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17. 灯火の下の沈黙

 

 戸口の隙間から射し込む光が、冷たい空気とともに馬小屋を照らしていた。

 鳥の声が澄んだ空に響き、馬が鼻を鳴らす。

 干し草の匂いは夜の湿気を吸い、少し重たくなっている。


 リディアは外套を肩に掛け直し、まだ眠りの余韻に沈むトーシュを見やった。

 彼の呼吸は深く落ち着いており、昨夜よりも顔の強張りは薄れていた。

 その安らかな様子に、彼女はひとつ静かな息を吐く。


「……おはようございます、旦那様」


 声に応じるように、トーシュの片目がゆっくりと開いた。

 天井を見つめたまま、しばし黙し――やがて低く息を吐く。


「……寒いな」

「ええ。ですが天気は良さそうです。街道も歩きやすいでしょう」


 リディアは荷を整えながら、さらりと言葉を継ぐ。

「それに、旦那様のお顔色も少し良くなったように見えます」


「……昨夜の薬か」

「効いてよかったです。苦味は我慢していただくしかありませんけれど」


 トーシュは視線を逸らし、わずかに唇を引き結んだ。

 肯定とも否定ともつかぬその仕草に、リディアは小さく微笑む。




 二人が馬小屋を後にすると、朝の街はすでに活気を帯び始めていた。

 行き交う人々の声が混じり合い、荷車の車輪が石を軋ませる音が絶え間なく響いた。


 だが、人々のざわめきの中で、車椅子に乗るトーシュの姿はやはり目を引いた。

 好奇の視線と、忌避の視線。

 彼自身はそれに慣れきっているように表情を変えなかったが、リディアの眼差しは人々を鋭く一瞥してから、再び前を向いた。


「まずは宿を探し直しましょう。しっかりと休息を取らなければ」

「薬で十分だ」

「また悪化されても困ります」


 きっぱりと言い切るリディアの声に、トーシュは小さく息を吐いた。

 彼の顔には諦めにも似た表情が浮かんでいたが、その目の奥に昨夜よりも穏やかな色がわずかに灯っていた。




 石畳の通りを抜けると、市場の広場が開けていた。

 リディアは車椅子を押しながら、視線をあちこちに巡らせる。


「随分と賑やかですね。旦那様、何か食べたいものは?」

「……特にない」

「少しは考えてください。『何でもいい』と答える人ほど手間のかかる客はいません」


 リディアは車椅子を押しながら、通りの一角に立ち並ぶ籠を見やる。


「旦那様、果物はいかがですか? 甘そうですよ」

「要らん」


 あまりに即答で、リディアは小さく笑みを浮かべる。


「そう仰ると思いました。でも、ひとつくらいは口にしていただきたいのですが」


 彼女は熟れた果実をひとつ手に取り、光に透かして眺めた。


「どうでしょう、見た目だけなら私の料理よりずっと美味しそうでしょう?」


 トーシュは答えず、ただ肘掛けを軽く叩いただけだった。

 それを了承と取ったのか、リディアは果実を数個買い取り、袋に入れる。


 続いて香草を扱う店へ立ち寄り、緑の束を手にした。


「これなら薬味にもなりますし、匂い消しにもなります。……私が料理に使えれば、ですが」


 その言葉に、トーシュの眉がわずかに動く。

 リディアはその反応を見て、肩をすくめながら袋を抱えた。


「さて旦那様。そろそろ宿を探しましょう。しっかりと休んでいただきたいですから」

「……また揉める気か」

「いいえ、交渉するだけです。旅には休息も必要ですから」


 トーシュは深い息を吐き、返答はしなかった。



 リディアが買った果物と香草を袋に収め、次の店へ向かおうとしたときだった。

 露店の前を通りかかった荷車が石畳の段差で大きく傾き、積まれていた樽のひとつが転がり出る。


「危ない!」


 周囲の人々が声を上げて散り、樽はごろごろと転がってトーシュの車椅子の方へ迫ってきた。

 リディアが咄嗟に車椅子の取っ手を引き寄せたことで直撃は避けられたが、その衝撃と騒ぎでトーシュの体は大きく揺さぶられた。


 途端、胸の奥に重苦しい熱が灯り、背筋に鋭い痛みが走る。

 呼吸が浅くなり、片目の奥に鈍い痙攣の予兆がじわじわと広がっていく。


「旦那様……!」


 リディアが低く呼びかけ、周囲を一瞥する。

 人々の視線が集まる前に、彼女は素早く車椅子を人混みの陰へ押しやった。


「触るな」

「いいえ、今は……」


 トーシュは吐き捨てるように制するが、その声には力がなく、喉をかすめるような咳が漏れる。

 リディアは袋から香草をひとつ取り出し、指先で揉みしだいて彼の鼻先へ近づけた。


「深呼吸を。すぐに収まります」


 香草の匂いが胸をわずかに楽にし、痛みの波はやや和らいでいく。

 トーシュはしばらく苦しげに息を吐き、それから低く呻いた。


「……些細なことだ。気にするな」

「些細なことではありません」


 リディアの声音はきっぱりとしていた。

「無理をして崩れるほうが、よほど厄介です」


 彼女の真剣な眼差しに、トーシュは言葉を飲み込む。

 まだ胸の奥には重さが残っていたが、その視線の熱が、奇妙に痛みを和らげていくのを感じていた。


 荷車の持ち主が慌ただしく謝罪し、樽を抱えて去っていったあとも、トーシュの呼吸は浅いままだった。

 人混みのざわめきが背後に遠のき、二人の間に短い沈黙が落ちる。


