九話
「あッ」
先に立って歩き出した俺に付いてこようとして、マリーエルザは小さく声を上げた。
そう酷くはないが、痛みを感じて怯んだような気配だ。振り返ってみれば、すでに何事もなさそうに表情を繕っていた。
「ごめんなさい。置いて行かれるかと思って、びっくりしてしまいましたの」
気弱そうに微笑んでから、数歩分空いてしまった距離を縮めるべく踏み出す。いつも通りに優雅に、平然と。微笑みを保ったまま。
痛めたのはおそらく足。普段歩かない上、そもそも機能的でもない靴で逃げるために走れば捻るぐらいはしてもおかしくない。
痛くないわけではないはずだ。しかしマリーエルザはそれを痛いとは言わない。
己が不調であることを知られたくない、という気配がする。身を護るためか、恰好を付けるためかは分からないが。
近く、それでも節度を保って空けられていた空間を、俺の方から踏み越える。瞬間、マリーエルザが警戒して身を引いた。
だが彼女の動きは物凄く鈍い。俺が腕を取って抱え上げる方が早かった。
「きゃあ!?」
「運んでも構わないんだろう。大人しくしていろ」
魔法で治して自分で歩かせても構わないが、マリーエルザの歩調はおそらく遅い。そちらに合わせる方が疲れる気がする。時間も惜しい。
「――……」
断るための言葉を紡ぐために唇を震わせるが、途中で思い直したようだ。ややあって大人しく俺の首に腕を回して身を任せてきた。
痛い足を引きずって歩くのは、まあ嫌だよな。
「どうして分かりましたの。わたくし、これでも表情筋はよく鍛えていると自負していますのよ」
「そうだな。次は声も鍛えるといい」
実際、フォルトルナーとしての能力がなければ俺はマリーエルザの意図を読み取れていない。
「……努力しますわ」
見抜かれた以上、否定はしてこなかった。この辺りは潔い。
「ついでに、白々しい演技もしなくていい。家の事情がどうだろうと、とりあえず邪魔をしないなら構わないし、お前も意に沿わないことをしなくて済んで丁度いいだろう」
マリーエルザにしてみれば、いずれ俺を破滅させるために篭絡しておくのは無駄ではないので、続けるつもりでいただろうが。
現状、彼女が妨害に積極的ではないと分かった俺の方は、むしろ付き合う理由がなくなっている。
プライドは相応に高そうだから、見抜かれてなお道化のような振る舞いはしないと踏んだ。
「……貴方は。洞察力は鋭いけれど、性格が甘いせいで色々なことを不利にしていそう」
こちらも潔く、気色の悪ささえ滲んでいた猫撫で声を止めた。大分すっきりしたので、正直これだけで価値がある気さえする。
それはそれとして。
「性格……。甘いか? 俺が?」
「ええ。わたくしは貴方が演技に気付いていると知らなかったのだから、騙されているフリを続けるべきでしたわ。そうして必要なときにわたくしを出し抜くのが合理的というものでしょう」
なるほど。面倒を取って交渉の一つをふいにしたと言うのなら、確かに俺の考えは甘いと言われるかもしれない。
「そして気付いてなお、わたくしを排除しようと考えていない。なぜ?」
「お前が去っても、別の誰かが来るんだろう。今度の奴はお前より本気度が高いかもしれない」
「ああ、それはあり得ますわね」
「つまり俺たちは、互いの不干渉を飲み込む理由があるわけだ」
失敗したとなればマリーエルザは咎められるだろうし、俺は新たに送られてきた人物にまた警戒を割かなくてはならなくなる。
マリーエルザはきょとんとして、数秒考える間をおいてから。
「うっふふふふっ。ああ、本当だわ。――あぁ、おかしい!」
腹の底から笑い出した。
「そうですわね。よく考えたら、わたくしにとっても悪くないお話。ではわたくしに命令をしてくる逆らえない方々を誤魔化すための協力もしてくださる?」
「いいだろう」
俺にとって不利益になる何かを、マリーエルザの策略で成功させたように見せかけるための茶番だな。
