三話
「覚悟?」
重大な岐路というわけではない。何に覚悟が必要だ?
「だって、ホラ、わたしたち婚前だしッ」
リージェは『それ』を想像してか、やや顔を赤くして言う。その言葉でリージェが何を気にしているかが分かった。
ただ、言わせてもらうと不要な心配だ。
「安心しろ。言葉の通り、睡眠を取るだけだ。何もしない。俺に確たる地位と財力がないからな」
まずは人の社会での地位と、安定した生活を保障できる財力が必要だ。子を育むためにも充分な備えがないと話にならない。
俺は自分の子どもには健やかに育ってほしいし、志した道を歩いてほしい。そのためには、支える力が必要だ。そして現状、俺はどちらも持っていない。
「アンリエットもカルティエラの事で類した心配をしていたが。世の中には考えなしが随分と多いと見える」
俺は己で責任を持てないものを持つ気はない。持つ資格がない、と思っている。
大切なものなら尚更だ。俺の不甲斐なさで不幸になどしたくない。
「その方がいいと思うぜ、俺も。親に護ってもらえないと、子どもは大変だからさ。俺も子どもに苦労させる親にはなりたくないなあ」
ユーリの口調には実感がこもっていた。多分、己を守ってくれる親がこいつにはいなかったんだろう。
「それが分かってるニアは大丈夫だと思うぜ」
「う、うん。なんか、ごめん」
「いやいや、リージェの心配も正しいぞ。身を護るのに過剰ってことはない。んで、リスクが高いのは女の子であるリージェの方なんだから」
……ああ、そうか。自分がしなければ問題ない、というわけではなかったな。
提案した俺の方から、リージェに安心を与えなくてはいけなかった。
「リージェ」
「は、はいっ」
「誓って手は出さないから、信じて泊まっていけ。俺はお前に危うい目に遭ってほしくないだけだ。もちろん、俺からお前に危害を加えるつもりもない」
それでは本末転倒というものだ。
「だ、大丈夫。本気で疑ってるわけじゃないから、信じる。うぅ。でもどうしてだろ。ちょっと複雑……」
「理性ではするべきではないと判断しているが、実際の所お前は俺を欲しがっているからだろう。――そこも安心しろ。俺もお前が欲しいと思っている」
前にも言った気がするが。
「わっ、わー、わーっ!」
言っている途中でみるみる赤面していったかと思うと、リージェは耳を塞いで奇声を上げ始めた。
「ニア。ノリと勢いで雰囲気に流されて始めるの、本当に止めてくれな? 明日俺が超気まずい」
「しないと言ってるだろ」
心配性め。
「そ、そういえばニア。客室のお掃除とかちゃんとしてあるの?」
「してない」
「だと思った! わたし、掃除してくるから。二人はここでごゆっくり!」
テーブルの上から掻っ攫うように皿を拾い上げると、リージェは流しに置いてリビングを後にした。
逃げたな。
「もしかして、廊下で寝た方がマシか?」
部屋の状態に不安を覚えたらしいユーリがそんなことを聞く。
「リージェはあれで手際がいいぞ。おそらく道具にも頼るだろうが」
かつて俺がリージェに貸したときよりは、空き日数も少ない。大分マシなはずだ。期待していていい。
「そっか。後でお礼しないとな」
「そうだな」
夕食の礼もある。
しかし礼……礼か。
リージェなら、何を喜ぶだろうか。
その後一休みして風呂に入り、上がってくると――リージェが一人でリビングにいた。他の二人の気配は、空室という名から客室に変わった部屋に移動している。
「先に寝ていてもよかったんだぞ」
「わっ」
声をかけると、びくりと肩を跳ね上げて振り向く。
「体内のマナ経路を整えていたのか」
「うん。少しずつやってみてる。あんまり捗ってはいないけど」
「元が元だから仕方ない。だが努力が裏切らないのは間違いない。――手伝うか?」
「じゃあ、少しお願い」
言って差し出されたリージェの手を取り、集中して状態を探ってみる。手首辺りまでは滑らかになった。
末端部分に影響され始めたか、他の場所でも変化がみられる。効果も感じられるようになっているはずだ。
