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15. 尊厳の裂け目

 

 山道を半日登り続けた末、二人は岩陰を選んで野営を張った。

 風除けになる巨岩の下に天幕を広げ、焚き火に乾いた枝をくべる。

 火は頼りなく揺れ、冷え切った空気をかろうじて押し返していた。


 夜は静かすぎた。

 虫の声もなく、ただ遠い山鳥の鳴き声が、谷を隔てて反響する。

 嵐の夜とは違い、音のなさがかえって圧し掛かるようだった。


 トーシュは毛布を肩に掛けたまま横になり、ゆっくりと呼吸を繰り返した。

 だが胸の奥は重く、浅い咳がときおり堪えきれずに洩れる。


 リディアは無言で薬草を砕き、湯に溶かして差し出す。


「少しでも楽になります」


 声は淡々としていたが、差し出す手はいつもより長く彼の口元に留まった。

 トーシュは受け取り、苦味に顔をしかめながらも飲み干す。


「……毒か薬か、味だけでは判じ難いな」

「毒でも、効果があれば十分です」


 リディアは火に枝を足しながら答えた。

 火花が弾け、彼女の横顔を赤く照らす。


「なるほど。つまり私は、効き目がなくなるまで毒と薬のあいだを揺れ動く存在というわけだ」

「生きている以上、誰しも同じです」


 リディアの声音は静かだった。


「命は有限で、救いにも災いにも転ぶ。……旦那様の場合、少し極端な形を取っているだけ」


 トーシュは短く息を吐き、焚き火を見つめる。


「そう言われると、私の存在も平凡に思えてくる」

「平凡は悪くありません」


 リディアは毛布を整え直し、彼の肩に掛ける。


「非凡なものは、往々にして長くは続きませんから」


 トーシュは返答せず、火に揺らめく影を見つめ続けた。

 その胸にはなお鈍い痛みが残っていたが、不思議と息は少しだけ楽になっていた。


 焚き火の音が夜を刻み、静かな時間が過ぎていく。

 互いの言葉は皮肉と淡々さで覆われていたが、その奥にはかすかな重みが残り、消えずに積もっていった。




 夜明けの光は冷たく、山肌を淡く照らしていた。

 霧はまだ谷に残り、風が吹くたびに白い靄がちぎれて流れていく。


 トーシュは車椅子に腰を落ち着けながら、ゆっくりと息を吸った。

 肺の奥はまだ重く、咳を抑え込むたびに胸が軋む。

 それでも昨夜ほどの苦しみはなく、顔色もいくらか戻っていた。


「峠を越えるなら、今が好機です」


 リディアは淡々と告げ、荷を背に回した。


「日が高くなれば霧が濃くなり、道も滑りやすくなります」

「……なるほど。では私の命は、山の天候次第というわけか」

「人の命など、いつだって天候次第です」


 リディアは揺るぎなく答え、取っ手を握って車椅子を押し出した。


 岩と泥が入り混じる道は、わずかな段差でも大きな障害となる。

 車輪が石に取られるたび、リディアの肩に力がこもった。

 トーシュは無言のまま、その振動を身体で受け止める。

 包帯に覆われた指先は肘掛けを固く握りしめ、時折小さく咳を洩らした。


 谷を見下ろすと、はるか下に昨日通った宿場町が霞んでいた。

 石造りの屋根が点のように並び、霧に半ば隠されている。

 トーシュは一瞥すると視線を戻し、吐息をもらした。


「随分と遠くに来たものだな」

「まだ半分です」


 リディアは声を張らず、落ち着いた調子で答えた。


 山道を打つ靴音と、車輪の軋む音だけが続く。

 冷たい風は頬を切り裂くようだったが、それでも二人は止まらなかった。




 峠を下りた谷は霧に覆われ、湿った風が冷たく頬を撫でた。

 やがて、道の先に小さな廃村が現れる。

 屋根は崩れ、壁は蔦に覆われ、静寂の中に腐臭だけが漂っていた。


