。ですが不慮の事故でどうしても動かせず……。調整次第、動かしますので」
「今すぐ行かなきゃ間に合わないのよ!」
どうも、運航予定が遅延していることに対しての苦情のようだ。
「無理だと言っているだろう。諦めろ」
ここで騒ぎ続けられると余計に遅くなりそうな気がしたので、声を掛けることにした。
「諦められるわけないでしょう! 大事な用事なんだから、責任取りなさいよ!」
ん?
「運航予定と食い違いが出たときは、保証を行うものなのか?」
そういう規約があるなら、女性の言は一理ある。
飛空艇運用の制度についてよく知らないので、把握しているだろう職員に訊ねてみた。
「こちらの過失によって重大な被害を出したときは、保証することもございます。ですが安全な航行のため、やむを得ず予定を変更することはその限りではありません。どうかご理解ください」
だろうな。
「と、いうことらしい。責任を求めるのは難しいだろう。それが正しいと言うのも複雑ではあるが、どうしても遅れられない大切な用事なら、余裕を持って行動するべきだった」
時間は巻き戻せないので、今回の教訓を活かして次回から改善すればいいのではないだろうか。
「これ以上騒がれるつもりなら、航行の安全確保のため、貴女を乗船禁止処分にしなくてはなりません。どうか、ご理解ください」
「――ッ」
この先飛空艇が使えなくなる方が困ると思ったか、女は職員と俺を鬼のような形相で睨むと去って行った。
「……もう、乗船禁止でいいんじゃないのか」
いつかどこかで面倒ごとを起こしそうだぞ。
「そうですね、警戒リストには載せることになるでしょう。もう一度どこかで何かがあったらそのときは、ですね」
苦情の受付には慣れているのか、職員はしっかり計測していた女のマナ情報を、手にした端末に入力していた。
たとえ慣れていたとしても、億劫な物事への心労がなくなるわけではない。職員は一つ息を吐くと、気持ちを切り替えようと努めてから改めて俺に向き直る。
「説得へのご助力、感謝します。では」
「待て。遅延の理由を聞いてもいいか?」
頭を下げて仕事に戻ろうとした職員を呼び止めて、訊ねてみる。
「機体の整備に少々時間がかかっています。ああ、ご安心ください。万全の状態で飛ぶための整備ですから、大したことではありません」
事を大きくされるのを嫌がって、職員は本当に大したことがなさそうな口調で言ったが――嘘だ。
「では、失礼します」
「ああ、すまない。時間を取らせた」
「とんでもない。お客様の不安を解消し、空の旅を楽しんでいただけるように計らうのも、我らの仕事ですので」
マニュアルにあるのだろう答えを、ほんの少しの本心と共に口にして職員は去って行った。
「整備かあ。それなら仕方ないね」
「早く終わるといいですねー」
職員の答えを素直に受け取ったイルミナとリージェが、そんなやり取りを交わす。
二人の態度からして、飛空艇の運航が予定と多少ズレるのはよくある事のようだが……。
「今の説明は嘘だったぞ」
「え!?」
「理由は別だ。ただ、彼の雰囲気からして本当の理由の方も大した事ではないと思っているのは聞き取れたが……」
機体の整備などではなく、運用している者にとってあまり公にしたくない理由なんだろう。
さすがに内容は分からない。こんなに人が沢山いて騒がしい場所で、目的の話をしている者を聞き分けるのは骨が折れる。あまりやりたくない。
「な、なんか、怖いんだけど……」
「自国だったら査察を入れたいところだね。シュクートに干渉なんて、もちろん無理だけど」
「事実大したことがなくて、安全に着けるのを祈るばかりだな」
事故が起こって落ちたとしても、イルミナとリージェぐらいは庇って着地できると思うが、それだと後々罪悪感が増す。
ここは後悔しないよう、船全体を護れるように備えておくべきだろう。