ゆっくりと干渉して、一つ一つを解していく。リージェの体の方でもその経路が別々の役目を果たすものだと認識できたようで、割と素直に変化を受け入れるようになった。
「自分でやってると傷付けちゃいそうで怖いんだけど、ニアにやってもらうのは安心なのよね」
「俺の方が視えている情報が多そうなのは同意する」
事実、危険な変化が起きたら気付ける自信もあるしな。
「最近やっと自覚できるぐらいに分かってきたんだけど。わたし時始めの神々の力と相性あんまりよくないよね?」
「時始め?」
「始まりの週を司る神々のこと。あれ? 知らない?」
「ああ、それで分かった」
人間は世界の暦を定めている。七日間を一週として、四週で一月という区切りだ。
命の曜日から始まって、光、火、水、風、土、闇の順で巡る。一週目が聖神の名で冠されていて、二週目が魔神。最後に冥の曜日が入る。ただ、これは一週の中に入らない。
この流れを二回繰り返して一月だ。
人間が神々の属性に倣って暦を管理しているのは知っていたが、週に個別の名前があったのは知らなかった。
つまりリージェは、自分が聖神が司る神力と相性が良くない、と実感するところまで来たわけだな。
「ついでに聞くが、二週目はどう呼ぶんだ」
「時変わりの神々。で、月の上旬、下旬で呼び分ける感じ」
なるほど。一週目二日なら上旬の時始め、光の日、もしくはディスハラークの日、と呼び変えることもできるわけだ。
単純に数字で表現した方が分かりやすいと思うが。
「まあ、一般的にはもうあんまり使われないけど。魔力や神力を精密に使う人が気にするぐらい?」
それこそ月食や日食のような大きな変化以外で、日にちに然程神々の力が影響することはないはずだが……。
聖域や魔境と同様、長く人々の意識にあることで現実に反映されているのは想像できる。今度意識して調合してみるか。
「今まではあんまり、気になったことなかったんだけど」
「得手不得手があるのは普通だし、実感できるようになっただけ進んだぞ」
以前俺が属性適性の話をしたときのリージェの反応は、経験則以上の実感が薄そうだった。
「魔力とか神力とかって伸ばせる……のよね?」
「鍛えれば伸びる。適正が低くても丸きり使えないわけではないし」
そもそもマナを扱う才がなければ諦めるしかないが。
「――さて。そろそろ寝るぞ」
「う、うん」
手を離して促すと、緊張した声で返事をしつつリージェは立ち上がった。そしてそのまま俺の後に付いてくる。
当然寝間着などを用意しているわけではないから、リージェの格好はリボンなどの装飾品を外しただけ。寝心地はあまり良くないかもしれない。
「な、なに? 変?」
俺がまじまじと見ていたのに気付いて、リージェは自分の全身を見まわして確認しつつ、そう訊ねてくる。
「いや、おかしくはない。ただ寝難そうだと思っただけだ。俺の服はさすがに合わないだろうし」
「大丈夫、どうせ寝れないから!」
おい。
「断言するな。何のために泊めたと思ってる」
「夜を安全に過ごすためでしょ?」
最低限の目的は確かにそこだが……。
「……仕方ないな。来い」
「お邪魔します」
先に入ってベッドの奥に行き、手前に空けた空間にリージェが収まる。
ただし緊張して、心身ともに覚醒しきっていた。本人が言っていた通り、休むどころではない。
――なので。
腕を揃えて真っ直ぐ仰向けになったままのリージェの隣で、軽く息を吸い。
「母よ、母よ、いずこにおわす。光差し、火生まれ、水流れ、風が吹き、土肥えて、闇に眠る。時始め、時変わり、母よいずこにおわすのか」
「!」
癒しの意思を込めて、歌う。
リージェはぴくりと震えて振り向こうとするが、頭を撫で、髪を梳いてそれを止める。
「光溢れ、火は爆ぜ、水暴れ、風が裂き、土割れる。闇が飲み込み時変わり、時始まる。始まり変わり、終わりゆく。母よ、母よ、貴女の命はここにある」
「……何の歌なの?」