それで実際に不利益を被ってやるかどうかは、その時々と程度による。
だが別にマリーエルザは自分が責められなければそれでいいので、結果には拘っていない。互いの利益を護る余地は充分にある。
「ああ、なんだか楽しくなってきましたわ」
言った通り、これまで陰り気味だったマリーエルザの瞳は活力を取り戻して輝いている。
「うふふ」
そしてこれまで必要以上には触れさせてこなかった身体を、やや大胆に密着させてきた。
「もう演技は必要ないはずだが」
「いいえ。むしろ必要でしてよ? だって上手く行っていると周りに思ってもらった方が都合がいいのですもの」
共犯となって、踏み込まれる恐れが消えたせいか。マリーエルザの方にためらいがなくなった。
「だから、ニア様? あなたもわたくしがお願いしたら、付き合ってくださらないとダメですわよ?」
「……状況による」
共犯になったことで拒絶しやすくなったのはこちらも同じだ。
やりすぎると手を組んだ理由もなくなるから、基本は受け入れるつもりではいるが。
「状況が許せばよい、ということですわね? ――ねえ、ニア様。良いことを教えて差し上げますわ」
「何だ」
「わたくし、貴方と触れるのが嫌ではないみたい」
「……」
八割ほどは、自分の保身のために。そして残りの二割は……本気で言っている。
「……それは、良かったな」
八割方の利益の方を重視して、無難に応じた。
「ええ、幸いですわね。では、貴方はどう?」
声に甘やかさを乗せて誘ってくる。試すために。
「わたくしに触れられるのは。わたくしに触れるのは、嫌?」
「嫌という程じゃないが」
マリーエルザの触れ方は、若干恐怖さえ覚えるリージェの羽毛の求め方とも違う。イルミナと交わす優しいやり取りとも違う。
彼女に触れていると、ああ女の体は柔らかいんだなと痛感する。
そしてその柔らかさは、答えたとおり嫌いじゃない。むしろ好きだ。
マリーエルザが胸を強調して誘ってきた理由が、今なら分かる。触れたら多分、気持ちいい。
ただ、マリーエルザはそれを望んではいない。リージェも触れられたり見られたりするのは恥ずかしいと言っていた。
「ふふふ」
マリーエルザには自分が魅力的だという自覚がある。だから俺がその魅力を否定しないことを確かめたかっただけだ。
残る二割の気持ちが、マリーエルザの笑みを艶やかなものにする。
「――ここまででいいだろう」
丁度角を曲がって直進すれば屋敷は目の前、という場所にまで来たので、答えを待たずにマリーエルザを降ろす。流れで屈んで足を治した。
「あら?」
痛みが引いたのにすぐに気が付き、不思議そうな顔をする。
「治癒魔法も使えるのに、どうして治してくださらなかったのかしら。そんなにわたくしを抱きかかえたかったの?」
そうだと答えれば喜びそうな雰囲気があるが、マリーエルザの機嫌を殊更に取る必要はないので、事実を答えた。
「いや、お前の歩調に合わせて歩くのが面倒そうだと思っただけだ」
「……」
不満そうな沈黙を一拍流してから、マリーエルザは何事もなかったかのように微笑んで一礼した。
「わざわざ送っていただいて、感謝しますわ。それではニア様、ごきげんよう」
「……ああ」
どことなく迫力のある笑顔を残して、マリーエルザは帰っていく。
しかし、人工スケルトン擬きか。自然に生じる可能性など皆無の魔物だ。町に入り込んで酒場に集るのはなお不可思議。
ルーたちに誘導してもらうまでもなく、すでに魔王軍に目を付けられているのかもしれない。
万全の形で迎え撃つのは無理そうだが、難民キャンプの安全を確保したということにしよう。
「なあ、ニア。少しいいか」
そうルーから改まった口調で話しかけられたのは、マリーエルザととりあえずの休戦をした二日後だった。
「どうした」
家に帰るなりの声かけは、普通に不穏だ。待ち構えていた気配がある。
「気になる場所ができた。どうも闇属性の魔力が集まってる場所が近くにあるみたいだ」
「闇属性か」
