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ク ロ い ハ コ  作者: 家紋 武範
女とアイドル篇
64/202

第64話 やる気出た!

 茜音が簡易モップを手に取る。長い柄の道具だ。裕はまた叩かれるのかと思って表情を変え手で身を覆った。


「違う。違う。ユタカにお仕事をあげる。明日、あたしがいない間に、こうして掃除をするの」


 茜音は笑いながら、そのまま床を一か所モップ掛けをすると、そこはキレイに光った。


「わぁ!」


 裕は驚いて可愛らしく拍手した。茜音が預けてみると、裕は丁寧にモップ掛けをした。


「へぇ。すごい。すぐ覚えるね」

「♪ひかる~そらのセイバーをかかげて~きみをまもるのしゃ~♪」


 そんな歌を口ずさみながら。茜音は慌てて声を上げる。


「ちょ、ちょ、ちょっと!」


 裕は驚いて振り向いた。


「そ、それって、新曲の“光のセイバー”??」


 そう言われても裕にはわからない。ただ、アイドルの邑川裕と今までの能力と記憶は共有するのだ。歌も勝手に出て来ただけ。キョトンとした顔をした。


「わ! すごい! 歌って! 歌って!」

「うん。いーよ」


 そう言ってニコリと笑う。モップをスタンドマイクのようにして歌い出した。まさに邑川裕そのもの。一定のところまでくると、歌わずに腰をひねって腕を回す。


「すごい! 鳥飼くんのパートはやっぱり歌わないのね! ふふ! すごい!」


 別なメンバーのソロの部分は歌わない。組み込まれたアイドルの記憶。たどたどしい舌だが、裕は上手に歌いきった。茜音が喜んでいる。裕は嬉しくなった。


 茜音は裕のために空いた衣裳ケースを出した。


「これに、裕の下着をいれておくね。汚れたら自分で着るんだよ?」

「うん」


「じゃぁ、お風呂」


 浴室を指差すと裕は震えて涙目になる。


「え……」


 また水をかけられる。そう思ったのだ。茜音は恐怖を覚えさせてしまったことに後悔した。形は邑川裕だが、中身は可愛らしい男の子じゃないか。


「ごめんね。裕が汚れたからお風呂で洗うの」

「う、うん……」


 茜音に連れられて、首をすくめて怯えながら服を脱いだ。

 茜音がシャワーを取る。それすらにも怯えた。だが出て来たのは温水だった。


「あああ、アカネ……。熱い! 熱いよぉ……」

「ええ? 熱くないけど……」


 その通り。普通の人にとってはぬるま湯だ。

 だが、ずっと裸で過ごしてきた裕の体は冷えきっていたのだ。少しの温度が熱い。

 そして傷ついた体にはしみた。


 今度は茜音は涙目になった。


「ごめんね。私が意地悪だったね」


 そう言って裕の背中に顔をうずめた。


「うん……」


 茜音は裕の体を洗ってやった。髪も、体も……。裕はくすぐったいのか身をよじっていた。


 風呂を出て脱衣所で体を拭いてドライヤーで髪を乾かした。


 ようやく──。裕は優しさにふれた。


 茜音は、自分のベッドの隣りに裕の寝床を作った。裕の体は大きい。ソファーにキッチンからイスを持って来て継ぎ足し、それにシーツをかけた。


「ここで、ゆーたん寝るの? うわぁ!」


 本当に喜んでいる。少しのことで笑うし、少しのことで大喜びだ。茜音は早くにこうしてやればよかったと思った。裕が灯りを消すと寂しそうなので手を繋ぎ二人は側で眠った。


 朝起きて茜音は裕のためにパンを焼き、それにピーナッツバターを塗った。


「わぁ! これ(しゅ)き~」


 そう言って裕はパンを勢いよく食べる。


「ふふ……。美味しそうだね。私も食べようかな?」


 そう言って、二人は一緒に食事をした。楽しいひとときだった。茜音はスクランブルの邑川裕のことなど忘れていた。


「残念だけど、会社にいかなきゃ……。裕。ごめんね。お留守番よろしくね」

「うん。いってらっしゃーい」


 裕は玄関先まで女を見送りにでた。茜音が靴を履いて立ち上がると、裕の顔が近づいて来る。


「ちょ……」


 チュ……


「え……」


 口づけをして、裕は微笑んだ。


「ゆーたん、アカネの恋人」

「──そっか」


 茜音は真っ赤な顔をして部屋を出た。そして、足早に会社に向かう。何度も何度も唇に手を触れ微笑んだ。


「──恋人……か」


 一言コメントつぶやいて足を止める。


「知性っていつごろになったら、今の邑川裕と同じになるんだろう……」


 今の裕は少年というか幼児だ。恋人と言ってくれるが、物足りない。大人の裕と恋をしたいと思ったのだ。


「でも……」


 思い出す裕の顔。


「今のままでもいいのかも」


 そう言いながら、歩道の中央で小さく伸びをした。





 茜音は気持ちを入れ替え会社で率先して仕事をする。今の裕は働けない。自分が頑張らなくては。てきぱきとお茶を入れ、部長に仕事をもらった。


 みんな、その行動に驚いていたが部の雰囲気がとてもよくなった。


 そこへ同僚の大谷が近づいて来た。


「なんか今日、めっちゃやる気出してるって聞いたんですけど~」


 茜音は大谷を一瞥もせず、目の前の書類を仕分けていた。


「なに? 忙しいから手短かに」


「ふーん。ホントに忙しそうだなぁ」

「ごめんね」


「それに素直だし」

「まーねー」


「ひょっとして彼氏でも出来た?」


 ピタリ


 茜音の動きが止まった。


「ま、マジ?」

「うるさいなー! あっち行ってよ!」


 大谷は少し残念そうにつぶやく。


「先越されちまったな」


 そう言いながら背中を向けて自分の部署に戻って行った。茜音は少しばかりドキリとして振り返ったが、自分には裕がいる。

 彼を支えてやらないとという思いで、大谷のことはやはりどうでもよかった。

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