第99話 友情の言葉
黒い箱の持ち主、テオドロスはゴーギャンの手紙を受けとった。そこには、フィンセントのアルルでの所業が書いてあった。
喧嘩の後にフィンセントは異常に達し、己の耳を切って警察に連れて行かれたという内容──。テオは急いでアルルへと向かったのだ。
兄フィンセントは最初は様子が定まらなかったが、弟テオが来たことで徐々に回復に向かう。
落ち着いたのだ。話が出来る。笑うことが出来る。食事が出来る。
精神的におかしくなってしまった兄フィンセントであったが、テオの来訪と共に通常へと戻っていった。安心したテオはゴーギャンを伴ってパリへと帰った。
仕事がある。そしてヨハンナがいる。兄の状態が安定していると思ったのだ。
だが当然、フィンセントの精神状態はテオが帰ってから不安定な状況となった。それは、頼りになるテオがいるから安定していただけだったのだ。
数日後、何も言わずに景色を見ていたと思ったら、突然騒ぎだしたり、暴れだしたりするのだ。
この病院の近くに住む婦女子は、気味悪がった。怖れ嫌がったのだ。
結果、フィンセントはカギ付きの建物に幽閉された。どれほどのレベルか分かるであろう。フィンセントは外界と遮断されたのだ。
フィンセントは恨めしそうに外を眺めた。自分は誰からも不要。その思いがますます強くなる。フィンセントは窓の外を、楽しそうに歩く人々を見ていた。誰も彼も楽しそうだ。自分だけこの場所に置き去りになっているようだ。
幻聴。
幻覚。
目の焦点が合わない。
深い深い沼にずぶずぶと飲み込まれて行くよう。
誰かに飛び掛かって抱き締めたい。そして抱擁されたい。熱く熱く気の済むまで。
そんな日々が続いた。フィンセントは平静すら保てなくなって行った。
ある天気の日。誰も訪れるはずの無い病室でフィンセントは心を押しつぶされそうな思いを抱えながら窓の外を見ていた。格子がある窓。扉にはカギがかけられている。
客が来ても話すことなどできない。
だが幻覚だろうか?
一人の男──。
それが真っ直ぐに近づいてくる。
フィンセントは思わず涙を流す。こんな姿をこの男。この友人に見られたくなかった。彼はフィンセントの姿を認め、門の外から話し掛ける。
「やぁフィンセント。旅行がてらこっちに来てみたんだ。なにやら大変だったようだね」
陽気な明るい男。ポール・シニャックだ。
フィンセントは許される範囲まで出て彼に近づいた。
「おいおい、ものものしいところだな。なんでそんなところにいるんだ」
「あ、暴れるからさ。発作が起きるんだ。人に迷惑がかかる」
「ふぅん」
いつものように軽い返答。どうでもいい。関係ない。自分には関係ないという返答。
かに思われた──。
ポールは持っていた杖を高く振り上げ、鎖を叩き、カギを殴る。それにフィンセントは驚き怯える。
だがポールはそれを何度も何度も続け、カギを壊す頃には杖はダメになってしまった。
ポールは粗く息をついてにこやかに微笑む。
「フィンセント。君を誰も縛ることなんて出来ない。そうだろう──? 君は自由だ。特に絵は。自分の芸術を信じて、自分の絵を描く。誰かに言われ、誰かに捕われて書いたんじゃないだろう? 今までの君はそうだった。誰からも縛られない。頑に自分の絵を描き続けたんだ。君は芸術家。さっさとそこから出て絵を描くんだ。それが君の生きる道なのだから」
あの陽気な男が。フィンセントはしばらくポカンと口を開けて彼を見ていた。
こんなに力説するような男じゃない。万事どうでもいいというような感じの男だった。熱く語るなんて初めてかもしれない。
フィンセントは全てを忘れて思わず微笑む。
「そうだな。君の言う通りだ」
「だろう?」
ポールの思いが届いた。フィンセントは正気を取り戻したのだ。
二人の友人たちは笑い合った。
ポールはその後、パリに帰ってしまったが、フィンセントの体調はみるみる持ち直した。
そしてアルルの黄色い家に戻ったのだ。