聖戦の主導を執っているのは光神スィーヴァだが、魔力に属する奴なら己が主神と仰ぐ相手じゃなくともそれなりの信仰心を持ち合わせているだろう。他属性でも不思議はない。
「そう。この時期に、唐突にだ」
そして町に唐突に出現したスケルトン擬きの話は、ルーたちにもしてある。同じ連想に辿り着くのは自然だ。
「実に挑発的だと思わないか。これに乗らないのは嘘だよな?」
「罠と分かっていて踏み込むのはどうなんだ」
「嫌だなあ。相手が智を頼みに仕掛けた罠は、力を持って突破するのが爽快なんじゃないか。逆に力頼みで来たのなら、知恵で追い払えたら最高だね」
「同意できん」
危険は回避したいし、分かっているなら防護策を用意したい。出来る限り。
「でも、放ってはおけないだろう?」
「それはそうだ。教えてくれたことに感謝する」
放置は悪影響しか生むまい。
よしんば俺やルー、ユーリ、もしくは町の戦力を引き離すだけのものであったとしても、確認は必要だ。片付けない限り、延々警戒を強いられる。
「意図を見抜くなら、事情を理解していて、相応の観察眼を持つ人材が必要だ。そして罠だったときに打ち破れる戦力も」
「見に行くなら、俺が適当だろうな」
ルーでもいいが、万が一があると困るので駄目だ。魔力の巣窟に送り込むのは時期尚早でもあるし。同じ理由でユーリも。
となると、魔力影響下でも実力が阻害されない、かつ充分な技量の持ち主の心当たりは……二人だけだ。
リェフマかシェルマか。どちらかに同行してもらいたい。
「なら、さっさと済ませるか。場所の案内だけ頼めるか?」
「いいよ」
「戦力の当てはあるが、立場上動けない可能性はある。相談してみるから家で待っていてくれ」
「了解」
今すぐ取って帰れば、まだ話ぐらいはできるだろう。急ぎの件だし。
自宅アトリエでの調合を考えて、早めに切り上げているのが幸いになった。貴族令嬢であるマリーエルザをあまり遅くまで従事させられない、という事情もある。
この知らせのためだろう、ルーたちもいつもより帰宅が早かった。朱に染まりかけているものの、太陽はまだ天にある。
たった今帰ってきたばかりの道程を引き返して、領主館へ。
貴族街との境界の階段に……そういえば今日はちゃんといたな、見張り。
折角だ。二日前のことを聞いておこう。
階段を上りきったところで思い立ち、振り返る。と、衛兵はびくりとして背筋を伸ばした。
「いいい、異常なしであります!」
「それは何よりだが、別に俺に報告しなくても構わないぞ。もし異常があったらそっちは教えてほしいが」
「はッ。承知いたしました!」
……完全に怯えられている。身から出た錆だが、勝手に恐怖で追い詰められている様は哀れさまで誘う。
まあ、いいか。嘘はつかなさそうだし。
「一つ聞きたいんだが」
「はッ。何でありましょうか」
「二日前の夕方、ここには誰もいなかったようだが。それは予定通りなのか?」
「は?」
まるで想定外の事を聞いた、とばかりにきょとんとされた。ということは。
「い、いえ。そんなはずは……。もしや、き、急に腹でも下してたまたま離れていたんですかね。はは」
乾いた笑いで誤魔化した。ただ、彼自身の感情も含めてそれで誤魔化せたものは何もないだろう。
この言い方からするに、主な担当はこいつではなかったようだ。だがある程度親しい間柄ではありそうだな。
「まあ、そういうこともあるかもな」
「は、はい。あのう。そのことはその、領主様にはどうかご内密に……」
「本当にやむを得ない事情であったのなら、臆せず申し開きをすればいい。カルティエラ殿下は想像力のない愚か者ではないから、斟酌して結論を出されるだろう」
むしろなるべく穏便に済ませようとするタイプではないだろうか。
責任を負う立場の椅子に座る者としては、駄目なときもあるんだけどな。基本は美点だ。
生き物は許されてこそ安堵する。
「ひぃっ!?」
しかし安心しろと言ったのに、むしろ慄かれた。