 リディアは足を止め、崩れた家屋の奥へと入った。

 床には瓶の破片と黒ずんだ染みが広がり、傍らに小瓶が転がっている。

 中には赤黒い液体がまだ半分ほど残り、濃い鉄の匂いを放っていた。


「旦那様、これはホムンクルスの残骸ですね」


 彼女はそれを拾い上げ、掌で転がす。


「……試してみましょう」


 低く呟き、符を取り出して液を地に垂らした。


 空気が重く沈み、霧が震えた。

 液体は泡立ち、やがて丸みを帯びた塊となる。

 透明な膜の下で赤黒いものが蠢き、細い突起が芽吹くように伸びた。


 それは小さな掌のように見えた。

 未完成の指が震え、掴むこともできぬまま空を探る。

 胸郭にも似た影がわずかに上下し、ひゅう、と息を模した音が洩れた。


 ――まるで産声の前の呼吸。


 トーシュは隻眼を見開き、息をするのも忘れてその動きを見つめた。


 次の瞬間、膜が裂けた。

 未熟な手足は支えを失い、泥とともに崩れ落ちる。

 脆い骨のような欠片が床に散り、弱い呻きめいた音を最後に消えた。

 残ったのは鉄錆の臭気と、血より濃い黒い染みだけだった。


 リディアは無表情に符を燃やし、指先を拭った。


「……素材が不完全。完成には至らないですね」


 声には落胆も迷いもなく、ただの観察記録のように淡々としていた。

 トーシュは唇を痙攣させ、掠れた声を洩らした。


「人形……ではない、のか」


 胸の奥から吐き気が込み上げ、車椅子の肘掛けを強く握る。

 震える息を吐き、リディアを見据えた。


「お前にとって、これはなんだ?」


 リディアはわずかに目を伏せ、そして静かに答えた。


「命です。だからこそ、器を間違えればすぐに壊れる」


 トーシュは乾いた笑いを洩らした。


「……器、つまり、もっと都合の良い材料が要るというわけか」


 隻眼には、皮肉よりも嫌悪が色濃く宿っていた。


「人の命を部品扱いして選り好みするなど……尊厳を踏みにじる所業だ」

「命は元来、脆いものです」


 リディアは冷ややかに言い切った。


「その儚さを、正しく扱う者だけが制御できる」


 トーシュは隻眼を細め、吐き捨てるように言った。


「……制御だと? 人を器と呼ぶ時点で、すでに冒涜だ」


 リディアは反論せず、ただ小瓶を懐に仕舞った。

 霧の向こうを見据える横顔には、迷いの影すらなかった。


 トーシュは胸の奥に重さを抱えたまま、隣を歩く女を横目で見た。

 冷徹に「素材」と言い切ったその横顔。

 あれが彼女の本質――魔女としての在り方なのだと分かっていた。


(分かっていたさ。最初から、こういう女だと)


 そう思うほどに、胸の奥で渦巻く嫌悪は強くなる。

 人を「器」と呼ぶ、その無造作さは到底受け入れられるものではない。

 それでも――彼女なしには生きられない。


 吐き気にも似た苦さが喉にこみ上げた。

 結局、自分はこの女に頼らなければ歩くことすらできない。

 その事実こそが、尊厳を削る刃だった。


 唇を歪め、低く言葉を零す。


「……やはりお前は、魔女だな」

「旦那様、それは最初から分かっていたことではないのですか?」


 トーシュは視線を伏せ、車椅子の肘掛けを握りしめた。

 嫌悪と理解、矛盾する思いが胸を締め付ける。

 その痛みが現実のものに変わるように、胸が痙攣し、浅い咳が洩れた。


 肩が震え、肺の奥が焼けるように痛む。

 ――どうにもならない。

 彼女を拒絶すれば命が潰え、受け入れれば誇りが削られる。


 どうしようもなく、どうにも出来ない。

 そんな自分自身への怒りが、体調の悪化をさらに悪化させていくようだった。




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