 リディアは袋を抱え直し、ちらりと彼の横顔をうかがった。

「……無理をしないでください、旦那様。どれだけ慣れていても、身体が壊れてしまえば終わりです」


 その声音には、理屈を超えた切実さが混じっていた。

 トーシュは視線を逸らし、肘掛けを指先で軽く叩いた。


「……大げさだ」

「大げさでも、構いません」


 リディアは小さく笑った。けれどそれはほんの少し安堵の滲む笑みだった。


「私は魔女ですが、旦那様の身体はただの人間のものです。だからこそ気を配らなくては」

「魔女らしくないことを言う」

「ええ。そうかもしれませんね」


 彼女はそう答え、再び車椅子を押し出した。




 二人は市場から通りを戻り、大通り沿いの宿屋へ辿り着いた。

 厚い木扉の上には「旅人宿」と彫られた看板が揺れ、窓からは暖かな灯火が漏れている。


 リディアは扉を押し開け、車椅子を押して中へ入る。

 広間には数組の客が卓を囲み、酒を酌み交わしている。

 笑い声と食器の音が満ちていたが、トーシュの姿が現れた途端、そのいくつかがぴたりと止んだ。


 彼は視線を逸らし、何事もないように帽子を深くかぶる。


 カウンターに立つ店主は、最初は商売人らしい笑みを見せた。

 しかしリディアと共にある車椅子と、包帯に覆われたトーシュの姿を認めると、その笑みは急速に引きつり、声の調子を落とした。


「……今は満室でしてね」

「そうですか?」


 リディアは視線を札に向ける。『空室あり』と木札にはっきり書かれていた。

 無言の訴えに店主は目を逸らし、喉を鳴らした。


「いや、その……部屋は空いてはいるが……うちは静かな宿でしてね。あまり厄介事は――」


 トーシュの片眼がわずかに細まる。

 内心では冷ややかな苛立ちが込み上げていたが、声には出さない。

 ただ肘掛けを軽く叩き、無言のまま店主を見据えた。


 リディアが一歩前に出る。


「つまり、旦那様を“客”としてではなく“厄介者”として扱うのですね」


 その声音には冷ややかな棘が混じっていた。

 店主は肩をすくめ、苦笑を浮かべるばかりだ。やがて渋々鍵を差し出し、念を押すように言った。


「……他の客に会わせるなよ。廊下でも声を立てるな。余計な揉め事はごめんだ」


 リディアは硬貨の袋を置き、その手元を睨みつける。

 反論しかけて、代わりに薄い笑みを浮かべた。


「では、静かにしていれば問題はないのですね」


 鍵を受け取り、二階へ向かう。

 奥へ進むほどに人の気配は薄れ、階段の一番遠くに割り当てられた部屋を開けると、中は狭く、窓も小さい。

 外の雨音が滲み込み、寝台と机が置かれているだけの殺風景な空間。

 まるで病人を押し込める隔離部屋のようだった。


 リディアは黙って荷を降ろし、灯火を点けた。

 ちらりとトーシュの横顔を見遣る。彼は静かに目を閉じて、一つ息を吐き出したきり、何も言わなかった。



 リディアは持ち込んだ荷を机に置くと、寝台の上に敷かれた粗末なシーツを整え始めた。

 布は湿気を含んで冷たく、窓から漏れる雨音がそれをさらに重く感じさせる。


「……湿っていますね。これでは休めません」


 彼女は掌をかざし、ほんのわずかに魔力を散らした。

 布の表面からじんわりと蒸気が立ち、しっとりしていた感触が乾いていく。

 あくまで自然の範囲に収めた魔法で、人目のないこの場だからこそ許された処置だった。


 トーシュは車椅子に腰掛けたまま、それを無言で見ていた。

 肘掛けに置いた指先が、わずかに机の縁を叩く。


 乾いた寝台に毛布を重ね終えると、リディアは振り返った。

「旦那様、どうぞ」


 トーシュはしばし視線を逸らし、ゆるく頷く。

 立ち上がる動きを支えようとリディアが近づくと、彼は一瞬肩を引いた。

 しかし結局は抵抗を見せず、その手に身を預ける。


「……余計なことを」


 寝台に横たわりながら、彼はかすかに呟いた。それにリディアは口元にわずかな笑みを浮かべる。


「余計かどうかは、旦那様が明日元気で起きられるかで決まります」


 彼女は毛布を掛け、枕元に灯火を置き直した。

 部屋に満ちるのは、雨音と二人の呼吸だけ。


「明日は天気が回復するといいですね」


 リディアがぽつりと言う。


「街道も歩きやすくなりますし、旦那様のお身体にも」


 トーシュは枕に頭を沈めたまま、返事をしない。

 ただ片眼を閉じ、吐息だけが静かに漏れた。


「……薬は枕元に置いておきます。咳が出たらすぐに」


 リディアが小瓶を机に置くと、トーシュの指がわずかに動き、肘掛けを叩く仕草がそれに代わる。


「心配していると思われるのは……嫌でしょうけど、私にとっては妻の務めですから」


 その言葉に、トーシュの睫毛がかすかに震える。

 だがやはり言葉は返さず、目を閉じたまま天井を仰ぐように息を整えるだけだった。

 リディアはそれ以上追わず、椅子の背にもたれて外套を引き寄せた。


「おやすみなさい、旦那様」


 雨音が窓を叩き、灯火が小さく揺れる。

 外の喧騒から切り離されたその静けさは、奇妙に親密で、そして少しばかり息苦しかった。


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