撫でられるに任せたまま、リージェは少しぼうっとし始めた口調で訊ねてくる。
「巡る命の幾何か、死して滅びて積もりゆく。母よ死より生まれたまうか。母より生まれ、母へと還る。世の唯一を探せし旅路、今宵の帳は降りようぞ」
「……」
「母よ、母よ、我等が娘よ。次の暁こそ唯一とならん。正しき巡り、平らかなる世の為に――」
リージェの寝息が安定したのを見計らって、手を放す。
何の歌か、か。
「実に遠大な、神の歌だ。地上種たる俺たちにはさして関係のない、な」
おそらくもう聞こえてはいないリージェに答えてから、俺も目を閉じて眠りについた。
…………くすぐったい。
自然の目覚めよりも先に、側頭部でわさわさと鳴る異音と、慣れない感触で起こされた。
どうやら寝ている間に寝返りを打ったらしく、こちらを向いて密着しているリージェの手が俺の翼を弄んでいる。
一瞬起きているのではと疑ったが、本当に寝ている。なんという執着心……。
「う~ふ~ふ~」
少々不気味さまで感じる含み笑いと、緩み切った口元。
どうするべきか、非常に迷う。
無理に起こすのがためらわれる程幸福そうな寝顔を見詰めること十数分。陽が昇って光が差し込んでくると、リージェに変化が訪れた。
「ん……ぅん……?」
ふるりと睫毛が震えて、次にはぱちりと目が開く。その瞳はすでに覚醒していた。寝起きがいいな。
「おはよう」
「おはよ……う?」
挨拶をしつつ、自分の不自然な体勢に気が付き、把握する間を空けて。
「う、わ。ご、ごめん!」
慌てて謝り、手を離した。
「別に乱暴に扱っていたわけじゃないから気にするな」
寝ている間の行動にまで責任を求めるつもりはない。無意識だ。本人にもどうしようもない。本当に耐えられなかったら起こすし。
「……結構長く触ってた?」
「おそらく」
俺が起きたときには、すでに手が翼に埋まってた。熟睡しているときがどうだったかはさすがに分からない。
「やっぱり」
「なぜそう思った?」
「肩が凄く凝ってる」
成程。
それでも手を離さなかったというわけで、求める欲望が最早本能に近いものさえ感じなくはない。
相方が起きたので遠慮なく半身を起こすと、隣でリージェも起き上がった。そしてまじまじと両手を見詰める。
「どうした?」
「惜しかった……。どうして寝てるフリで満喫しなかったんだろう……」
おい。
目を伏せ、苦しげに呟くリージェの声は極めて本気だ。反省より強いぞ。
イルミナには触れたければ自由にしろと言ったが……リージェに同じように許すのはためらいが生まれた。大丈夫だろうか……。
だがしかし。二人の扱いに差を付けるのは本意ではない。イルミナに許した以上、リージェだけ断るというのは落ち着かない。
「…………触れたいなら、好きにしていい」
「え!?」
「……………………程度は考えろよ」
思わず、釘は刺した。
「分かった。頑張って自制する!」
力強く約束はしてくれたが、輝く瞳がやはり少々怖い。早まったか……。
息をついて起き上がり、着替えようとして――ふと思い当たって手を止め、リージェを振り返る。
「着替えるが、構わないか?」
俺は気にしないが、リージェが気にしないかは別だ。
そして事前に確認したのは正解だった。リージェは赤面すると勢いよくベッドから抜け出し、扉に向かって直進。
「お世話様でした!」
振り向き叫ぶように早口で言うなり、出て行った。
昨日寝る前に外した小物を回収し忘れているが。まあ、俺が出て行った後で戻ってきても間に合うものだからな。
ふと思い立ったリージェが戻ってきてかち合うとまた面倒なので、さっさと着替えて俺も部屋を出る。
「はよーっす、ニア」
朝は早い習慣があるのか、ユーリはすでに覚醒しきったようすで椅子に座って待っていた。隣にルーもいる。
「ああ、おはよう。調子はどうだ」
「好調だ。何でもできるぜ」
実に頼もしい返事だ。
「では、朝食を済ませたら早速始めるとしよう」
時間は待ってくれないからな。




