16. 魔女の矛盾、夫の沈黙
夕刻、二人は谷を抜けて小さな城塞都市の門に辿り着いた。
高くそびえる石壁の前には人と荷車が列をなし、衛兵たちが一組ずつ厳しく検めている。槍の石突きが石畳を打ち、甲冑のきしむ音が規則正しく響いていた。
前の行商人は袋の中身をすべてひっくり返され、干し肉を指で裂かれてまで検査されている。別の旅人は通行証を持たずに揉め、背後から別の衛兵に腕をねじ上げられていた。城門の下に漂う空気は、日常でありながら、常に何かを弾き出す緊張を孕んでいた。
順番が近づくにつれ、リディアの押す車椅子へも周囲の視線が集中する。
片目の包帯男、無骨な車椅子――ただの旅人には見えないその姿は、人々のざわめきを自然と呼び込んだ。
「次」
衛兵が顎をしゃくり、槍を横に構えて通せんぼをする。
リディアが差し出した硬貨袋を受け取った兵士は、一瞬だけ眉をひそめ、ちらと車椅子に目をやった。
「……病人か?」
「夫です」
答えは淡々としていた。
兵士は目を細めたが、それ以上は詮索せず、金を確かめて通行税として受け取る。
「行け」
通された後も、門の影に立つ別の兵士が最後まで視線を外さなかった。
城門を抜けた先の街並みでは、往来の人々がちらちらと視線を寄越す。
片目の男を乗せた車椅子――その異様な姿は、人々の好奇と嫌悪を同時に引き寄せるのだった。
やがて大通り沿いに立つ宿屋に辿り着いた。
木製の看板には「旅人宿」と書かれ、灯りが窓から暖かく漏れている。
リディアは扉を開き、カウンターにいる店主へと歩み寄った。
「今夜二人分の部屋をお願いします」
店主は笑みを浮かべかけ――背後にいるトーシュを一目見て、顔を強張らせた。
包帯に覆われた姿、冷たい隻眼。
店主の口元から、笑みはすぐに消える。
「……悪いが、部屋は埋まってる」
「表の札には空きがあると出ていましたが?」
リディアの指摘に、店主は気まずそうに目を逸らした。
「いや……部屋は空いてるが、うちの宿はそういう客は受け入れんのさ」
言外に「不気味で、厄介そうな客はご免だ」と言っている。
トーシュは何も言わず、ただ肘掛けを軽く叩いただけだった。
「……馬小屋なら貸してやれる。藁も敷いてあるし、雨風は凌げる」
「なるほど。つまり人としてではなく荷物としてなら置いてやれる、と」
リディアの声音は静かだったが、その奥に冷ややかな態度が滲んでいた。
店主は肩をすくめ、視線を逸らして答えない。
一歩前に出ようとしたリディアの腕を、トーシュが制した。
「いい。……馬小屋で構わん」
「しかし――」
「慣れている」
淡々とした言葉。
だがその声音に滲むのは、諦念でも怒りでもなく、ただ疲れきった響きだった。
店主が背を向けようとしたその時、リディアは一歩踏み出し、静かに言葉を重ねた。
「……旦那様の身体は長旅で弱っているのです。せめて床のある部屋を」
店主は口を開きかけたが、トーシュが低い声で遮った。
「やめろ。これ以上、無駄口を叩くな」
「ですが――」
「慣れていると言ったはずだ。藁の上であろうと、同じことだ」
声に苛立ちはなく、ただ決して動かぬ意思がこもっていた。
リディアはしばし唇を結び、店主を睨みつけた視線をゆっくりと外す。
「……分かりました。馬小屋を借ります」
振り返ったとき、その横顔には諦めと同時に、微かな苦さが滲んでいた。
店主は安堵したように頷き、鍵束を取り出して裏手を指さす。
夕闇の中、二人は裏庭に回り、木柵に囲まれた馬小屋の前に立った。
馬たちの吐息が白く揺れ、干し草の匂いが鼻をつく。
リディアは扉を押し開け、車椅子を中に入れると、用意された藁を確かめて指先でほぐす。硬い藁の感触が冷たく、彼女は小さく息を吐いた。
「……冷えますね」
「藁があれば十分だ」
そう言う彼の声は淡々としていたが、肩の呼吸は浅く、疲労を隠しきれてはいなかった。
リディアは黙って外套を脱ぎ、彼の肩に掛ける。布がわずかに擦れる音が、静かな馬小屋に響いた。
「旦那様の意志は尊重します。ですが……せめて休めるように整えます」
その声音は冷静でありながら、どこか柔らかさを帯びていた。
トーシュは返事をせず、ただ視線を逸らした。睫毛の影が頬に落ち、瞳の奥にかすかな苛立ちが揺れている。
干し草を敷き直し、彼女は小さな灯火を吊るす。馬の蹄の音と鼻息が遠くに響く中、リディアは今夜の寝床を整える。
背を向けたままの彼女に、トーシュは低く声を掛けた。
「さっきのあれはなんだ?」
「はい?」
「店主に反論しただろう」
リディアは手を止めて振り返る。淡い光に照らされた横顔は、わずかに戸惑いを浮かべていた。
「私がどういう目で見られているかなど、理解しているはずだ。渋られるのも初めてではない。なら、どうするべきかは分かっているはずだ。無駄に波風を立てるのは賢いやり方ではない」
明朗な声音は淡々としていた。けれどその声の裏には苛立ちが滲んでいる。
「ですが、それでは旦那様が」
言いかけた声は、自分でも驚くほどに急いていた。彼女は慌てて息を整えたが、トーシュの眼差しは冷ややかだ。
