第64話 やる気出た!
茜音が簡易モップを手に取る。長い柄の道具だ。裕はまた叩かれるのかと思って表情を変え手で身を覆った。
「違う。違う。ユタカにお仕事をあげる。明日、あたしがいない間に、こうして掃除をするの」
茜音は笑いながら、そのまま床を一か所モップ掛けをすると、そこはキレイに光った。
「わぁ!」
裕は驚いて可愛らしく拍手した。茜音が預けてみると、裕は丁寧にモップ掛けをした。
「へぇ。すごい。すぐ覚えるね」
「♪ひかる~そらのセイバーをかかげて~きみをまもるのしゃ~♪」
そんな歌を口ずさみながら。茜音は慌てて声を上げる。
「ちょ、ちょ、ちょっと!」
裕は驚いて振り向いた。
「そ、それって、新曲の“光のセイバー”??」
そう言われても裕にはわからない。ただ、アイドルの邑川裕と今までの能力と記憶は共有するのだ。歌も勝手に出て来ただけ。キョトンとした顔をした。
「わ! すごい! 歌って! 歌って!」
「うん。いーよ」
そう言ってニコリと笑う。モップをスタンドマイクのようにして歌い出した。まさに邑川裕そのもの。一定のところまでくると、歌わずに腰をひねって腕を回す。
「すごい! 鳥飼くんのパートはやっぱり歌わないのね! ふふ! すごい!」
別なメンバーのソロの部分は歌わない。組み込まれたアイドルの記憶。たどたどしい舌だが、裕は上手に歌いきった。茜音が喜んでいる。裕は嬉しくなった。
茜音は裕のために空いた衣裳ケースを出した。
「これに、裕の下着をいれておくね。汚れたら自分で着るんだよ?」
「うん」
「じゃぁ、お風呂」
浴室を指差すと裕は震えて涙目になる。
「え……」
また水をかけられる。そう思ったのだ。茜音は恐怖を覚えさせてしまったことに後悔した。形は邑川裕だが、中身は可愛らしい男の子じゃないか。
「ごめんね。裕が汚れたからお風呂で洗うの」
「う、うん……」
茜音に連れられて、首をすくめて怯えながら服を脱いだ。
茜音がシャワーを取る。それすらにも怯えた。だが出て来たのは温水だった。
「あああ、アカネ……。熱い! 熱いよぉ……」
「ええ? 熱くないけど……」
その通り。普通の人にとってはぬるま湯だ。
だが、ずっと裸で過ごしてきた裕の体は冷えきっていたのだ。少しの温度が熱い。
そして傷ついた体にはしみた。
今度は茜音は涙目になった。
「ごめんね。私が意地悪だったね」
そう言って裕の背中に顔をうずめた。
「うん……」
茜音は裕の体を洗ってやった。髪も、体も……。裕はくすぐったいのか身をよじっていた。
風呂を出て脱衣所で体を拭いてドライヤーで髪を乾かした。
ようやく──。裕は優しさにふれた。
茜音は、自分のベッドの隣りに裕の寝床を作った。裕の体は大きい。ソファーにキッチンからイスを持って来て継ぎ足し、それにシーツをかけた。
「ここで、ゆーたん寝るの? うわぁ!」
本当に喜んでいる。少しのことで笑うし、少しのことで大喜びだ。茜音は早くにこうしてやればよかったと思った。裕が灯りを消すと寂しそうなので手を繋ぎ二人は側で眠った。
朝起きて茜音は裕のためにパンを焼き、それにピーナッツバターを塗った。
「わぁ! これ好き~」
そう言って裕はパンを勢いよく食べる。
「ふふ……。美味しそうだね。私も食べようかな?」
そう言って、二人は一緒に食事をした。楽しいひとときだった。茜音はスクランブルの邑川裕のことなど忘れていた。
「残念だけど、会社にいかなきゃ……。裕。ごめんね。お留守番よろしくね」
「うん。いってらっしゃーい」
裕は玄関先まで女を見送りにでた。茜音が靴を履いて立ち上がると、裕の顔が近づいて来る。
「ちょ……」
チュ……
「え……」
口づけをして、裕は微笑んだ。
「ゆーたん、アカネの恋人」
「──そっか」
茜音は真っ赤な顔をして部屋を出た。そして、足早に会社に向かう。何度も何度も唇に手を触れ微笑んだ。
「──恋人……か」
一言コメントつぶやいて足を止める。
「知性っていつごろになったら、今の邑川裕と同じになるんだろう……」
今の裕は少年というか幼児だ。恋人と言ってくれるが、物足りない。大人の裕と恋をしたいと思ったのだ。
「でも……」
思い出す裕の顔。
「今のままでもいいのかも」
そう言いながら、歩道の中央で小さく伸びをした。
◇
茜音は気持ちを入れ替え会社で率先して仕事をする。今の裕は働けない。自分が頑張らなくては。てきぱきとお茶を入れ、部長に仕事をもらった。
みんな、その行動に驚いていたが部の雰囲気がとてもよくなった。
そこへ同僚の大谷が近づいて来た。
「なんか今日、めっちゃやる気出してるって聞いたんですけど~」
茜音は大谷を一瞥もせず、目の前の書類を仕分けていた。
「なに? 忙しいから手短かに」
「ふーん。ホントに忙しそうだなぁ」
「ごめんね」
「それに素直だし」
「まーねー」
「ひょっとして彼氏でも出来た?」
ピタリ
茜音の動きが止まった。
「ま、マジ?」
「うるさいなー! あっち行ってよ!」
大谷は少し残念そうにつぶやく。
「先越されちまったな」
そう言いながら背中を向けて自分の部署に戻って行った。茜音は少しばかりドキリとして振り返ったが、自分には裕がいる。
彼を支えてやらないとという思いで、大谷のことはやはりどうでもよかった。