「私の心配でもしているつもりか? 心にもないことを言うな」
その一言に胸を刺され、リディアは肩を揺らす。心当たりを否定できず、唇がわずかに震えた。干し草の匂いが強く鼻を刺し、胸の奥の痛みを誤魔化すことはできなかった。
「っ、私は妻として」
「人の目を気にする必要もないこの状況でも、出てくる言い訳はそれか」
リディアは言葉を失い、口を閉ざす。彼の鋭い眼差しは、藁の上に落ちた灯火の光を反射し、刃のように冷たかった。
「他人の視線を浴びるより、お前のそういう態度が一等不快だ」
言い捨てて、トーシュは肩に掛けられた外套を払い落とす。布が床に落ちる鈍い音が響き、わずかに馬が鼻を鳴らした。
トーシュの静かな拒絶に、リディアは唇を噛んだ。
彼女の指先は、外套を拾い上げることもできずに宙をさまよい、冷たい夜気の中に取り残される。
「魔女なら、魔女らしくしていろ」
その言葉は鋭く胸に突き刺さった。
トーシュに拒絶され、リディアは落ちた外套を拾い上げた。
指先に冷たい布の感触を覚えながら、ふっと苦笑を漏らす。笑みは薄く、痛みを覆い隠すようにも見える。
「……そう言われるのは、わかっています。私は魔女で、妻らしいことなど似合わない」
藁の上で彼女の影が揺れる。灯火に照らされた横顔は凛としていたが、その声音にはかすかな震えが混じっていた。
「けれど、旦那様を放っておけないんです」
言葉が零れ落ちた瞬間、リディアは自分でも驚いたように息を呑む。
口に出した途端、それがどれほど自分の本心に近いのか気づかされ、戸惑いに胸が熱くなる。彼女は思わず視線を伏せ、外套を抱き締めた。
馬の鼻息と藁を踏む音が、沈黙の間を埋める。彼女は掠れるような声で続けた。
「理由は、私にも分かりません。ただ……見ていられないんです。苦しそうにしている姿を」
「退屈を嫌う魔女だからでしょうか。あなたを前にすると、不思議と……手を伸ばさずにいられない」
言葉を重ねるたび、リディアの胸には苦味が広がっていく。
魔女としては冷徹であるべきなのに、どうして自分はこうまで揺らいでしまうのか。
外套を胸に抱え、リディアは小さく息を吐いた。
「……それが私の矛盾です。旦那様には、不快でしょうけれど」
声の最後はほとんど囁きのようで、彼女自身も聞き取れたかどうか分からないほどだった。
その眼差しに揺らぎはなく、理由も説明もできない情がただそこにあった。
トーシュは思わず息を呑む。
脳裏に浮かんだのは、あの日――奴隷市場の片隅で彼女を見たときのこと。
彼を見つめる人々の視線はいつも同じだった。憐れみ、嫌悪、あるいは値踏み。
どの目も彼にとっては刃のようで、耐えるしかない重荷だった。
だが、リディアの視線だけは違っていた。
彼女は怪物を見るような目も、哀れむような目も向けなかった。
まるで当たり前のように、「一人の人間」として彼を見ていた。
そして今も、その眼差しは変わらない。
「放っておけない」と口にした彼女の言葉が、初めて出会ったときの沈黙と重なり合い、トーシュの胸に深く染みこんでいく。
拒絶の言葉を飲み込み、トーシュはしばし彼女を見つめ返した。
胸の奥が、どうしようもなくざわめいていた。
「……勝手にすればいい」
そう口にしながらも、胸を締めつけていた不快感は、不思議と影を潜めていた。
苛立ちや屈辱のはずが、彼女の眼差しに触れるたびに溶かされ、代わりに胸の奥で正体の分からない熱が広がっていく。
リディアは返事をせず、静かに外套を持ち上げると、ためらいがちに彼の肩へ掛け直した。
その仕草はぎこちなくも優しく、布の重みが肌に触れた瞬間、トーシュは思わず目を閉じる。
「魔女らしくしろ」と自分で言い放ったくせに――彼女のこうした行為を、完全には突き放せない。
それがまた屈辱でありながら、同時に奇妙な安らぎでもあった。
干し草の香りと、馬の静かな吐息。
そして隣に立つリディアの気配が、夜の冷えを和らげていく。
トーシュは言葉を継がず、ただ浅い呼吸を整えながら天井の暗がりを仰いだ。
胸のざわめきは収まらず、それでも――先ほどまでの不快さより、ほんの少しだけ温かなものに変わりつつあった。
そんな彼の横顔を見て、リディアは小さく息を吐く。
完全に受け入れられたわけではない。それでも――拒絶されなかった。
それだけで、胸の奥に冷たく張りついていたものが少しだけ緩む。
彼女は腰の小袋から小さな瓶を取り出した。
淡い香草の匂いがふわりと漂い、琥珀色の液体が灯火にきらめく。
「旦那様、咳止めです。少し苦いですけど……今夜は冷えますから」
差し出す手は、魔女の冷酷さとは似つかわしくないほど穏やかだった。
トーシュは視線を落とし、瓶を受け取る。
手に伝わるぬくもりが、不快さを拭うようにじわりと染みこんでいく。
薬を口に含むと、喉を通る苦味の奥に微かな安らぎが広がった。
その感覚とともに、先ほどまで胸を占めていた苛立ちはさらに和らぎ、代わりに言葉にできない静けさが、雪のように心に降り積もっていった。




